銀座教会
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銀座の鐘

「わたしに従いなさい」

説教集

更新日:2024年07月06日

2024年 7 月 7 日(日)聖霊降臨後第 7 主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書9章9~13節

 主イエス・キリストは、4人の漁師に「わたしについて来なさい。」と声をかけ、彼らを弟子にされました。主イエスは、この弟子たちと共にガリラヤ湖中を回って、諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気を癒やされました。マタイ福音書 4 章に記されている通りです。そしてマタイ福音書 5 章から 7 章まで山上の説教を通して御言葉を語り、8 章から 9 章 8 節まで多くの人々を癒やす、愛の業が行われました。
 こうして振り返りますと御言葉の伝道に応答して愛の業が行われている大切なリズムがあることに気付かされます。主イエスの伝道が、主イエスの福音伝道と愛の業は無関係ではなく、対応していることが分かります。主イエスの伝道は、教えがあって愛の業が行われているのです。
 主イエスの伝道と愛の業は、コインの裏表のように切り離すことが出来ない関係になっています。主イエスの愛の業は、主イエスの教えによって与えられ、主イエスの教えは主イエスの愛の業によって実を結ぶのです。ですから、私たちは主イエスの愛の業だけを求めたり、主イエスの教えだけで十分と考えてはならないのです。主イエスの愛の業と主イエスの教えが一つであるということは、主イエスを通して神が生きて働いているということの現れです。主イエスの教えは愛の業を生み出し、主イエスの愛の業は主イエスの御心を示しているのです。
 本日与えられた聖書の御言葉は、9 節「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
 主イエスは弟子たちと共にガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地方で伝道し、悪霊に取り憑かれた人を癒やされ、再びガリラヤ湖を横断してカファルナウムに帰ってきました。帰るやいなや、主イエスは、収税所に座っているマタイを見かけました。そして「わたしに従いなさい」と声をかけました。主イエスによって声をかけられた徴税人マタイは、収税所を後にして主イエスの弟子になりました。
 主イエスは自分の町に帰ってきて、癒しの業を行った直後、収税所の徴税人マタイに目を留めたのです。9 節 10 節には「徴税人や罪人」とあるように、当時の徴税人は罪人として数えられていました。主イエスがマタイに目を向け、声をかけたことは、この主イエスの行動として神の御心が示されているのです。神の御心は「罪人を招くため」、罪人に目を向けない神ではなく、罪人にこそ目を向けるのが主イエスなのです。
「マタイという人が座っている」という言葉には、非常に興味深い意味が隠されています。マタイが収税所になぜ座っているのかを説明することが出来る言葉なのです。 当時の人々は、地面に座る習慣がありました。この座っているとは「カセーメノン」というギリシャ語が用いられています。この言葉は、座って仕事をしていたという意味と同時に、悲しみや懺悔のために人が地面に座りこんでいることを説明しています。もう一つ、この言葉は、「特別な地位にある人が特別な椅子に座っている」ことを表現する時にも使われます。すなわち、徴税人マタイは、周りから見たら偉そうな「特別な椅子に座っている」ように見えたでしょう。人々はこの罪人に近寄りたくなかったことでしょう。ローマ帝国の出先機関である収税所に座っているということは、社会的には権力をもつ人です。しかし、主イエスは「カセーメノン」という言葉で表現しているのはマタイが「悲しみ懺悔のために座っている」と見たということでしょう。多くの人が権力者として見ていたであろうマタイのことを主イエスだけは悲しみの人として見ていたということをこの「カセーメノン」座っているという言葉が表現しているのです。
 主イエスはそのようなマタイを「見かけ」たのです。「見かけた」と言う言葉は、ギリシャ語では「エイデン」という言葉です。この言葉の意味は、ただ遠くから見るというのではなく、「会う」とか「訪ねる」という意味をもっています。主イエスがマタイを見かけたということは、群衆の中にこの徴税人を見つけ、誰からも敬遠されていたこの人に会いに行き、彼を訪ねたということを伝えているのです。この行動が主イエスの御心を説明しています。
「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 9 章の最初の中風の人の癒しに続いて、マタイへ目を向けられた主イエスの愛の業がここに記されているのです。重い病が癒やされることだけでなく、徴税人マタイが主イエスに従うことも、主イエスの御心が行われているという意味で神の愛の御業ではないでしょうか。
 マタイは、この世の富や権力を重んじる人から見れば立派な椅子に座っていた人です。そして当時のユダヤの社会の人々からは、友達になりたくない罪人の中の罪人です。一緒にいたくない、一緒に食卓を囲むことなど到底考えられない人です。人々は徴税人こそ神の救いから最も遠い人であると考えていました。しかし、主イエスはそのような、当時の社会の律法によって救われないと思われていた人にこそ、目を向け愛の業をもって訪問されるお方なのです。
 マタイは「わたしに従いなさい」という主イエスの声を聞き立ち上がりました。「立ち上がる」(アナスタス)という言葉は、単に座っている椅子から立つという意味ではなく、もっと宗教的な意味をもつ言葉です。実は聖書において、アナスタスは「死者の復活、よみがえり」を現す言葉でもあるのです。マタイによる福音書は、収税所に悲しみと懺悔して座っていた徴税人マタイが、立ち上がることをよみがえったと表現しているのです。生ける屍だった罪人が主イエスに従うために立ち上がったことこそ、マタイのよみがえりであると語っているのです。この出来事はマタイにとっても教会にとっても大きな喜びの出来事です。だから、続く10 節以下にお祝いの席が記されているのです。10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」
10 節の食事には、主イエスに招かれたマタイが立ち上がり、復活したという喜びの食卓なのです。主イエスと弟子たちはマタイだけでなくマタイの家に集まった人々と同席して喜びを分かち合っています。しかし、この主イエスの喜びが分からない人々がいます。主イエスがなぜ罪人と喜んで食事をするのか分からない人が登場します。
11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
 主イエスの食卓には、当時の常識では、救いから漏れていると考えられていた人たちばかりでした。主イエスは、当時の社会において救われないと理解されていた人、汚れた霊に取り憑かれた人、重い皮膚病の人、そして徴税人、更には「多くの徴税人や罪人」が主イエスや弟子たちと同席して、主に従う者とされたことを記しています。主イエスが登場する前には、見たことも聞いたこともない光景が広がっています。主イエスが自ら訪問した人々との会食が行われています。大変楽しそうな、食事会の光景です。
 銀座教会は英国国教会の司祭であったジョン・ウェスレーからはじめられた、信仰覚醒運動を通して誕生したメソジスト教会の伝統を大切にしています。ウェスレー兄弟は、教会が建設されていないところに、馬に乗って伝道に行きました。馬の上から説教し、讃美歌を歌い祈りました。当時ウェスレーが属していた英国国教会は、伝道する地域をあらかじめ決めて、その地域を越えて伝道してはならないと定めていました。しかし、ウェスレーは許可されていない地域にある炭鉱であったり、貧しい地域などに進んで出かけて伝道しました。この伝道が定め破りの行為として厳しく批判され、様々な仕打ちを受けることになりました。しかし、教会の外で救いを求める人々への伝道を情熱的に進めました。このウェスレーの伝道姿勢は、主イエスが多くの徴税人や罪人を訪問する姿と重なるところがあるのではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々、当時の規則、律法を勝手に破るのかと言わんばかりに「どうして」と弟子たちに迫ります。弟子たちに詰め寄る律法学者に対して、12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスは、正しい人を集めて喜んでいるのではなく、罪人を招くお方です。私たちは、この聖句のどこにいるでしょうか。律法学者たちの中でしょうか。主イエスの食卓にいるでしょうか。私たちは罪人ではないでしょうか。主イエスのお語りになる言葉を通して、主に招かれた罪人です。主に招かれようとしている罪人です。洗礼を受けて、共に主の食卓に進み出て、恵みの座に跪き、招かれた喜びを分かち合いたいと願います。