「土曜日のキリスト」
説教集
更新日:2025年04月12日
2025年4月13日(日)棕梠の主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧 師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一3章18~20節
18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
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今朝は棕櫚の主日、今日からの一週間が受難週です。受難週の金曜日に主イエスは十字架にかかり、死なれ、そしてアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。その日を第一日として三日目に死人の内より甦られたと言われるとおり、次の日曜日が復活日になります。それでは金曜日の十字架の苦難と死と葬りがあって、次の日は安息日つまり土曜日です。その土曜日のキリストはどう語られるでしょうか。福音書にはその記述はありません。ただ新約聖書と同じ起源から生まれた使徒信条は、それを語って「主は・・・十字架につけられ、死にて葬られ」に続いてしばらく時代が立ってのことと言われますが、「陰府にくだり」という信仰告白の一句を加えました。そして「三日目に死人のうちよりよみがえり」と続けられます。「死んで葬られた」という金曜日の主イエスと、「三日目に死人のうちよりよみがえり」という週の初めの日の復活の主イエスとの間に、土曜日の主イエスは「陰府にくだられた」と言われるわけです。それはどういうことでしょうか。
お読みいただいた聖書箇所は極めて難解な箇所の一つとされていますが、主キリストが陰府にくだられたと類似のことを告げています。まず 18 節でペトロの手紙は、主キリストの苦しみを語ります。主は御自身罪のない方であったにもかかわらず、罪ある人々のために「ただ一度」苦しまれたと言うのです。「ただ一度」というのは、二度、三度と追加が必要な形でなく、追加の不必要な決定的な仕方で、一度にして完璧な仕方でという意味です。補ったり付け足したりする必要のない「ただ一度」、「すべてにわたる仕方でただ一度」(once for all)と言われます。すべての人を包んでその効力を発揮する完璧な仕方で、主は十字架に苦しまれました。「完全な苦しみ」というと奇妙な表現ですが、罪にまみれた私たちを神のもとに導くためとあるように、その使命を果たすのに十分な全人類のための苦難を決定的に、何の補足も必要としない仕方で主は苦しまれたわけです。そのことと「陰府にくだり」は関係しています。
宗教改革者たちは信仰の基準として使徒信条を重んじました。ですからこの「陰府にくだり」にも注目して、その意味を解説して、「死と苦難の徹底」と説明しています。土曜日のキリストは金曜の十字架の死と苦しみに徹底し、深き死と重い苦しみの深淵のなかにくだられたと言うのです。ですから、世にあってどんな苦しみの中にある人も主イエスほどには苦しみに逢っていません。またどんな苦しい死を遂げた人々も、主イエスの死ほどではなかったのです。このことは将来についても言えるわけで、この先主イエスほどの苦難の死を死ぬ人はいません。ですからどんな悲惨な苦難や死にあっても、主イエスはすでにそこにおられます。もっと悲惨なところにも主は身をお置きになっています。
主イエスがどんな苦境にもいますということはどういうことでしょうか。それはどんな苦境にも主は私たちと共にいてくださるということであり、それも主が苦しまれたのは、私たちの罪のため、そして「あなたがたを神のもとへ導くため」です。「陰府にくだられた」というのは、十字架の死と苦難の徹底として理解しますと、「土曜日のキリスト」は、私たちを神のもとに導くために、十字架で成し遂げた苦難の死の中に徹底し、その死と苦難の中を深く深く下られたということです。
ペトロの手紙は「陰府にくだり」という表現では記してません。ですが、19 節には「そして霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」というのです。「捕らわれていた霊たちのところ行って」という言い方は、死の世界にいる者たちのところへ主イエスが行かれたことと解釈されます。「陰府」という言葉はありませんが、「陰府にくだり」と同じことと理解してよいでしょう。「陰府」は旧約聖書で死者の世界のことを意味していました。
それにしても、ペトロの手紙は使徒信条にないことも語っています。それは、死者たちのところで主イエスは「宣教された」と言うのです。この個所の明快な解釈は困難で、ペトロの手紙が「土曜日のキリスト」を語っているかどうかも実ははっきりしないところがあります。と言いますのは、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きるものとされたのです」と言われます。これが、肉では十字架に死んだが、霊では復活によって生きる者とされたと言っているとも解釈され、そうすると陰府にくだったのは、復活後のことのようにも理解されるわけです。ペトロはそれがいつだったかということを明言していないわけです。それよりもただ、死者のもとにくだるキリストを語り、そのキリストが決して無力なキリストではなく、罪ある者の罪に勝利し、人々を罪と死の力から解き放ち、神のもとへ導く力あるお方であり、そういうお方と死んだ人たちに宣教する、福音を宣べ伝えたと語っているわけです。「宣教されました」というのは、死に捕らわれている人々に対して福音を宣べ伝え、その人々を神のもとへと導き、救済したということでしょう。
