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銀座の鐘

「ささげる喜びに生きよう」

説教集

更新日:2025年03月15日

2025年3月9日(日)公現後第9主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村 満

マタイによる福音書 26章1節~13節

1, 誰にも理解されず十字架に赴く主イエス

「これらの言葉をすべて語り終えると」26章はこのように始まります。これらの言葉。すなわち、これまでの主イエスの宣教期間で語られた、このマタイ福音書で語られた全ての説教。またたとえの言葉。慰めの言葉です。主イエスはここで、その全てを語り終えられたのです。語るという務めはここで終わった。後は、最後にして最大の務めである十字架に赴くだけなのです。そこには主御自身の心に、深い覚悟があったに違いないのです。それは、誰にも理解されずに死ぬということ。その理解できない全ての人々のために、そして全人類の罪の咎を受けての死であります。それを主イエスは、天の父の御心として受け入れるのです。その周りには、敵ばかりがおります。計略を用いて、主イエスを捕らえて、殺そうと相談している者たちがおります。憎しみや妬みの念が渦巻いております。そのように、主イエスを妬み、殺そうとする祭司長やファリサイ派の敵対者たちのためにも、主イエスは死に赴かれるのです。そしてこの出来事への理解のない、まだ弱き弟子たち一人一人のためにも死なれるのです。一番わかってほしい、いつもそばにいたはずの弟子たちが、この主イエスの悲壮なる覚悟をわかっておりません。そのことへの寂しさも、主イエスの心にはあったに違いないのです。ここで、主イエスは全く独りになられるのです。わたしたちは孤独を恐れます。独りになることは誰にとっても怖いことだと思います。それはただ一人で生きるという孤独ではありません。多くの人々に囲まれながらも孤独であるという、そういう孤独です。誰も自分を理解できない。しようともしないという孤独です。そのような孤独の方が、よりいっそう孤独に感じるものであります。主イエスはそういう孤独をいつも抱えておられました。しかし主イエスには天の父がおられました。主との愛の交わりに生かされていました。しかし、この十字架においては天の父にも、いっときではあっても、確かに見放される。見捨てられる。そのような最大の孤独を味わわなければならないのです。そのような深い深淵の奥に入ってゆかれる。地獄を見に行かれるのです。主イエスはこの十字架において、サタンに生け捕りにされる。しかしまさにそこで、主イエスは死の力とサタン。悪魔の力に打ち勝たれる。そのような大いなる戦いに赴かれるのです。でも、この悲壮なる決意をだれもわかっていないのです。弟子たちは、やがて、復活した主イエスと出会い、その大いなる救いの出来事を知ることとなりますが、ここでは、眠りこけたり、逃げてしまったりと、まことに弱い者たちです。そういう弟子たちを、しかし主イエスは心から愛しておられました。弟子たちだけでなく、主イエスを十字架にかける者たちをも、深く愛しておられたでしょう。そのような愛の実りとして、多くの人間の救いが、やがて、起こります。しかしその時はまだでありました。

2, シモンの家で

「さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、」ここにはシモンという人が登場いたします。重い皮膚病とあります。しかし当時の律法の戒律では、そういう病気の人は、人前に出ることさえできず、人との接触は許されませんでした。おそらく主イエスによって癒されて、そこで懇意になった。そのような交わりであったのでしょう。かつて重い皮膚病であった。それがあだ名のように語られているのかもしれません。
そのシモンの招待した食事の席で、「一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺をもって近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。」とあります。そしてそれを見た弟子たちは、憤慨したのです。腹を立てたのです。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか?高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」この弟子たちの態度を聞いて皆さんはどう思われるでしょうか。マルコ福音書の並行記事では300デナリとあります。1デナリが、その日一日、朝から晩まで目いっぱい働いたときの日当であると考えられております。すると、やはり随分と高価であることがわかります。その香油を、主イエスの頭にすべて注いだのです。少しの香油で十分に良い香りがするものをです。それゆえに、全くもったいないと弟子たちは怒った。皆さんはどうでしょう。あなたたちの香油ではないのだから、何も、憤慨するほどのことではないと思われるでしょうか。それとも、一緒になって腹を立てるでしょうか。弟子たちの言う通りだ。確かにそれはもったいないことだ。そう思われるでしょうか。
 多分、弟子の憤慨は、多くの世の人々がこのような状況の中でしてしまう反応であるとわたしは思います。それは、合理性を重んじるわたしたちの素直な反応でさえあると思います。しかし、ここでわたしはこう思うのです。こんなふうに、さも正論をかざして、もったいないと言う人たちが果たしてどれほど、自分の生活を切り詰めて、神にささげる生き方をしているだろうか、ということです。弟子たちの態度は、ヒューマニズムの観点から言えば、正しいのかもしれません。しかし、人間を大切にするというだけで、そこで神を大事にしていないときには、そのヒューマニズムも的を外したものとなってしまうのではないでしょうか。人を愛するということは、神を愛するということが軸となっていなければ、本当の実りをもたらすものとはならないのではないでしょうか。

