「連れ戻された私たち」
説教集
更新日:2024年11月23日
2024年11月24日(日)聖霊降臨後第27主日 銀座教会・新島教会 終末主日・謝恩日礼拝 牧師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一 2章25節
25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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キリスト者というのはキリスト教信仰によって生きる人のことです。主イエス・キリストにあって「神われらと共にいます」という信仰を持って、この世界、そしてこの歴史の中で、それぞれの人生を生きます。信仰の無い人であれば、神なしにこの世界や歴史を生きることになるでしょう。生きる現実は同じとも言えますが、キリストにあって神と共に生きる現実と、キリストもなく神もなしに生きる現実とは非常な違いになるとも言えるのではないでしょうか。
今朝の御言葉は短く、完結にキリスト者とは何者であるかを語っています。何度か口ずさんで、愛唱聖句の一つに加えることもできるでしょう。この御言葉は、「今は」と語って、キリスト者の身の上に大きな転換が起きたことを言い表わしています。かつては「羊のようにさまよっていた」。しかし「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。かつてはイエス・キリストを知らず、神なく生きるほかはありませんでした。しかし今は、主イエス・キリストのもとに戻って来ています。
これは一人一人に語られている言葉と理解できますし、また「あなたがた」と呼びかけているのは、異邦人のキリスト者全員のことですから、異邦人キリスト者全員の生き方が変わったと告げ、新しい時代になったことを語っているとも理解できます。
かつては「羊のようにさ迷っていました」。飼い主のいない羊は非常に危ういものです。主イエスはあるとき群衆を見て、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9・36)とあります。「飼い主のいない羊」は、食物の不足、水の不足、野獣に襲われる危険、そうした不安の中をたださ迷うばかりです。しかし「今は」違うと言われます。今は、主イエス・キリストがおられ、あなたがたは「牧者であり、監督である方のところへ戻って来たのです」。主イエスとその御業によって新しい時代が来ました。キリストによって時の変化が起きたという信仰は、使徒パウロによってもはっきりと語られています。パウロは「見よ、今は恵みの時、いまこそ救いの日」(コリント二 6 章)と言いました。主イエス・キリストによって新しい救いの時代が始まったと語られたのです。
そうであれば当然、私たちの生活も変わってきます。主イエス・キリストによる時の転換に相応しく、私たちの実存も転換し、生活も転換するでしょう。主イエス・キリストなしに「さ迷う生活」でなく、キリストの恵みの支配がはじまった新しい時代の中で、主イエスに立ち戻り、主イエスのおられる生活、そういう信仰生活に換えられるのでなければならないわけです。それは、「牧者であり、監督者である方のところへ戻った来たのです」
と言われる生活です。
「牧者」というのは羊飼いのことですが、「魂の牧者」とあります。「魂」とはただ心や精神のことだけではありません。そうでなく命のことです。その人全体のことと言ってもよいでしょう。主イエス・キリストは「わが命の牧者」であり、精神も肉体も含めた人間としての私たちの全存在、全生活の羊飼いです。
羊が羊飼いに従うように、私たちは生活全体をかけて命の主であるイエス・キリストに従います。そして主が羊飼いであるとはどういうことか、例えば詩編 23 編で私たちはその片鱗を思い起こすことができるでしょう。主が私の羊飼いでいてくだされば、「わたしには何も欠けることがない。わたしには乏しいことはない」ということです。「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださいます」。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」。それが真の羊飼いがいてくださるということであり、その羊飼いのところへ戻って来た、戻って来ているということです。
主イエスはまた「監督者である」と言われます。「監督者」(エピスコポス)というのは、日本語の「監督」という言葉の響きとは違って、見守る人、町や群を見守る守りてのことです。その群の一人一人をよく知って心配りをする人、配慮する人です。この言葉がやがて教会の指導者を言い表わすようになり、ビショップとか司教と言われる言葉になりました。しかし主イエスがまことの牧者であり、まことの監督者であることから、教会の牧者や監督のあり方は規定されます。教会には牧者がおり、教区には監督がいる。しかし真実は、主イエスがまことの牧者、またまことの監督としておられます。それで教会の牧師や教区の監督は主イエスに支えされらながらその模範に従います。主がその群の一人一人をよく知り、配慮し、お守りくださるということ、主イエスのその配慮を指し示すことが、牧師や監督の仕事です。キリスト者は、今はその主イエス・キリストのもとに戻って来た、戻って来ていると言うのです。
「戻ってきた」とあるのは、自分で戻って来たような言い方ですが、ここは本当は違って、受身形で書かれています。正確に訳せば、「魂の牧者・監督者のもとに戻らされた」「連れ戻された」と書かれています。キリスト者は、誰も自分で主のもとに戻ってきたのではないのです。そうでないのは、その人が戻ってきたとき、誰の場合でも、何より先に神の選びがあり、そして主イエス・キリストによる召しがあります。そして御霊の導きを受けて、主のもとに招き集めらたのです。忍耐強く捜し、そして見い出し、連れ戻してくださった神の働きがあります。そして戻って来たことを喜ぶ神の歓喜があります。主イエスにあって探し求めて下さる神によって見い出され、喜びのうちに連れ戻された。それがキリスト者です。
「あなたがたは今は、魂の牧者であり、監督者である方のところに戻されてきた」。この文章には、小さな字ですが、「なぜならば」という理由や説明を表わす言葉が入っています。「魂の牧者であり、監督者のところに戻されている」というのは、その前の文章の理由や説明になっているわけです。その前の文章と言えば、「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」です。主の十字架と受難の傷によって、あなた方は癒された。なぜかと言えば、主イエスは牧者であって、あなたがたを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださるお方、そして同時に御自分の群の一人一人をよく知って、守り配慮してくださる監督でいらっしゃるお方です。その方のもとにあなたがたは選び、探され、召されて、戻らされているからです。それだからこそ、主の御傷によってあなたがあは癒されたと言うのです。
ここには、主イエス・キリストがいかなるお方か、そして私たちは何ものか、キリスト論とキリスト者のことが記されています。しかしまた同時に、ここには神論も記されています。まことの神は主イエスにあって私たちを選び、捜し出し、主イエス・キリストのもとに神の子として連れ戻してくださる神です。ここにはまた救済論が記されています。救いと言うのは、「牧者であり、監督者である主イエス・キリストへ」と連れ戻されていることです。「キリストへ」と戻されたことは、神の民の一人として、主キリストの体の一部とされ、主の体の中に戻されたのです。
ですからここに教会論が記されているとも言われます。羊の群がまことの羊飼い・監督者のもとに召され、探され、戻ってきている。それが教会生活です。キリストの受けた傷によって、癒されたのは、私たちがキリストへと連れ戻され、その体の一部にされているからです。キリストの羊の群れであることは、飼い主イエスとの一体性にあることです。
それほどの一体性にどうしてあずかれるのか。まことの牧者であり監督者・配慮し見守る方は、その群を御自分の体となさり、御自分と一つにされます。それが主のものとされるということです。洗礼を受けて、主の群に加えられたのは、その一体性の中に連れ戻されたことです。だから「そのお受けになった傷によってあなたがは癒されました」と言われます。
主イエス・キリストへと深く連れ戻されているこの今を、私たちは生きます。主イエス・キリストと一体化されている今を生きる。この今は、平安と喜びの時、そして希望を持って生きることができるのではないでしょうか。
天の父なる神様、かつては羊のようにさ迷っていた私たちでした。しかし今やあなたに捜し出され、連れ戻され、私たちの真の牧者であり、監督者である主イエス・キリストのもとに、主との一体性の中に生かされておりますことを感謝いたします。神様、この大きな恵みを世の人々に証し、宣べ伝えて、あなたの御栄光を仰ぎ、御名をほめたたえることができますように、御霊を注いで、導いてください。私たちの牧者であり、監督者である主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。