そうなると死んだ人間でも福音を聞けるのだろうかという疑問が出てきます。ここは死の世界そのものはどういう世界か、死んだ人でも福音を聞くことができるのかといった問題に誘われるのでなく、むしろ主イエス・キリストというお方とその働き、その恵みと力、そこに関心を集中させ、その証言として聞く必要があります。
つまり、土曜日のキリストは「陰府にくだられるキリスト」であり、それは、主キリストが苦しみに徹底して身を置かれたということであり、それも罪と死に対し勝利するキリストであって、信仰なく死んだ人々さえも神へと導き、救いに入れてくださるお方であると言うのです。
この聖書の箇所は、理解するのに困難な箇所と言いましたが、それには古代人の宗教とそれを記した文書が背後にあると言われます。「捕らわれた霊たち」という言葉はもともとは、「堕落した天使」か、あるいは創世記に出てくる「ネフィリム」という神と人間の間の神話的な存在を指すかしたのではないかと言われます。それをペトロは「ノアの時代のノアとその家族以外の当時の人々」と理解し、神の忍耐強い言葉に従おうとしなかった不信仰な人々と解釈しました。それでは土曜日のキリストが福音を伝えて、神へと導かれたのはノアの時代の人々だけであって、その後の時代の人々はどうなるのかという疑問も出てくるでしょう。福音を伝えられず生涯を終えた人、あるいは私たち自身が福音をしっかりと伝えることができず、信仰のないままに死んだ方々もおられるわけです。その人々はどうなるのかと疑問を持つ人もいるでしょう。それに対して、「捕らわれた霊たち」としてノアの時代にノアの言葉を信じなかった人々が挙げられているのは、神の忍耐に応じず、それを無にした信仰なき人々のいわば代表として挙げられているのであって、主イエスの「陰府くだり」は宣べ伝えを伴い、土曜日のキリストの宣べ伝えは、陰府の世界の全域にわたると理解することができるでしょう。
土曜日のキリストの陰府くだりは、キリストの苦しみの徹底と共に、その恵み、その愛、その救いの力が、死の境界線を越えて、死が支配する世界に及び、死の支配を破って、徹底的に発揮されたわけです。フィリピの信徒への手紙の中に「キリストの力」について、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」(フィリ 2・10)とあります。古代人は世界全体を三層構造で、天上の世界と地上の世界、それに地下の世界があり、それが陰府とも言われました。しかしそこもまたキリストの力と恵みが及ぶ範囲に入れられたと言うわけです。主キリストの陰府くだりということは、陰府もまた主の恵みの支配のもとに置かれたということです。主イエスの恵みの及ばないところはなく、陰府はもはやなくなったと言ってもよいわけです。
主イエスの「陰府での伝道」があるのなら、ひょっとすると、私たちは伝道しなくてよいと考えるかもしれません。しかしそれは違います。そうでなく、主の福音の恵み、その力の及ばないところはないということ、「土曜日のキリスト」はその陰府への伝道によって、全現実を覆ったということです。天上、地上、地下のすべてのものが主を知り、神を讃美するというのは、この世界、この現実のどの隅々にも主イエス・キリストの愛と恵み、その救いの力が及ぶということです。土曜日のキリストの働きは、世界の隅々まで福音を及ばせ、伝道によって包むことを語っています。ですから伝道はしなくてよいのでなく、世界のどんな隅々にも主イエス御自身がいかれるのですから、どんな世界の片隅も福音伝道がなされる場所にされているということです。土曜日のキリストは、主の福音が行き渡れない場所はないと言い得る理由を与えています。
愛と御力に富みたもう天の父なる神様、主イエス・キリストの御受難を覚え、御名をほめたたえます。主イエスは十字架に架かり、死んで、葬られ、そして陰府にくだりと教えられました。私たち一人一人の罪のためであり、わたしたちをあなたのみもとに導くためであると聞き、その深刻さにおののく思いです。主イエス・キリストがわたしたちのために深く苦しみ、そのあげくの死に徹しられ、この世界の悲惨と暗闇の隅々にまで身を置かれ、そこに主の救いの力を及ぼしてくださったことを感謝いたします。どうぞ陰府にまで下られた土曜日のキリストの恵みと働きがあることを覚えさせてください。私たちの証の生活を、そして日本の伝道も世界の伝道も主イエス・キリストが支ええくださっていることを覚えさせてください。受難と勝利の主、イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。