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銀座の鐘

「復活の主と朝食」

説教集

更新日:2025年04月19日

2025年4月20日(日)イースター礼拝 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師  髙橋 潤

ヨハネによる福音書21章1~14節

 本日は復活日イースターです。金曜日に十字架上で息を引き取られた主イエス・キリストが日曜日の朝、誰もいない墓において復活し、弟子たちにご自身の姿を現した時のみ言葉からお聞きしたいと思います。
 復活の主イエスが弟子たちの前にその姿を現したのは、「ティベリウス湖畔」でした。この場所は、かつて主イエスが弟子たちに「わたしに従いなさい」と声をかけたガリラヤ湖と同じ場所です。主イエスの弟子たちがガリラヤ湖にいたということは、エルサレムで十字架刑に処せられ、主イエスが息を引き取られたこと知って、エルサレムを離れて故郷であるガリラヤ湖に帰って来ていたことを意味しています。
 復活の主イエスにお会いする前の弟子たちはどのような姿だったのか、ヨハネによる福音書は印象深く記しています。シモン・ペトロが「わたしは漁に行く」といいます。ほかの弟子たちは「わたしたちも一緒に行こう」といいます。この時の弟子たちの心は、希望に満ち溢れていたはずはなく、主イエスを失い路頭に迷う姿です。絶望のどん底、人生の危機であったと思われます。元漁師であった弟子たちが、心の支えを失い、やっとのことで「漁に行く」しかない、という絶望の船出であったのでしょう。ガリラヤ湖には、かつてのような主イエスの姿は見えないのです。船に乗ろうとしても主イエスはいないのです。人生の支えを失った弟子たちの姿がここに記されています。さらに、主イエスを失った現実が印象的に描かれている言葉は「その夜は何もとれなかった」という3節の御言葉によって、生きがいを失い、生ける屍となっていた弟子たちの姿が伝えられています。
 しかし、そのような絶望のどん底の弟子たちの前に、これまで話していた弟子たちの全ての会話を聞いていたかのように、ガリラヤ湖の岸に復活の主イエスが立っておられました。漁をするために船を出し、一匹の魚も取れずに帰ってきた疲れた弟子たちを、復活の主イエスは見つめ続け、迎えているのです。それが復活の主イエスです。
  私たちが一日の務めを終えて帰宅する、疲れ切って帰ることがあります。そのような時玄関の前に、主イエスが立っているのです。私たちのぼやき、つぶやきを聞いておられ、それでも叱ることも見捨てることもなく、私たちの前に待ち続けていたように立っていてくださるのが復活の主イエスです。私たちは主イエスが十字架で死んでしまったと思い込み、希望を失い、主イエスはもういないと思い込んでしまうのです。十字架にかかる前に主イエスは弟子たちに三度も、私は死んで三日目に復活することになっていると伝えていました。にもかかわらず、その言葉を忘れて、絶望してしまうような私たちを待って、迎えて下さるのです。何度も話してくださったのに忘れてしまうような者は、普通あきれられて、相手にしてもらえないのです。しかし、神の愛は違います。私たちを見捨てないのです。見捨てないだけでなく、さらに声をかけて下さいました。5節「子たちよ」と声をかけてくださいました。復活の主イエスは私たちを「子たちよ」と呼びかけてくださいます。これが復活の主イエスです。復活の主イエスは、一匹の魚も取れず空手のままでむなしく帰ってきた弟子たちに、大漁の魚を与えるために、舟の右側に網を打ちなさいと命じました。「大きな魚でいっぱいになった」と記されています。復活の主イエスは「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と弟子たちのために朝食を用意してくださいました。これが弟子たちの前に姿を現してくださった復活の主イエスです。
 私たちは、四つの福音書によって、復活の主イエスと出会うことができます。み言葉の中で、あの弟子たちの姿の中に自分自身を見出すとき、復活の主イエスと出会うことができます。み言葉を通して、岸辺に立つ主イエス、「子よ」と呼びかける主イエス、朝食を用意して迎えてくださる主イエスにお会いすることが出来るのです。
  
