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銀座の鐘

「謙虚でありなさい」

説教集

更新日:2025年03月15日

2025年3月16日(日)受難節第2主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一3章8~12節

私たちの礼拝では必ず聖書が読まれます。聖書をまことに聖書らしく読むことが、礼拝を正しい礼拝としてお捧げすることになると信じているからです。今朝の御言葉は「終わりに」という言葉から始まります。「終わりに皆心を一つにしなさい」と言うのです。ここに至るまでには妻たちに対する教えがあり、その前には召使いたちに対する教え、そしてその後には夫たちに対する教えが語られました。人間は色々な立場や役割に置かれるものです。しかしその終りにそれぞれの立場を越えて、どの立場にある人に対しても、また男と女の区別もなく必要なことがあるというのです。
ここには特に五つのことが、それもまず信仰者の間で心にかけることとして語られます。まず「心を一つにするように」、そして「同情し合うように」、さらに「兄弟愛を生きるように」、「憐れみ深くあるように」、そして「謙虚になりなさい」というのです。これは誰がどういう立場に立つにせよ、どういう責任や役割を負うにせよ、すべての信仰者に対して勧められています。
これをどう聞くのが聖書らしく読むことになるのでしょうか。心を一つにというのは、「一つの心で」という言葉です。それぞれがそれぞれの考え方をしていてはいけないという意味ではありません。多様な心の持ち様や思想上の違いが許されないわけでもありません。個性的な生き方があり、多様な生活、異なる環境にいるはずです。
しかし聖書は本来神を語っています。道徳的な勧めを語っていると思えるこの個所でも、聖書を聖書らしく読むためには、「一つの心で」と言われる根拠が神にあることを受け取らなければならないでしょう。神は唯一なる神でいらっしゃり、その唯一なる神が生きておられます。それが聖書の根本にある真実です。聖書は生ける神の真実から語られています。神が唯一ですから「信仰は一つ」と言われます。「一つの心」は、皆の心を人間の命令で縛ることを意味していません。そうでなく、唯一の生ける神の御前で、神と共に、神によって生かされている、その恵みに根拠を置いて語られています。「一つの心」とは、唯一なる生ける神に寄せる信仰のことを語っています。
一つの信仰に生きるようにと語った後で、愛をもって生きる生き方が三つの用語で語られます。「同情し合い」、「兄弟愛を生き」、そして「憐れみ深くあるように」です。ここでも聖書を聖書らしく読むためには、私たち人間の愛の倫理がもっぱらの主題だと読むことはできないでしょう。私たちが互いに愛する愛が相互に同情し合い、また兄弟愛でなければならず、憐れみ深くあるのでもなければならないと言われます。しかしただそれだけのこととして読んだとして、特に聖書を読んだことにはなりません。
「同情し合う」ということ一つを取って見ても、立場も性格もをそれぞれ異にする私たちが、どれだけ真実に同情し合えるのでしょうか。「同情」と訳されている言葉は、英語で言うシンパシーですが、「共に」を意味する「スン」と、パシーはパトス、苦痛や苦しみを共にすることを意味します。真実に同情し合うことは人間には困難でしょう。むしろ本来、ここでも聖書は生ける神から語っています。あるいは神の真実から語っていると言ってもよいでしょう。真実に苦しみを共にしてくださる神がおられるということです。生ける神に苦しみを共にしていただいている私たちだということ、だから互いに同情し合いなさい。神の同情によって生かされている者として、互いに同情し合いなさいと言われています。
「憐れみ深く」とあるのも、その根本は神が「憐みの神」であることを告げ、神の憐み深さに生かされることによって憐れみ深くあれと言われます。「憐れみ深い」という言葉が、「内臓」「はらわた」を意味する言葉から出来ているのを聞いた方がいるかと思います。神の憐みは決して言葉だけのものではありません。神の内臓・はらわたが痛むようにして、神の深みから溢れ出る神の愛があるのです。私たちのために十字架の苦難の死を負った主イエス・キリスト、この御子なる神キリストの出来事にあって、神は憐れみ深い神です。憐れみ深い神がおられるということが神の事実であり、真実です。この神の事実に基づいて憐れみ深くあるようにと命じられます。そう聞かなければならないでしょう。神が生きておられ、その神が唯一の神であり、憐みの神である、この根本の事実に触れることなしに聖書を聖書として聖書らしく読んだことにはなりません。
五番目は「謙虚でありなさい」です。「謙遜でありなさい」と言っても同じです。文字通りには「低い心で」という言葉です。初めにあった「一つの心で」と対応して信仰の有り様を語っています。間に三つの愛の勧めを挟んで、「心を一つにするように」と「心を低くするように」と信仰が語られています。謙遜であること、謙虚であることは、神の御前に自らは低い心で、つまり神の方を高く仰いで生きることです。神がまことに神でいらっしゃる、神が生ける神でいらっしゃる、その活ける神を信じ、神を高く仰ぎ、神の御前に生きることです。神が生きておられるのに、神に対して心高ぶる者は、神を忘れ神を神として認めない不信仰になり、あるいは神に満ち足りることをせず、神を不足として、自分自身をあるいは別のものを神にします。それが罪ということです。
教会は伝統的に罪の典型を「貪欲」と見るか、あるいは「傲慢」に見て来ました。人間の貪欲と共に傲慢が罪の典型的な姿だという見方は、現代の人間を理解するためにも重大な指摘になるでしょう。貪欲も傲慢も、神の力の偉大さを知らず、その恵みの大きさに満ち足りようとしません。それは本心で神を神としないことです。見るからに傲慢で神の御前に心を低くしない人間の姿勢は比較的すぐに謙虚でない者として分かります。しかし分かり難い傲慢もあります。神の慰めに満ち足りようとしない嘆きの中にあり続ける不信仰もあるのではないでしょか。身を低くしているようで、しかし神の助けや憐みに拠って生かされることを拒む。主イエス・キリストにある神の慰めに満ち足りようとしなければ、それも神の御前に心低くあるとは言えないでしょう。神が憐みの神であり、その神が生きておられることに深く慰められて生きる。それが「謙虚でありなさい」との勧めの中に含まれていると言わなければならないでしょう。
これらのことを語ったのちに、9 節では「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはならない」と続き、「かえって祝福を祈りなさい」とあります。これは同信の兄弟姉妹の間というよりもむしろ教会の外の人々に対し、ときには悪意をもって接触してくる人々に対してどう対応するかを語っています。悪をもって悪に報いず。侮辱をもって侮辱に報いない。なぜでしょうか。神が生きておられるからです。復讐を断念しなさいと言うことは、裁きは生ける神に任せよと言うことです。この言葉は主イエスから出ています。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5・44)と言われたのは主イエスです。主イエスの活ける姿を仰いで、聖書の御言葉をその活けるキリストの実在から聞くことができます。悪に対し悪で応じる。それは地上の国家の論理でしょう。しかしもっと一段深いところで神が生きておられ、復活の主イエスの実在のもとで、聖書が真実を告げています。復讐は神がなさり、復活してあらゆる権勢を足もとにした実在の主イエス・キリストが、罪と悪と死に対する勝利者でいます。その主の召しによって祝福を祈りなさい。神の救いに与るようにと祈りなさいと言うのです。神が生きておられるという事実が、信仰者を神の救いの伝令者にします。

天の父なる神様、御恵みと御力に富んだあなたが今日も私たちと共にいてくださいますことを心から感謝致します。世界中が今や悪をもって悪に報いようとしています。そのために本当に希望をもって生きることができません。私たち自身もしばしばその一員になっている不信仰をおゆるしください。どうか主イエス・キリストにあってあなたの御恵みと御力に依り頼み、あなたの救いであるあなたの祝福を世に伝える伝令者へと立ち返らせてください。心を一つにし、同情し合い、兄弟愛に生き、憐れみ深く、謙虚な者にしてください。御子主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。