3, 十字架の王イエスの即位式

 このような中で、主イエスは言われました。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」そのように語り、心から喜んでくださったのです。この出来事が一体、どのような意味をもっているのか、ということをまず最初にお伝えしたいと思います。主イエスはこの、女性からの香油の注ぎを良いことと言われます。なぜ、良いことであるのか。しかも13節で主イエスは言われます。「はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」主イエスの十字架の福音の物語が語られるとき、必ずこの出来事も記念として語り伝えられる。その約束は確かに、聖書に記され、今も語り伝えられております。だから今わたしたちはこの物語を聞いているのです。それほどに偉大な、素晴らしい出来事として主イエスは受け止めてくださった。その意味とは何か。ひとつには、パレスチナでは、死者を葬るにあたって、御遺体に香油を塗るという習わしがあった。それをこの女性は事前にしてくれたのだ、ということでありましょう。しかしこの油注ぎはその意味にとどまるものではないのです。実は、この油注ぎこそが、主イエスの、王としての油注ぎであった。偉大なるまことの王。イエス・キリストの即位式が、このような秘められた形で執り行われたのです。旧約聖書では、王が即位されるとき、預言者または祭司からその頭に油を注がれるのです。イスラエルの初代の王サウルも、またダビデ王もそのような油注ぎを受けました。しかし、主イエスはダビデ王やサウル王のように、祭司によってではありません。むしろ祭司たち、神の民の代表は、約束の救い主を殺そうとしている。しかもその彼らの陰謀が叶い、本当に十字架で殺されてしまう。しかしその十字架という、栄光とは真逆であるはずの悲惨な刑罰という中で、神は主イエスに、真の王としての、神の栄光を表される。なぜならこの、神の独り子なる主イエスを、罪からの贖いとして差し出されるこの愛の御業によって、罪人である人間が死から命へ移り変わるからです。その偉大なる御業の前の、即位式が、大祭司ではなく、名もなき庶民の女性によって執り行われた。ここに、市井に生きる全ての者たちへ福音が行き渡ることが指し示されているとも言えます。だからこそ、主イエスがここで言われました「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」という宣言の真意がはっきりとしてくるのです。
 しかし、ひとつ疑問があります。彼女は、これから主イエスが死に赴かれる。死を覚悟していることや、主イエスがそのような形で神の栄光を表されるということをわかっていたのか、ということです。もちろん、わかってはいなかったのです。ではなぜこのようなことをしたのか。それは、彼女の心に、あふれ出るほどの、主イエスへの感謝と喜び。愛が満ちていた。彼女は心から主イエスを愛し、主イエスのために何ができるかを考えて、このような行為に及んだのだと言えます。ではなぜ彼女はこのように主イエスを、誰よりも深く愛するに至ったのだろうか。彼女の情熱はどこから来たのでしょうか。そもそも彼女は誰であるのか。主イエスは彼女を知っていたのか。この出来事以前に彼女との深い交わりがあったのだろうかという疑問があります。皆さんもご存じのように、ほとんど同じ物語が4つの福音書に重なっているということがあります。それゆえに新共同訳では丁寧に、同じ並行記事の箇所をそのセンテンスの見出しに書いておりますが、ここではマルコ14章とヨハネ12章が並行記事とあります。