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銀座の鐘

「主イエスの教える祈りの特徴」

説教集

更新日:2024年07月27日

2024年 7 月28日(日)聖霊降臨後第10主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤勝彦

ルカによる福音書11章1~13節

 主イエスはその御生涯においてよく祈りをなさる方でした。山に上って祈り、人里を離れて祈り、時には夜を徹して祈られました。弟子たちの中から 12 人を選んだときにも、「祈るために山に行き、神に祈って世を明かされた」と記されています。そのように祈りの中で呼び集められた弟子たちは、当然のこと、主イエスの祈る姿に引き付けられました。祈る主イエスから深い印象を受けたと思われます。
 今朝の箇所にも「イエスがあるところで祈っておられ、祈りが終わると、弟子の一人がイエスに『主よ、わたしたちにも祈りを教えてください』と言った」とあります。すると主イエスは、「祈るときには、こう言いなさい」と言って、「主の祈り」を教えてくださり、あわせてどう祈るか、つまり主イエスの祈り、キリスト教的な祈りを、譬えを用いて教えてくださったというのです。
 「主の祈り」の一つ一つを学ぶことは、大切な課題ですが、それは別の機会にすることにして、今朝は主イエスの祈りの教えからその特徴、つまりはキリスト教的な祈りとはいかなるものか、その特徴を学び、私たち自身の祈りの糧にしたいと思います。
 第一に学ぶべきことは、主イエスの弟子とされた者たちの祈りは、常に祈っておられる主イエスが共におられての祈りです。祈っておられる主イエスを根拠とし、その主が教えてくださったように祈る祈りです。人間は誰でも祈りを持っていると言うことができるかもしれません。色々な宗教にそれぞれの祈りがあり、宗教心のない人でも心の底を探れば、言葉にならない祈りが潜んでいるとも言えると思います。ですが、キリスト教的な祈りは、主イエスが共にいてくださり、主イエスに基づき、それゆえその名によって祈る、つまりイエス・キリストによって祈る祈りです。ですから、天地の創造者である神に向かって「父よ」と祈ります。そして主イエスは、「魚を欲しがる子供に、蛇を与える父はなく、卵を欲しがるのにサソリを与える父親はいない」とおっしゃて父である神の主イエスによる愛と憐みを教えてくださいます。主イエスによる祈りは、その十字架の贖いの恵みによって、罪を赦され、神の子とされた者の祈りです。これが「キリスト教的祈りの最大の特色」と言ってよいのではないでしょうか。神を「父よ」と呼んで祈ることは、罪赦されて、子とされたからです。私たちはなお繰り返し神に反逆する欠け多き者です。ですがそれでも、主イエスによる贖いによって、神の赦しの中に入れられ、神との平和に入れられています。神は御子をさえ惜しまず十字架に渡し、御子イエス・キリストは御自身の死をもって贖いによる偉大な救いの御業をなさってくださいました。った。御霊もまたどんな時にも「アッバ」(父よ)と呼ぶように働いてくださっています。私たちはそのようにして神の憐みと深き恵みの中に入れられ、神に「父よ」と呼びかけ、どんなことでも願い求めます。それがキリスト教的な祈りです。
 「アッバ、父よ」と祈るのは神の子とされたからですが、「神の子」とされたことは、神との平和の中に入れられたことで、何よりも幸せなことと言わなければなりません。その幸せの中で祈ります。私たちは不幸のどん底で祈っているように見えるときがあるかもしえません。しかし事実はそうではありません。主イエス・キリストによって何ものも引き裂くことのできない神の愛の中に入れられ、神の子とされたこの上ない幸い、そして大きな喜びの中で、祈ることができます。また祈りなさいと命じられています。考えてみますと、人生色々な喜怒哀楽がありますが、何よりも幸いなことは、キリストのものとされ、神の子とされたこと、神の救いに入れられたことです。つまりは、キリスト者とされたこと、これにまさる幸いはありません。それを噛み締めながら、「父よ」と祈り続けたいと思います。
 キリスト教的祈りのもう一つの特徴は、主イエスが譬えを用いて、教えてくださっていることで、子とされた者として神を信頼する者は粘り強く祈りに生きるということです。主イエスはこのことを当時のパレスチナ地方の具合的な生活を通して教えています。急に客が来ることがある。その来客が旅の途中であったら、旅人をもてなすことは、当時の誰もが重んじるべき義務でした。しかし家にはパンは余っていません。当時の村の生活ではどの家もその日食べる分のパンしか焼かなかったからです。それでどの家にパンが余っているか、村の人みなに分かりました。それでパンをもらいに行くという譬えです。しかし断られます。「もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ている」。当時のパレスチナの家は一部屋だけの家でした。玄関も居間も寝どこもキッチンも全部で一部屋です。戸はかんぬきを嵌めて閉ざします。それを開ければ、すごい音がして、そこに寝ている子供たちを起こしてしまいます。「起きてあなたに何かをあげるわけにはいかない」。正当な理由による断りです。「しかし言っておく」と主イエスはおっしゃいます。「粘り強く頼め」と。「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。キリスト教的祈り、主イエス御自身の祈りの特徴がここに示されます。祈りは具体的で、日常生活のことも祈られます。しかも信頼して、気分的にでなく、はっきりとした意志をもって粘り強く願い求めよ、と言うのです。これを「神様の心を変えていただけたと思えるまで祈れ」と言い表わした人もいます。
 「そこで私は言っておく」と主イエスは言われます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。そして「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と言われます。祈りは聞かれる。それを確信して粘り強く祈れと主はおっしゃいます。信頼して粘り強く、そして願い求めて祈ることはかならず聞かれる、聞き入れられる。そう信じて祈る。それが主イエスの教えるキリスト教的祈りです。
 最後に、神は祈りに応えて最もよきもの、最善のものをくださると言われます。それが「聖霊をくださる」と主イエスが言われた意味です。必要なものを何でも求めよと主イエスはおっしゃいます。そして「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」と言われました。「何でも求めよ」と言われて、聖霊を求める人は少ないのではないでしょうか。しかしここに主イエスの教える祈り、つまりはキリスト教的祈りの重大な特徴が表れています。天の父が聖霊をくださるとはどういうことでしょうか。聖霊は神御自身にほかなりません。神は祈り求める者を失望に終わらせようとはなさらない。良きものをお与えになります。神の与えたもうよきものはみな聖霊の賜物です。それどころか聖霊そのものをくださると言うのです。それは神が御自身をくださることです。救いの御力に満ちた神御自身をくださいます。
 私たちには色々と求め願わなければならないことが多くあります。それだけ欠け多く、色々な困難の中にいる私たちです。しかも私たち自身は本当は何が必要なのかはっきり分かっていません。私たちの祈りは、見当が外れているかもしれません。それでも「求めなさい」との言葉に励まされ、私たちは赦しを求め、神の義と平和を求め、癒しを求め、助けを求めます。そのとき聖霊は私たちのすべてを知り、私たち自身よりもよく知って、うめき、とりなしてくださる神の霊です。
 「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。この主の言葉は、神がすべてを与えてくださり、そして最善のものを与えてくださるということです。必死に祈り求め、しかしそれが聞き入れられないときにも、私たちは失望して信仰を失うべきではありません。そのときにこそ、神が御自身を与えてくださり、すべての中で最も最善のものをくださっていることを信じることができます。
 みなさんは、何年も信仰生活を送り、その間祈りの生活をしてきたことでしょう。本当に祈り、祈りの生活を生きて来られたでしょうか。そうであったら、その人は最善のものを与えられ、最善の人生を生きてきたということではありませんか。そう確信することができるでしょう。「わたしの恵みはあなたに十分である」とパウロは聞くことができました。私たちもそう聞くことができるまで、神を信じ、信頼し、そして明確な意志をもって、意志的に、粘り強く祈ろうではありませんか。そして「我恵み汝に足れり」と主が言われるのを聞くことができたら、私の人生はこの上なく幸せな、最善の人生であったと心に深く思うことができるでしょう。

  天の父である神様、主イエスによる祈りの教えに聞くことができ、感謝いたします。どうか私たちも祈ってくださる主イエスに倣って、主御自身の祈りに学び、従うことができますように。主の名によって求め、願い、捜し、叩く者としてください。思い願っていたものが与えられない時には、あなたがより一層よきもの、最善のものをくださっていることを信じて、「わが恵み、汝に足れり」との御声を聞くことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。