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銀座の鐘

「疑う弟子と共にいてくださる神の子」

説教集

更新日:2024年09月28日

2024年9月29日(日)聖霊降臨後第19主日 銀座教会 礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

マタイによる福音書 14章22~33節

 今朝、聖書日課に従って私たちに与えられましたのは、「湖の上を歩く」という驚くべき小見出しがつけられたマタイによる福音書14章22-33 節です。この聖書箇所はマタイによる福音書 14章の後半に記されています。まず、この 14章全体を見てみますと、冒頭の14章 1-12節はこのような言葉で始まっています。

  そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」(マタイ14章 1-2 節)

 さて今年度、私たちは一年を通してマタイによる福音書を皆で共に読み進めてきましたが、私たちは、領主ヘロデが言うこの洗礼者ヨハネがこのマタイによる福音書 3章において、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言ってイエス様に先駆けて伝道をしていた姿を見ることができます。
 しかし、続く 4 章ではイエス様の先駆者であるこの洗礼者ヨハネが捕らえられたということをも、私たちは同じマタイによる福音書から知ることがゆるされています。この 4 章で注目したいのは、4章12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」とあるように、洗礼者ヨハネが捕らえられたことを知って、イエス様がガリラヤに退かれて、伝道を始められたということです。また、この 4章12節で、「ヨハネが捕らえられた」という言葉は、「引き渡す」と訳されるギリシャ語が使われており、イエス様が十字架のご受難を受けられる、その歩みの中で、何度も用いられている言葉でもありました。
 このように、イエス様の先駆者であり、イエス様がこれから歩むべきご受難の道を指し示す洗礼者ヨハネが捕らえられた出来事を聞いた後、イエス様はガリラヤへと退き、伝道を開始されたのでした。
 何故、今朝、洗礼者ヨハネについて再び取り上げるのかというと、それは本日共にお読みしている14章の冒頭、1-12節を通して、この洗礼者ヨハネが、領主ヘロデによって首をはねられ死んだことを私たちはこのマタイによる福音書を通して目撃させられるからです。
 そして 14 章12 節には、洗礼者ヨハネの弟子たちが遺体を引き取って葬り、イエス様の所に来て報告したことが記されています。この洗礼者ヨハネの死について聞いたイエス様の反応が 13 節に「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れたところに退かれた。(14 章13 節」と記されています。
 かつて洗礼者ヨハネが捕らえられたことを聞き、ガリラヤに退かれたイエス様は、洗礼者ヨハネの死について聞かされた後、ひとり人里離れたところに退かれたことが、このマタイによる福音書 14章にはっきりと示されているのです。しかし、私たちは何故、イエス様がこのように人里離れたところへと退かれたのか、その理由について知ることはできません。もしかすると、洗礼者ヨハネの死を一人静かに悼み、祈るためであったのかもしれません。あるいは、御自分の先駆者であり、御自分の将来を予表するヨハネの死によって指し示された、これからイエス様が歩むべき十字架の死へと至るご受難について祈るためだったのかも知れません。
 しかし、このようにお一人での時間を求めて、舟に乗り、人里離れた所まで退かれたのにも関わらず、13-21節でイエス様は大勢の群衆たちに囲まれていました。それは 13-21節に「五千人に食べ物を与える」と小見出しがつけられていることからも明らかです。
 13-21節に記されているように、イエス様は舟に乗って人里離れたところに退かれたにも関わらず、方々の町から歩いてイエス様の後を追ってきた群衆たちを深く憐れみ、彼らの中にいた病人を癒やされ、さらにはこのすべての人を食べて満腹にさせられたのでした。
 このことを踏まえて、本日与えられた聖書箇所を読み進めていきますと、本日の聖書箇所の冒頭、22節の「それからすぐ」という言葉が洗礼者ヨハネの死を知った後の出来事であり、また、13-21節の「五千人に食べ物を与える」という奇跡の後、すぐに起きた出来事であったことが分かります。また、22節には「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。」とありますから、イエス様はすべての人を満腹にさせた後、男性だけでも五千人はいたこの大勢の群衆をお一人だけ残って解散させられたというのですから、驚きです。
 しかし、このようにイエス様が弟子たちを舟に乗せて、群衆たちを解散させられた後、ついにイエス様はお一人だけの時間を得ることができました。そして、このお一人だけの時間をイエス様がどのように用いられたかについてが 23節に記されています。それは「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。」と記されている通りです。
 ですが、このようにイエス様が祈りを通して、天の父なる神様との対話を静かにしておられたとき、弟子たちをのせた舟は逆風、そして波によって悩まされていました。このとき、時刻はすでに夜でした。陸地からはもう大分離れてしまった暗い湖の中で、逆風、そして波によって苦しめられるということは、非常に恐ろしいことです。当然、ペトロを初めとする元漁師である弟子たちは、必死にもがきながら舟を漕いだのではないかと思います。ですが、彼らの努力も空しく、舟は戻ることも進むこともできずに、夜の間、湖の上で風と波によって苦しめられていました。
 しかし、25節で驚くべき事が起きるのです。それは 「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。」と記されているとおり、弟子たちを助けるためにイエス様が逆風と波で荒れている湖の上を歩いてやってきてくださったのです。
 言うまでもなく、ただの人間が湖の上を歩くなど不可能です。それはただ、「天と地の一切の権能を授かっている」(28章 18節)神の子、イエス・キリストのみが行えるのです。ですから、26節で弟子たちがイエス様を見て、「幽霊だ」と言って怯え、恐怖のあまりに叫び声をあげるのも無理もないのではないでしょうか。しかし、このように恐れ、叫び声をあげる弟子たちに向かって、イエス様はすぐにこう話しかけられました。