しかしそれぞれに、伝えたいテーマがあり、核となるメッセージが微妙に違っていたりします。説教者はそれらを読み比べてその比較において語ることもあります。けれども、この箇所に並行記事として語られていないけれどもかなり似ている物語が、実はルカ7章の中にある。ルカでは、罪深い女であった、とあります。その罪深い女であった女性がここで主イエスに香油を注ぐ。もしかすると売春などで身を持ち崩していたけれども、主イエスによって救われて心も体も新たにされたかもしれない、そんな女性であった。彼女は後ろからイエスの足もとに近寄って泣きながらその足を涙で濡らして、自分の髪の毛で拭い、そしてその足に香油を注いだ。それを見たファリサイ派が、罪深い女と仲良くしている主イエスを心の中で裁いた。しかし主イエスはこの女が、多くの罪を赦されたことはわたしに示した愛の大きさでわかる、と語られた。そういう物語であります。今日お読みしました箇所とは似ているところもあれば違うところもあります。頭に注ぐのと、足に注ぐのとで全く意味も違ってきます。だから並行記事ではない。けれどもルカにおいて主イエスに香油を注いだその動機は、主イエスへの恩義であった。心からなる感謝と愛であったということは一緒なのではないだろうかと私は思います。そして、ヨハネの並行記事では、この女は、マリアであったとあります。あの、マルタとラザロの姉妹のマリアです。マルタが台所で給仕をしている中で、真っ先に主イエスの足元に座って熱心に語る御言葉を聞いていたあのマリアです。ベタニアのマリアと呼ばれるこのマリアが、売春などをしていた罪の女であるとは考えにくいのですが、このマリアがなぜ、主イエスをこれほどに深く愛していたのか。感謝していたのか。おそらく彼女もまた、何かの罪に堕ちて、苦しむ中で、主イエスによって癒されて救われたからではないでしょうか。そのような想像は許されると思います。主イエスへの愛に、マリアは喜んで応えているのです。主イエスへの感謝と喜びは、男の弟子の誰よりも深く、強かったのです。愛してくださった。罪から救ってくださったその主イエスへの感謝と喜びがこの女性を、香油注ぎへと駆り立てたのでありましょう。弟子たちがもったいない、非常識だと怒ったほどに、この女性のしたことは異常なことであったかもしれません。しかし、それは、この主イエスという方が、私を助けてくれなければ、私は死んでいた。罪の中に滅んでしまっていた、という思いが、このような行動へと駆り立てたのではないでしょうか。主はこのようにも語っておられます。「赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(ルカ7章47節)そして、彼女の愛の応答を主イエスは心から喜ばれたのではないでしょうか。十字架におかかりになるその前にすでに、御自身の愛の業が一人の女性の内に確かな実りをもたらしていることを喜ばれたのではないでしょうか。孤独の中で、誰にも理解されない中で、弟子たちさえも逃げてしまうことが分かっている中で十字架におかかりになる。その孤独な主イエスの思いに最も寄り添い、応答してくれたからです。私は、孤独の中で死んでいくのではない。すでに、私の愛の業の実りが、この娘の心の内に実っているではないか!主イエスはこの女性。マリアを心からいとおしく思ったに違いありません。主は、私たちがその御心に生きようとするとき、必ず喜んでくださっています。わたしたちが主のために何かをしようとするとき、誰かが反対をするかもしれません。しかし、人の目ではなく神がどう思われるか。献身のかたちはそれぞれに違いますけれども、主の御心を問いながら、主が何を喜んでくださるか。祈り求める中で必ず示されると思うのです。

