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銀座の鐘

「自由な人とされて生きる」

説教集

更新日:2024年08月18日

2024年8月18日(日)聖霊降臨後第 13 主日 銀座教会 家庭礼拝 近藤 勝彦 牧師

ペトロの手紙一 2章13~17節

8 月という月は日本では、第二次世界大戦の大きな犠牲を払って平和や自由、それに民主主義を受け取ったことを、特別に思い起こす月になっています。ですが、人類の平和や自由が、ただ人間の努力や犠牲によるだけでなく、実は福音が告げる主イエス・キリストの犠牲や神の救いの御業に基づいていることは、まだ十分に伝えられてはいないのではないでしょうか。まことの自由とは何でしょうか。それが神の恵みの御業によってもたらされたので、「キリスト者の自由」と言う表現もあります。今朝の聖書箇所はその自由が語られている箇所の一つと言ってよいでしょう。
16 節に「自由な人として生活しなさい」とあります。そして「その自由を、悪事を覆い隠す手立てとせず、神の僕として行動しなさい」と言います。「悪事を覆い隠す」のは、言わば悪に縛られた行為であって、悪からの自由ではなく、本当の自由とは言えないでしょう。本当に自由な人は、「神の僕として行動しなさい」と言われます「僕」というのは、もっとはっきり訳すと「奴隷」という言葉です。奴隷では自由な人とは反対に思われます。「自由な人」なら「奴隷」ではないと、誰もが思うのではないでしょうか。しかし自由だといくら叫んでも「悪」から身を離せなければ、「悪の奴隷」になっていることで
はないでしょうか。本当の自由は、悪の奴隷になるのでなく、「神の僕・神の奴隷」として生きることだと聖書は語ります。
そう語られるのは、もちろん主である神がどのようなお方かによるでしょう。主イエス・キリストにある神は、僕である私たちを一切の罪の支配や悪の力、そして死の脅かしからキリストにあって解き放ってくださっています。神は主イエス・キリストにあって、憐みによる救いの御業をなしてくださいました。その神が、今日も復活の主イエスにあって救いの力を発揮してくださいます。神を知るとき、つまり主イエスにあって憐み深き神を知り、その愛と力を知るとき、神のものとされた「神の僕」は、実はどれだけ「自由な人」とされたかが分かるのではないでしょうか。ですから、キリストにおける神の愛の御業によって、罪と悪の支配から、そして神なき死の脅かしからも解き放たれ、神に属する者、神の子とされ、救いへと入れられました。それが自由な人にされていることです。
日本では、多くの人が生れながらに人間は自由と言うかもしれません。福沢諭吉のような明治時代の啓蒙家は、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言いました。しかしペトロの手紙によれば、人は「先祖伝来のむなしい生活から贖われて」(1・18)、神を父よ呼ぶキリスト者にされたと言います。生れながらではなく、主イエス・キリストの贖いによる新しい命によって、「むなしい生活」から引き出され、神の子に、そして神の僕として生きることに移されました。主イエス・キリストにおける神の赦しと救いの御業によって、自由な人にされたわけです。キリストの尊い血による贖いを受けて、神に属する者とされ、何ものからも自由な人、他の何ものにも支配されない、神の僕にされたのです。
自由にされた人の生き方として、今朝の箇所は一つの難問に対する身の処し方を語っています。それは、政治や権力による人間の支配に対してどう対処するかという問題です。これは現代の私たちの問いでもあるでしょう。キリスト者は、国家やその支配者に対して、どのように相対したらよいのでしょうか。この手紙の時代で言いますと、ローマ帝国の時代ですから、ローマ皇帝や皇帝が派遣した地方総督に対して、どう対処するかが問題でした。神によって自由にされたキリスト者は、国や政治の支配の中で、どう生きるのでしょうか。
ペトロが告げる回答は、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と語ります。「統治者としての皇帝であろうと、皇帝が派遣した総督であろと、服従しなさい」と言います。そうすることが「善を行う」ことでもあるとも言われます。
それではキリスト者の姿勢は、いつでも現状の支配に対してもっぱら服従する、言わば極め付きの保守主義ということになるのでしょうか。皇帝の支配については、すでに主イエス御自身が語られた言葉があります。主イエスを陥れようとする者たちが来て、皇帝に税金をおさめてよいかと質問しました。御自分を試そうとする人々に対して主イエスがお答えになった言葉は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ 22・21)という御言葉でした。ペトロの耳には、主が語ったこの御言葉はずっと残り続けたと思われます。それでペトロは、「皇帝に従いなさい」と語ると共に、それは「主のために」することで、「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と語るのです。
ですからキリスト者は「皇帝に従い」ますが、それは皇帝のためにではなく、そうでなく「主のために」です。「主のために」とは、「神の御心に従って」、「神の御意志に従って」ということです。当時のローマ帝国では、「皇帝崇拝」は、ほとんど宗教になっていました。しかしペトロの手紙は、皇帝やその支配の形は「人間の立てた制度」の一つにすぎない、神が立てた制度ではないと言います。人間の立てた制度であれば、永遠のものではなく、変化もまた可能でしょう。無くなることさえあるのではないでしょうか。ただしその制度の中で「悪を行なう者が処罰され、善を行なう者がほめられる」ことがなされていれば、その制度に従うことは神の御心にかない、善を行うことになります。それで「主のために」従いなさいと語ったのです。そのようにして「神の僕」として行動することが重要で、そういう行動が自由にされた人の姿であると語っているわけです。
今朝の御言葉は、「神の僕」として行動することこそ、真実な意味で自由な人として生きる道であることを語っています。そしてその具体的な例として、皇帝や皇帝から派遣された総督に対し、どうふるまうかという当時の難問に答えたわけです。現代もウクライナにおけるロシアの侵略問題やガザにおけるイスラエルとハマスの争いなど、人間の支配による混乱が悲劇を生み、苦難をもたらしています。その中で、ただ神のみを神とするキリスト教信仰に自由な人としての道があると聖書は言います。しかしそれは、神以外のすべてを否定して、あとは呪うと言っているのではありません。神が創造してくださった世界を肯定し、人間が作ったはなはだ問題のある制度に対しても、神の御意志に従って生きよと語ります。このことは、この段落の最後の一節に、興味深い仕方で示されます。
段落の最後には「すべての人を敬いなさい」とあります。キリスト者でない人にもキリスト者は敬意を払います。すべての人にリスペクトを持つのが、キリスト者の生き方です。すべての人を敬うということは、もちろん特定の民族の壁を越えます。キリスト者は民族主義者ではありません。しかしその上で「兄弟を愛しなさい」と言います。「兄弟」とは主イエス・キリストにあって兄弟姉妹にされた教会の者たちです。キリストによる贖いを受けて、共に父なる神の子とされたました。その同じ信仰のキリスト者たちを「愛しなさい」と言います。「愛」は「敬う」以上のことです。愛はときには犠牲を払います。主イエスは兄弟のために命を捨てる愛をお語りになりました。そしてキリスト者の生き方は、さらにもう一段高く昇ります。「神を畏れなさい」とあります。すべての人を敬い、兄弟を愛し、そして「神を畏れなさい」です。「畏れる」のは、唯一、神のみです。三位一体にいます唯一の神、並ぶものなき神、その「神を畏れよ」。すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、そして唯一、神を畏れ、ただ神のみを神として礼拝します。そこに本当の自由の姿があるわけで、礼拝は真の自由を表現し、また発信する基地とも言えるでしょう。
そこから見て皇帝に対してはどうするでしょうか。「皇帝を敬いなさい」と言われます。皇帝は畏れる相手ではないとされます。神と並ぶものではないからです。皇帝を教会同様に愛しなさいとも言われません。ただ敬う、リスペクトを払う。それはすべての人を敬うようにです。この短い一節に神の僕とされたキリスト者の自由の表現が、いわば痛烈な仕方で表現されていると言えるのではないでしょうか。「神の僕」とされた者が真に自由な人なのだということは、あらゆる場面で表現されるもので、政治の場面でも表現されます。信仰による自由を生きるとは、神の僕として生かされること、これを深く身に着けたいと願います。

憐れみに富みたもう天の父なる神様、8 月の日々にあって、平和と共に真の自由に思いを向けさせられます。あなたを唯一、われらの主なる神とあがめ、畏れ、真実に礼拝することができますように、導き、助けてください。今日世界は諸地域において危険な状況に直面しています。しかし私どもあなたの救いと恵みの支配とを信じて、主にあってまことの平和と自由を生きることができますように。あなたを真実に畏れ、深く信頼し、真の礼拝をささげて、世の人々をそこに招くことができますように。また世界のどの地域でも教会での礼拝があなたの平和と自由を世に発信する力強い基地となることがきますように、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。