 主イエスの十字架と復活は教会の信仰の土台です。復活の主イエス・キリストを信じることが信仰の中心です。主イエス・キリストの復活を信じて、その信仰を告白する群れがキリストの教会です。主イエスが復活したということを昔の出来事としてとらえることだけでなく、主イエスの復活を信じるということは、復活の主イエスが弟子たちに与えた神の恵みを、私たちが受け取り、信じることなのです。

 聖書は、主イエスの復活は父なる神の御業であると語ります。使徒言行録2章32節に記されているとおりです。「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」主イエス・キリストは父なる神によって「復活させられた」のです。その父なる神の御業を通して、私たちは復活の証人になるのです。主イエスの復活は、私たちと無関係な出来事ではなく、主イエスを見失ってしまうような私たちのために、主イエスがもう一度、愛する子よと呼んで、弟子にしてくださる恵みの招きなのです。
 キリストを死んだ者の中から復活させたのは、父なる神の力によって私たちにも新しい命を与えるためなのです。新しい命を与えるということは、主イエスの十字架の死が私たちを新しく生かすために、罪の赦しを与えるという神の救いのご計画です。

 本日の聖書の出来事によって明らかにされているように、主イエスの復活は、肉体をもって復活されたことに注目しなければなりません。この事実によって、私たちに「身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」という使徒信条の信仰が与えられているのです。
 使徒パウロは、主イエス・キリストの復活は「眠りについた者たちの初穂」と言い表しました。「眠りについた」とは死んだということです。主イエス・キリストが復活して永遠の命を生きておられるので、私たちも将来復活して、永遠の命に生きる者とされることを待ち望み、希望をもって生きることができるのです。
 私たちの肉体は限りがあり、誰でもいつか時が来れば死を迎えるのです。主イエスが肉体をもって復活してくださったということは、私たちの体も死んで終わるものではなく、復活の命に生きる希望が与えられていることなのです。主イエスを復活させた父なる神が主イエスの死にあやからせ、私たちを死から命へ、復活にあやかり新しい体を与え、永遠の命を与えて下さる約束の出来事なのです。
 復活を信じると告白する私たちは、復活の主イエスと共に私たちに約束されている復活と永遠の命を信じて生きるのです。フィリピの信徒への手紙3章で使徒パウロは「10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」と語っています。
 私たちも、イースターの礼拝を通して、キリストの復活の力を知り、キリストの苦しみにあずかって、キリストの死にあやかりながら、復活に達したいと願います。

 以前、私が神学生の時にある大学病院のキリスト者である院長の話を伺いました。院長自身が重い病気で入院し、手術を受けた時にお見舞いの方々から聞いた言葉についてでした。病気の原因は不明でしたが、手術の前後、お見舞いに来た方々が、慰めの言葉、励ましの言葉をかけてくれたそうです。どの言葉もうれしかったのですが、その院長がある牧師の言葉に深い慰めを受け取ったという話でした。その牧師が伝えた深い慰めの言葉とは、「院長先生、大丈夫ですよ。死んでも天国に行けますからね、先生は」でした。この言葉に大変慰められたということです。ご自身の入院の経験を通して、「我々医者には、それを言うことができない。病気の経過、手術が成功した、と言うことはいえるけれど、『大丈夫だ、死んでも大丈夫だ、永遠の命、甦りの命をあなたはすでにいただいている。あなたの罪は赦されている。』そのことを言えるのは、私たちではない、あなたたちだ」とお話しされました。
 私は神学生でしたので当時は身をもって理解することは出来ませんでした。しかし、牧師が告げることが出来る「死んでも大丈夫だ、永遠の命、復活を信じること、罪の赦しを告げること」の根拠は、聖書が告げる復活信仰なのです。

 昇天するまでの40日間、何度も何度も主イエスが弟子たちの目の前に復活の姿を現してくださいました。十字架を通して死に勝利してくださったことを見せてくださったのです。死に勝利するということは、死なない体をもつことではなく、死を迎え、死の向こうに希望を見出して生きることです。
 私たちはみ言葉を通して復活の主イエスとの出会い、死の向こうに希望を見出だし、神の愛と力によって、生かされる道を歩み続けたいと願います。