最後まで耐え忍ぶために
説教集
更新日:2025年03月01日
2025年3月2日(日)公現後第8主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書25章14~30節
14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。15 それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。27 それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。28 さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。29 だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。30 この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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マタイによる福音書24章以下は、主イエス・キリストが十字架刑に架けられる直前に語られた言葉です。24章1節以下、主イエスは弟子たちに神殿の建物を指さして、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られました。この言葉で主イエスは、エルサレム神殿の崩壊を予告したことは神への冒涜罪として訴えられ、十字架刑に処せられることになりました。3節以下では主イエスがオリーブ山で弟子たちのそのことはいつ起こるのですかという質問に応えています。主イエスの答えは、「人に惑わされないように気をつけなさい。」「これらはすべて生みの苦しみの始まりである」と語られました。15節以下では、「逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」、そして「苦難の日の後、人の子の徴(しるし)が天に現れる」「人の子が、…天の雲に乗って来る」と救い主の再臨について語られました。
主イエスはご自身の十字架上の死の直前に、これから始まる苦しみは、生みの苦しみの始まりであると語られました。終わりが見えない、無意味な苦しみではなく、母親がわが子を産むための苦しみ、希望の苦しみであると理解できるのではないでしょうか。24章から25章まで、苦しみと審きの連続のように思えるのですが、意味のない苦しみではないのです。私たちが天の国で救われるための苦しみが預言されているのです。24章13節に記されている「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあるように様々な苦しみが記されていますが、この苦しみを最後まで耐えること、恐れず希望を持ち続けて、苦しみを乗り越えるために語られているのが、24章から25章なのです。
24章45節以下には、三つの審判のためのたとえが記されています。第一は「忠実な僕と悪い僕」について45-51節で主イエスが語られました。これは当時の宗教的指導者たちの責任について語られたと理解出来ると思います。第二は25章1から13節愚かなおとめのたとえです。そして、第三が本日与えられたタラントンのたとえです。25章14節からのタラントンのたとえを通して、主イエスは私たちに三つ目の天の国のたとえを通して、最後の審判を恐れるなと語っているのです。
ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けました。僕たちそれぞれの力に応じて、一人には5タラントン、もう一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて、旅に出かけました。かなり日がたってから、僕たちの主人が帰ってきて、僕たちに預けたタラントンの清算を開始しました。
5タラントン、2タラントン与った僕は、商売して預かったお金を倍に増やしました。しかし、1タラントン預かった僕は、主人を恐れて1タラントンを土の中に埋めて隠しておいたと説明しました。預かった1タラントンを用いなかったのです。主人は、この1タラントン預かった僕に対して「怠け者の悪い僕だ」と告げました。
主人が僕に預けた1タラントンはおよそ6千デナリオンです。1タラントンは日雇い労働者の20年間の稼ぎに相当する額です。2タラントンの僕は40年間分、5タラントンの僕は100年分の稼ぎを預かったことになります。1タラントンでも高額です。この高額な金を預かったのです。三人の僕は、それぞれ力に応じて異なる金額を預かりました。不公平感があるように思えますが、最も低い額を預かった僕でも、かなりの高額であることが分かります。1タラントン預かった僕でも、20年分の年収ですから、大きな責任があります。大金を用いないで土の中に埋めておくということは、主人との関係を断つという決断をしたことを示しているのではないでしょうか。本来、これだけの莫大な金を託されたら、主人の気持ちに応えようとするのではないでしょうか。主人に選ばれ期待され、愛されていることを素直に受け止めたら良いと思われます。主人の愛を拒否すると受け取られる行為です。1タラントン預かった僕は、主人から預けられたお金を感謝もせず、用いることなく、土の中に埋めたのです。旅に出た主人は、預けたお金で商売をしなさいとか何に使いなさいとか、この金の使い方についての指示は何一つしていません。しかし、主人は清算の時、土の中にしまうよりは、銀行に預けておいた方が良かったではないかと指摘しました。主人は神です。金を預かった僕は私たちです。
商売をして主人の金を増やした2人は主人から「一緒に喜んでくれ」と称賛の言葉を受けました。天の国の晩餐会の招待状を受け取ったような気分を味わったことでしょう。天の国の晩餐会に招かれるということは、終わりの日に天の国へ入ることです。
マタイによる福音書18章3節「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」という、この「天の国に入る」という言葉は原語のギリシャ語では「喜びに」「加わる」という言葉が用いられています。天の国のたとえで伝えられていることは、主人の喜びに加わるということです。しかし、1タラントンの僕のように主人との関係を自ら断つ生き方があるのです。この僕の言い分は、24節です。
『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
主人の考えも心も期待も受け入れず、主人の金に一切手を付けず、主人とは関係なしで生きる生き方がここに現れているのではないでしょうか。「これがあなたのお金です」という言葉は、商売用語だそうです。商売の資本金を手つかずで返したことで、減らしたわけではないので商売上では問題なしという応えになるのです。この返金で主人との取引は終わります。しかし、主人はそのような者を許さないのです。
主人、すなわち神に対する愛を失っているのが1タラントン返金した僕です。なぜ、返金したのでしょうか。「恐ろしくなった」からです。主イエスはタラントンのたとえを通して、私たちに神を恐れるあまり神の愛を拒否することがないように忠告しているのです。
私たちは神を信頼して恐れることは大切です。しかし、神への信頼を失って恐れてしまうと、神への愛も感謝も失い、神との関係を失ってしまうのです。
主人はこの僕を「怠け者」と呼びました。神の1タラントンを用いないからです。神がどんなに愛して下さっているのか分かろうとせず、神の愛を土の中に埋めてしまう者が「怠け者」です。銀行の利息でもいいから、神の愛の贈り物を受け取ってほしいと考えているのが私たちの救い主なる神なのです。
このタラントンのたとえは、三つの審判の物語の一つであることを先に述べました。信仰生活には最後の審判があるのです。私たちは現在の信仰生活をこのまま、神への感謝をもって生きて全うしたいと考えます。しかし、私たちは1タラントンの僕になってしまうかもしれません。明日のことはわかりません。だからこそ、主イエスはこのたとえ話を弟子たちに語ったのです。この時の弟子たちは、誰もが自分が1タラントンの僕になることなど夢にも思ってみなかったでしょう。しかし、主イエスが逮捕されて、鞭打たれて、十字架刑に処せられることで、恐れて1タラントンの僕になってしまったのです。私たちは、今は2タラントン、5タラントンの僕であると思うかもしれません。しかし、私たちの思いを超えて、私たちは、主イエスの弟子ペトロのように主イエスを知らないと繰り返すような弱さを持っているのです。
使徒信条には「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」とあります。最後の審判があるということを教えています。復活の主イエスが再臨される時、神の国が完成するとき、私たちは最後の審判を受けるのです。最後の審判は一人一人が受けるのか、教会単位で受けるのか、もっと別の共同体として受けるのかは、受け止め方、理解の違いはあります。しかし、大切なことは、最後の審きを軽んじないことです。主イエスが十字架上で祈ってくださったのだから、再臨のキリストが私のために祈ってくださるに違いないと信頼してよいのです。しかし、だから最後の審判など、素通りできると考えてはならないのです。同時に、神を恐れるあまり私は救われるはずはないとあきらめてもならないのです。救いの確かさを与えられているのだから恐れすぎてはならないのです。恐れるあまり神との関係を自ら断つことはあってはならないのです。
再臨の主イエスが「怠け者の悪い僕だ」と審き、救われるものと滅びる者とに分けられるのが最後の審判です。私たちは洗礼を受けていても、真面目に教会生活を送っていても、最後の審判の時を迎えるのです。私はどうなるのだろうか。私の家族はどうなるのだろうか。不安にかられることがあるのです。キリスト教信仰において神の審判を恐れ過ぎて、神との関係を断つなら1タラントンの僕と変わらないのです。神への畏敬と恐れを完全に失ってしまっても問題です。信仰生活において緊張感を失い、堕落してしまうのではないでしょうか。楽観的に救いだけを信じて、神の審判、滅びを与える神を見ようとしないし認めないというのでは神を神としていないことになります。人間を救うお方は滅ぼすこともできるお方なのです。そのことは、十字架の主イエスがお示しになりました。罪にまみれた人間が神の審きによって滅ぼされることを教えているのです。十字架の上で主イエスは罪びとの罪を私たちに代わって引き受けてくださっているのです。私たちは十字架の主イエスを通して、神の厳粛な審きの厳しさを受け止めるのです。主イエスが身代わりとなってくださらなければ、私たちが十字架に架けられなければならないことを忘れて、神を軽んじたり、甘く見ることは許されないのです。
最後まで神を信頼しつつ正しく神を恐れ、十字架の主イエスの愛を感謝して信頼して、最後の審判を迎え、主イエスから離れない信仰生活を全うしたいと願います。