 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(14章 27節)

 イエス様の弟子たちへのこのお言葉の中で、「安心しなさい。」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語で見ると、「勇気を出しなさい。」と訳せる単語が使われています。ですから、27節を「勇気を出すのだ。私だ。恐れるな。」と訳している神学者もいます。
 つまり、「安心しなさい」、「勇気を出しなさい」とも訳すことのできる言葉をイエス様は今、暗い闇の中で、風と波とに苦しめられ、舟をもがきながら漕ぎ、非常な疲れの中にあり、また、イエス様をはっきりと認識できずに恐れの声をあげる弟子たちに向かって語られるのです。
 さて、このようにイエス様の「安心しなさい」という言葉が、「勇気を出しなさい」とも訳せるという事を頭の片隅に置きながら読み進めていくと、ペトロの「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」(14章 28節)という言葉がイエス様の「勇気を出しなさい」という言葉への応答だったとも言えるのではないでしょうか。また、ここで注目したいのは、ペトロが「私にもイエス様のように水の上を歩く力をください」と言ったのではなく、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して」くださいと言っていることです。そして、この言葉通り、29節でイエス様が「来なさい」とペトロにおっしゃってくださったゆえに、「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進」むことができたのでした。つまり、水の上をペトロが歩くことができたのは、ただ全くイエス様によるものであることがはっきりと示されているのです。
 さて、聖書において、ペトロはイエス様の弟子である私たちすべての信仰者の代表として、しばしば示されています。ですから、29節で本日の聖書箇所が終わっていれば、ペトロは偉大な信仰者であり、私たちが目指すべき理想的な信仰の先達者となっていたかも知れません。しかし、聖書はここでは終わらないのです。続く30-31節には勇気を出してイエス様の命令に従って、イエス様に向かって水の上を歩むペトロについてこのように記されています。

 30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

 ここには弟子の代表、私たちの代表として、イエス様の力強いお言葉よりも、目の前にある強い風、困難、脅威に目を奪われ、恐れにとりつかれてイエス様への信頼が揺らぎ、疑ってしまうペトロの姿があります。私たちはこのペトロの姿を見つめるとき、自分自身の信仰生活を重ねてみることがあるのではないでしょうか。なぜなら、私たちもこの地上での信仰生活の歩みにおいて、闇の中で、強い風、または荒れ狂う波のように私たちを襲ってくる困難、病、不安などに襲われることがあるからです。ですから、ここに示されたペトロの姿こそが、私たち信仰者一人一人の現実の姿をはっきりと示していると言えるのではないでしょうか。主に従いたいと願い、主のみ声に従って、勇気ある一歩を踏み出したのにも関わらず、疑い、溺れそうになってしまう私たちの姿が確かにここには記されているのです。
 しかし、このような惨めな弟子たち、弱い私たち信仰者一人一人の代表であるペトロの姿を見つめるとき、私たちには「主よ、助けてください」と叫ぶことがゆるされていることも、本日の聖書箇所から目撃することが私たちには恵みとしてゆるされているのです。そして、このように叫ぶペトロの、また、私たち信仰者一人一人に向かってすぐに手を伸ばし、捕まえてくださる主イエス・キリストの姿を、私たちは今日はっきりと目撃しているのです。
 そして、本日の聖書箇所の最後、32-33 節にはこのように記されています。

 32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

 湖の上を歩き、風をも静められる権威をもった、まことの生ける神の子であられる主イエス・キリスト。この方こそが信仰が薄く、疑ってしまう、そのような私たち信仰者と共にいてくださり、そして、私たちの手をしっかりとつかんで今日も導いてくださっているのです。
 だからこそ、私たちはこのインマヌエル、「神、我らと共にいます」お方である、救い主イエス・キリストに守られ、導かれつつ、感謝と賛美の声を上げながら、勇気を出して、本当に小さな一歩を、一歩ずつ、これからも歩んで参りたいと願います。