4, キリストに代えられません

 しかしわたしたちはなかなか、この女性のように、心からなる献身。心から主を愛し、主のためにささげようという生き方ができない。そういう現実もあるのではないでしょうか。そのようなわたしたちにとってこの女性は、偉人伝のように、しかし私たちと世界の違う人の物語として、いわば異質なものとして響くのではないでしょうか。衣食住足りて礼節を知る、という諺を皆さんも聞いたことがあると思います。生活に余裕ができて初めて礼儀、節度を重んじられるようになるという意味です。ある意味においてはこれも一理あります。生活の必要が足りないようなところで高尚な生き方を求める余裕なんてないのです。けれども、信仰はそうであってはならないのではないでしょうか。衣食住足りて初めて信仰を知る、というのではない。衣食住足りていても、罪の中に沈み、生きる意味を知らず、希望なく生きていたわたしたちであります。たとえ、生活に困ることがなくとも、滅びに向かっていたわたしたちのために、主イエスは死んでくださったのです。この、主イエスの十字架を見上げて歩むとき、わたしたちは、山上の説教で語られた、「心の貧しい者は幸いである」という御言葉をわたしたちの御言葉として生きる者とされていくのです。わたしたちがこの世において、どれだけ充足していても、その罪において、貧しき者であることを知る。それは礼拝においてしか知ることのできない恵みでもあります。ここでこそ、わたしたちは愛の神にお会いできるのです。その十字架の愛の深さを知るのであります。そして本当の自分を悟るのです。罪人である私。それゆえに生きる意味を知らず、死を恐れていたわたしを知るのです。しかし、主に愛されている私。私のために十字架におかかりになって死んでくださった方がおられる。それほどに愛されている私。宝とされている私である喜びを知るのです。神の御子が、この私のために、死んでよみがえり、復活の命を与えてくださったことを知るのであります。わたしたちは皆、何がなくとも、キリストがおられないならば、私の人生は成り立たないのだ、ということを本当に信じているでしょうか。それがこの、主イエスをこよなく愛する一人の女性の行動を通して私たちにも問われているのではないでしょうか。しかしこのように神を愛することは誰にも強制はできません。私たち一人一人が、主を心から求めて、その恵みをもっと深く教えてください、その愛を示してください。その愛に応答する者とならせてください、成長させてください、と願う中で、初めてわたしたちもこの主イエスに喜んで全財産である香油をささげるような者となれるのではないでしょうか。わたしたちの献身の動機はなんでしょうか。わたしたちが主イエスに従う根拠は何でしょうか。それは、罪を赦されて、救われて、永遠の命が与えられたという喜びです。神の子とされた喜びです。神に愛され、神がいつも共にいましたもう喜びです。

5,愛は計算しない

 この、香油を主イエスの頭に注いだこの女性は、弟子たちがもったいないと言って怒ったような、そういう計算はしていません。もったいないという計算があれば、こんなことはできなかったはずです。私たちの愛情というものは実にしばしば、計算が入ってきます。たとえば、失恋した男や女が、悔しがってこう言います。あんな人に心を、時間を、お金をささげるんじゃなかった。わたしの時間を返して。などと言う。そう言わせる相手が悪いのか。そう思ってしまうのが悪いのか。わかりませんが、見返りを求めるのが、私たちの愛情の限界でありましょう。しかし、十字架の愛は、まず、惜しみなき愛を主がわたしたちに注いでくださったし、今もわたしたちに注いでくださっています。現在進行形で私たちは主イエスに心から愛されているのです。そのことを、私たちは御言葉を通して知らされていく。その主イエスの愛を知らされるにつれて、わたしたちもこの女性のように、ささげる喜びに生きる者となっていくのです。主イエスの十字架において神様の愛がまず与えられている。あなたのために主イエスは十字架にかかって死んでくださいました。あなたが罪赦されて永遠に生きるものとなるためです。その愛に応えて生きるとき、わたしたちの人生は大いなる意味と喜びに満たされていくのです。
 そのような愛を知らされていくとき、もったいないという言葉が私たちの口から出ることはありえないと思うのです。なぜなら、その精神と、思いと、時間、能力を尽くして、主にささげたとしても、それらは、全く小さなものにすぎないからです。主イエスの十字架の恵みに対する対価とは決してならないからです。捧げきる、などということは私たちはできないのです。今もなお私たちは、その瞬間瞬間に、罪を犯し、私たちに仕えてくださっている聖霊を悲しませることがあるのですから。それでも主イエスは、私たちが、この女性ほどにささげてはいなくとも、その御心に適う歩みをしようと志すときに、喜んでくださるのです。この香油注ぎは、確かに、神の御心に適うことでありました。その意味を彼女は知らずに、その無垢なる愛のゆえに、王イエスの即位式のために用いられたのであります。私たちもまた、主に与えられた時と賜物とを、主にささげていきましょう。何をすれば、主はわたしたちを喜んでくださるか。私のために死んでくださった、その主イエスに何をすればよいでしょうか。これからも、この御堂に集い、讃美と感謝に。そして祈りに生きていきましょう。お祈りをいたします。

天の父なる神様。私たちがどれほどにあなたに愛されているかを悟らせてください。あなたの恵みが日々、どれほど深くわたしたちに注がれているかを御言葉を通して知らしめてください。そしてわたしたちも、あなたの愛に応えて、あなたの喜ばれる献身に生きる者とならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン