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銀座の鐘

「嵐を静める主イエス」

説教集

更新日:2024年06月29日

2024年6月30日(日)聖霊降臨後第6主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村 満

マタイによる福音書 8章23節~27節

1,キリストを信じるとは?
本日、私たちに与えられました御言葉は、マタイによる福音書の8章23節から27節であります。ここでは、嵐を静める主イエスの奇跡の御業が語られております。この箇所が重要な箇所であることは、共観福音書と呼ばれます、マルコ福音書とルカ福音書にも同じ物語が書かれてあるということからもわかります。新共同訳聖書は御親切に、見出しが書かれてあります。「嵐を静める」という見出しが書かれております。これはもともと聖書の原典にはない見出しですので、礼拝で朗読されるときには、この見出しは読まないのですが、しかし便利なものではあります。この箇所ではその見出しの下に、聖書箇所が記されている。マルコとルカにもこの物語が語られているということがそこでわかるのです。それぞれの福音書で強調点は違いますが、大切な物語であるからこそ、マルコにも、ルカにも語られているのでしょう。ここでは、信仰生活とはどのようなものであるのかということが見えてまいります。キリストを信じた人は、その信仰によって、キリストに従うように命じられるのだということです。本日与えられた箇所より少し前の箇所であります8章の18節で、このように語られています。「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」向こう岸に行こうと命じられたとき、弟子たちの中には、もしかすると嫌だなあと感じた者もいたかもしれません。でもそのような思いを横に置いて、主イエスに皆、従ったのです。信仰とは、私たちの心の中から生まれてくるような空想や、単なる信念ではなく、外から与えられたものです。それが、御言葉に従って行くときにはっきりとわかってくる。逆に言えば、聖書の語る御言葉に従って行く。信じて実践していくということをしないと本当にはわからないものであると言えます。

 そのように、主イエスの御声に聴き従って歩むときにはじめて、私たちは、キリストの恵みを、手で触り、味わい、実感していくもの。ああ、本当に神様は私たちと共に生きておられる!とわかってくるものなのだと思います。そのことがわかるには、信頼して、主イエスの御言葉に聞き従って行くときであります。もっといえば、主イエスを信じた時、わたしたちは誰であろうと、等しく主イエスの弟子となるのです。主よ、わかりました!と言って従う者にのみ、主イエスはその力を与えてくださるのです。そしてそこに今も生きておられる主イエスとの人格的な交わりが生まれるのです。

2,主イエスが乗り込んでくださった舟

 23節にこのように語られます。「イエスが舟に乗りこまれると」向こう岸に行くために、主イエスはまず、御自身が真っ先に舟に乗り込んでくださいました。これが大事なのです。私たちの人生は、初めから終わりまで、主イエスに従って歩む人生であります。しかし、従う私たちは、ただ、主イエスの後ろをついていくだけなのです。主イエスが先頭に立ってくださる歩みです。だからこそ心強いのです。
 舟とは、古代より、教会を表してきました。この世界の荒波を乗り越えていく、神の国に向かう航路です。わたしたちは一人で神の国へ向かうのではなく教会という舟に皆で乗って向かうのです。しかし、教会が舟であるというのならば、その船旅はいつも厳しいものとなります。内に外に、舟は揺れるのであります。初代の教会から教会には嵐のような厳しい試練が待ち受けていました。外からの嵐は、ローマの迫害でした。その迫害がコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教の公認となり、迫害が完全に止むまで、優に300年ほどかかったのです。それは厳しく長い嵐であったに違いないのですが、実はそれよりも厳しい嵐は、キリスト教の内側から出てきた、グノーシスという異端的信仰との戦いであったと言われております。なぜなら、外からの迫害によって教会の信仰が途絶えることはなかったけれども、グノーシスという異端の脅威は、もっと危険であった。なぜなら、キリストをどのように信じるかということで間違った信仰が、正しい信仰を侵食してしまう危険があったからです。しかしそのようなグノーシスとの戦いの中で、使徒信条が生まれたと言われております。教会の信仰は、戦いの中で、確立していったのです。また、それ以降も、教会の歴史は、信仰の戦いの歴史でありました。嵐の連続であったのです。わたしたち銀座教会もまた、さまざまな戦いがあったのだと思います。しかし、わたしたちの教会にも、いつもその真ん中に、主イエスが共にいてくださったのであります。
 視点を変えて、私たち一人一人の人生行路を導くのも、主イエスであります。わたしたちはこれまで、主イエスに本当に従って歩んできたと言えるでしょうか。おぼつかない歩みであったことを告白せざるを得ない。わたしたちの歩みは皆、そういうものではないでしょうか。しかし、私たちは、いつも主イエスに祈り、主イエスに従う者とされたのです。たとえ、旧約聖書のヨナ書に登場する、神の命令に逆らって逃げた預言者ヨナのように、主の命令から逃げたとしても、主はわたしたちをとらえて離さないのです。
 こういう、厳しさも伴う神の導きをある人は強いられた恩寵と呼びました。わたしたちは神が与えてくださる、その強いられた恩寵。強いられた恵みの中で、主に従う者とされているのです。主イエスと共に弟子たちは、舟に乗り込みます。すると大きな嵐が起こります。弟子たちは恐ろしくなって、「主よ助けてください、おぼれそうです」、と叫びました。この弟子たちの中には元漁師がいました。ペトロやアンデレたちです。彼らは、漁師の経験の中で、ある程度の嵐には慣れていたはずです。その漁師であったペトロ達でさえも恐れて叫んでしまうほどの厳しい嵐であったのでありましょう。わたしたちの人生に起こる試練の一つの意味として、私たちがその試練の中で、神を信頼する者へと成長するためにそれぞれに試練が与えられると言えます。それは、私たちが耐えられると思うようなぬるいものではなく、わたしたちが、主の助けを求めなければならないほどの試練であります。そうでなければ試練ではないし、容易に耐えられるなら、誰も、神に叫ぶことはありません。ペトロやアンデレのような元漁師が叫ばなければならないほどの絶体絶命と言えるひどい大嵐であったのです。しかし、なんと主イエスはこのような大嵐の中で、ぐっすりと眠っておられました。これは主イエスが特別豪胆な精神の持ち主であるとか、超人であるとかいうことを表しているのではなく、むしろ父なる神への全幅の信頼をもっておられたということを表しております。
 ここで、主イエスは、二つの側面を弟子たちに見せておられます。一つは、神を本当に信頼する者として模範です。心から神の摂理からくる御守りを信頼する者は、嵐の船の上でも眠ることができるのだという、模範です。二つ目には、このあとなされる奇跡を通して、主イエスが神として自然界を支配する権威をもっておられたということを表します。大きな嵐が静まった時、弟子たちは、この嵐を静める権威をもった主イエスの力に驚き畏れたのです。

3、信仰の薄い者たちよ!
 弟子たちに眠っていたのを起こされて、主イエスは言われます。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」この言葉の原文は、「信仰の小さき者よ」という意味であります。弟子たちの信仰は、薄く、小さき信仰でありました。小さな信仰といえば、主イエスはこのようにも語られました。からしだね一粒の信仰があれば、山を動かすことさえできるのだ、と。そうであるなら、弟子たちには、からしだね一粒の信仰さえないということでありましょう。それほどに小さな信仰です。ルカによる福音書の並行記事では主イエスはこのような言葉で語っておられます。「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」お前たちの信仰が、どこにあるのか分からないぞ。見えないぞ、と言われたのです。つまり、わたしたちの神への信仰は、小さくてもよい。試練のとき、いざという時にここにある、と言える信仰でなければならないのです。どこにあるのかわからないほどに小さな信仰であってはいけないのであります。しかし、実際、試練の中で、私たちの信仰の弱さが露呈されます。牧師だろうが、信徒だろうが、人生においては皆、試練を受けるのであります。そして神への信仰は、従って行かなければ、確かなものとはならないのです。しかし、主に従っていく中で、神様がまるで眠っておられるかのように感じることも確かにあるのです。祈っても、すぐに状況が変わらないようなときです。神様!と叫んでいるのにもかかわらず、なかなか状況が変わらないようなときです。嵐がすぐに静まらないのです。主への信頼ではなく、嵐の恐怖が弟子たちの心を支配しています。それは、神への信頼が弱いからです。もっといえば、目に見えるものだけを基点としているからです。たとえ嵐が吹きすさぶような状況であろうとも、この世界は主なる神の御支配の中にあり、主がわたしたちの舟に乗り込んでくださっているということを信頼しなければ、どんどんと、死の力。闇の力に取り込まれてしまうのです。そのような嵐の方が、神様よりも大きいと思い込んでしまうのです。しかし、主イエスは、そのような死の力を十字架において打ち破ってくださったのです。弟子たちはやがてそのことを知ります。そして、どんな世の力をも、十字架の主イエスへの信頼によって耐える者。希望する者へと
変えられていくのです。
 主イエスは、私たちの真ん中に、私たちの生活の真ん中に平安の内に伴ってくださっております。このような主なる神への信頼について、すでに旧約聖書においても語られております。イザヤ書の30章15節ではこのように語られています。
「まことに、イスラエルの聖なる方
 わが主なる神はこう言われた。
『お前たちは立ち返って
 静かにしているならば救われる。
 安らかに信
 頼していることにこそ力がある』と。」
このとき、イスラエルの分裂した南の王国ユダが、敵であるアッシリアの脅威から逃れるために強大な隣国であるエジプトに頼ろうとしたとき、主なる神が預言者を通して与えられた御言葉です。私たちも、厳しい試練のとき、世の中の声に、世の知恵に、世俗の人々の考えなどに頼ろうとする誘惑があります。しかししばしばそれは聖書の教えに反することがある。そうではなく第一に聖書が語る御言葉に単純に従うこと。主に立ち返って静かに信頼すること。そのような姿勢でいることが私たちに求められるのです。そこで、わたしたちの信仰は、ただ嵐の中で耐え忍ぶということではありません。大切なことは、嵐の中でも主イエスが共におられることを見ることができるか、ということです。主イエスは嵐の中でも共におられるのです。その主イエスを見る心の目を開くとき、嵐を耐え忍ぶ力も与えられるのです。そして嵐はやがて凪となります。主イエスがこの嵐を静められるであろうとの信頼をもって静かに待つ時、必ず嵐は止むのです。

・驚く人々
 主イエスは、風と湖をお叱りになりました。すると、すぐに、嵐は静まり、凪になりました。人々は、驚いて言います。「いったいこの方はどういう方なのか」と。ここで「人々」という表現で語られていることに注目したいのです。この船の中には弟子たちしかいませんでした。にもかかわらず、「人々」、とあります。なぜでしょうか。ある人がこのように語っております。なぜ、「人々」、とあえて語られたのか。それは、この物語の枠を超えて、この聖書の物語を聞く、全世界の、全ての時代のキリストを信じる人が、共に、嵐を静められた主イエスへの偉大なる御業を驚いているのだというのです。わたしたちもまた、そのような、時代を越えてこの物語を聞くのです。あたかも今わたしたちも主イエスの舟に乗り込んでいる弟子たちの一人となって、この嵐を静める主イエスの御業に驚き、畏れる者とされたいのです。しかしわたしたちは知っています。知らされたのです。この、大自然をも支配される方。イエス・キリストとは誰であるか。この全宇宙と、来たるべき神の御国の王であられる方である。永遠の昔から、父なる神と共におられる、子なる神であると。わたしたちは知らされているのです。
 この主イエス・キリストを真の王、真の救い主として驚き、讃えるところにこそ、私たちの教会の力があります。私たちは日々、その人生の歩みの中で、このイエス・キリストというお方と出会うことが許されているのです。嵐の中でも、共におられる主イエス。この主への信頼を胸に秘めて、主イエスの大いなる権威の中に生かされて、嵐の日にも、主イエスと共に歩んでいきたいのです。

祈り
  天の父なる神様。わたしたちの信仰は、からしだね一粒ほどにもないほどの、小さな信仰であります。その不信仰をおゆるし下さい。しかし嵐の日に、あなたがわたしたちと共に生きてくださることを信頼します。どうか、どんな嵐が起こっても、あなたがわたしたちの人生の主であり、その嵐を凪にしてくださることを信頼して静かに待つ者とならせてください。神がわたしたちの人生を導き助けてくださる方であることを、経験させてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン