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銀座の鐘

「不当な苦しみを受けるとき」

説教集

更新日:2024年09月14日

2024年9月15日(日)聖霊降臨後第17主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一2章18~21節

 人間は「不当な苦しみ」を受けるときがあるものです。今日のウクライナの人々やガザ地区の人々、あるいは自然災害によって日常生活を奪われた方々もみな、「不当な苦しみを受けている」と感じているのではないでしょうか。災害や戦争だけでなく、一人一人の人生のこととしても「不当な苦しみを受けている」と思うときがあるのではないでしょうか。そうした時、どう生きたらよいのでしょう。何か暗いテーマを話しているように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。今朝の聖書の箇所は、まさにこのことを真っ向から扱っていて、希望にあふれるキリスト教信仰の真髄を語っているからです。手紙の著者は「召し使いたち」に呼びかけています。召し使いとはつまり奴隷であって、当時の奴隷の中には、「無慈悲な主人たちに」仕えている者たちもいました。その人々にその主人に従いなさいと語ります。当時の奴隷の辛い状況は、誰にもよく知られていました。無慈悲な主人の下で苦しんでいる者たちは多かったのです。彼らは「不当な苦しみを受けている」典型的な人々でした。
 しかし彼らに対して手紙の著者ペトロは、「心から畏れて」「主人に従いなさい」と言います。「心から畏れて」というのは、主人を畏れてと言っているように受け取られそうですが、そうではありません。この直前の 17 節に、「神を畏れ」とあるように畏れるべきはただ神のみです。ですから神を畏れ礼拝してということです。「不当な苦しみ」を受けるにしても、神を畏れ礼拝し、神の御意志を知って、無慈悲な主人たちにも従いなさいというのです。
 古代社会にあって無慈悲な主人に仕える奴隷の苦しみは、およそ人間が受ける不当な苦しみの典型というか、代表的なものでした。けれども今朝の御言葉は、当時の奴隷だけに語られているわけではありません。人間は誰もがみな、なんらかの意味で「不当な苦しみ」を受ける。それをここでは、無慈悲な主人のもとで苦しむ奴隷に典型的な場合を見ているということです。御言葉はすべてのキリスト者に語りかけられています。
 不当な苦しみは、もし変えられるものなら、変える勇気を与られて、変えて行きたいものです。しかし簡単に変えられない場合があります。中には決して変えられない苦しみもあるのではないでしょうか。罪を犯したための当然の報いと言えない、善を行う人生を生きながら、受けなければならない不当な苦しみもあります。ペトロの手紙は、奴隷の運命に託して、実は誰しもが抱えているこの人生の問題に答えているのです。
 その語り方には実に驚くべきものがあります。と言いますのは、神の御意志を知り、神を畏れて、不当な苦痛を耐えるなら、「それは御心に適うことなのです」と言われています。これは実は、本文通りではありません。意味を汲んで「御心に適う」と訳したのですが、本文は「恵み」とあります。「これこそ神の恵みです」と書いてあります。不当な苦しみを受けて耐えるなら、神の恵みだと言います。それも 19 節にあり、また 20 節にもあります。二度にわたって、はっきりと「これは実に恵み」「これは神による恵み」と繰り返し書かれています。神の御意志と信じて不当な苦しみを受けて耐える、それは神の恵みであり、そこに神の恵みがある、素晴らしいことがあると訳した聖書もあります。
 どういうことでしょうか。どうして「不当な苦しみを受けとめて耐える」ことが「神の恵み」なのでしょう。一見して理解しにくいと思います。それで、「御心に適う」と訳したのでしょうが、しかしやはり「恵み」とあるのであり、素晴らしいことがあると言われています。「不当な苦しみに耐える」、これこそ恵みだと二度にわたって書かれ、しかも「その中へとあなたがたは召された」とあります。つまり不当な苦しみを受けて耐えることは神の恵みだから、その中に召されたのだというのです。
 不当な苦しみを受けることがどうぢて神の恵みなのか、その理由もはっきりと記されています。それは、その「苦しみ」は主イエス・キリストが私たちのために受けて苦しまれた苦しみに関係していて、私たちが受ける苦しみには、主イエス・キリストがすでに残された歩みの跡がある。苦しみの主の足跡があって、それが私たちのために残されているからだと言うのです。「主の足跡」があるということは、私たちが苦しむ不当な苦しみは、すでに主イエスが苦しまれた苦しみであるということです。ですから、不当な苦しみの中にある主イエスの歩みの跡に自分の足を重ねるようにして歩むように、その足跡が続いていけるわけです。そのために主は「模範」を残されたという言い方もなされています。原文ではここにも「私たちのために」があります。
 「私たちのために」は二度繰り返されていて、主キリストは私たちのために苦しまれた、それだけでなく私たちのために模範を残されたというのです。
 そうであれば、「不当な苦しみを受けること」、ここに神の恵みがあると言われていることは、十分な根拠があることになります。第一に、その苦しみはすでに主イエス・キリストが受けとめ、私たちのために歩んでくださった苦しみであること。だからそこには私たちのために主が残してくださった足跡があると言われます。主の足跡を踏めることは「恵み」です。第二に「不当な苦しみを受けること」は、主の足跡に続くようにという「召し」であって、私たちのために主は模範を示されています。その「召し」があり、「模範」があることは神の恵みです。そして第三に「主の足跡に続く」ということが重要な意味をもっています。問題は、苦しみだけではないのです。主は私たちのために苦しまれましたが、さらにそれに打ち勝ってくださり、死と悪魔的なものに打ち勝たれ、栄光のキリストとして天に昇られました。「主の足跡に続く」ことは、復活と栄光の主イエスについていくことでもあります。つまり希望のあることです。栄光の希望の道をいくことであって、それはまさしく神の恵みです。
 主にあっては不当な苦しみを受けることも、主の死と主の命に結ばれることであり、そこに恵みがあり、神の救いへの召しがあるわけです。
 「不当な苦しみを受ける」という人生の問題を思いめぐらしますとき、思い起こされるのは、ラインホールド・ニーバ―の「平静さを求める祈り」(Serenity-prayer)です。ラインホールド・ニーバーという人は、20 世紀のアメリカの代表的な神学者ですが、彼の「平静さを求める祈り」は、ひと頃日本の教会でもよく知られました。「神よ、変えることのできるものには変える勇気を、変えることのできないものはそれを受け容れる平静さを、そして変えることのできるものと変えることのできないものとを識別する知恵を与えてください」という祈りです。「変えることのできないもの」の中には、「不当と思われる苦しみ」もあるのではないでしょうか。「不当な苦しみを受ける」ことは、変えることのできないものとして、それを受け容れる「平静さ」も必要とするでしょう。信仰による平静さは、全能にして憐みの神の恵みに信頼してこそ与えられるものでしょう。しかしどんな苦しみにもそこにすでに主の足跡がついていて、勝利の主、復活の主イエス・キリストが共にいてくださいます。共にいます主を信じて、平静にそれを受けとめることができるのではないでしょうか。
 聖書はそこに神の恵みがあると言います。恵みは「平静な心」をも与えてくれるでしょう。しかしそれだけでなく、希望も与えてくださいます。キリストのみあとについていくことに希望がないはずはありません。

 憐れみに富みたもう天の父なる神様、「ここに恵みがある」との御言葉を聞くことができ、感謝します。私たちまことに不信仰な者で、主が私たちのために残して下さった足跡を見ず、主の模範に従うことをしないことがしばしばです。そのために平静さも希望も失いがちです。神よどうか、私たちの不信仰を赦し、御霊を注いで信仰を確かなものにして下さい。今日も共にいてくださる復活の主イエス・キリストを愛し、主の御跡に従っていくことができますように。すべての教会の兄弟姉妹のために祈ります。また世界のさまざまな地域で不当な苦しみを受けている人々のためにも祈ります。主イエス・キリストが私たちのために残された模範を教会が力強く証しすることができますように。私たちのために十字架を負われた主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。