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銀座の鐘

「命を語り伝える十字架」

説教集

更新日:2020年04月03日

2020年4月5日 受難節第6主日・棕櫚の主日 礼拝説教 藤田由香里伝道師

マタイによる福音書27章45節〜56節

 本日の御言葉は、主イエスの十字架上の場面の箇所です。主イエスが十字架におかかりになって3時間に渡り「闇が全地を」覆いました。地の上にある全てのものが闇に包まれた。光の源である神様の不在の時・神の御子の十字架刑の犠牲の重大さを語ります。光が闇に勝利する直前に、闇が深まったのです。

 主イエスの十字架上の言葉は福音書によってさまざまです。マタイ福音書は、マルコ福音書と重なる形で「エリ、エリ、レマ サバクタニ」つまり「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という詩編22編の言葉です。

 これは、神様への深い信頼に基づく叫びです。罪なきお方が十字架にお架かりになりました。十字架刑は、当時最も残酷と言われる刑で、さらに律法によれば「木にかけられた者は、神に呪われている」のです。イエス様は、「なぜ私をお見捨てに」と嘆かざるをえない究極の場所を引き受けてくださいました。この場所は、罪びとである私達がいるべき場所でした。

「サバクタニ」は、アラム語の「見捨てる(シャーバク)」という単語ですが、「残される・置いていかれる」という意味もあります。父なる神、命の源から置いていかれ、取り残されてしまった場所・そこが十字架の上でした。主イエスは、絶望とも言える試練の中にいても、父なる神様に深く信頼し切っておられます。父に絶大な信頼を寄せています。「神信頼の嘆き」です。それは、詩編22編の詩編詩人もそうです。

 マタイによる福音書27章全体では、詩編22編の歌が3箇所も引用されます。それも、22編の詩歌の順とは逆行する仕方で引用されています。

新約聖書の時代における聖書(旧約聖書)を読むユダヤ人たちは、詩編を暗唱しました。神様は、聖書の言葉を「子供たちに繰り返し教え(申命記6:6)」「覚えとして額につけ(申命記6:8)」なさいと言われました。詩編23編を始め、詩編22編を暗唱している人が多くいたと思います。マタイ27章における詩編22編の引用を丁寧に見てみましょう。

1)まず、主イエスを十字架につける兵士たちが、「くじを引いてその服を分け合い(マタイ27:35)」ました。これは、詩編22編18節~19節を想起させます
「 骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。」(詩編22:18~19)
 
2)次に、祭司長・律法学者・長老たちは、主イエスを罵っていいました。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。」(マタイ27:43)詩編22編8~9節に次のようにあります。
「8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
9「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」このような罵りの言葉は、荒れ野の誘惑のサタンの態度を思わせます。
22編19節、9節が出てきました。そして、主イエスの十字架上の言葉です。

3)「わたしの神よ、わたしの神よ 
なぜわたしをお見捨てになるのか。(詩編22:2)」
主イエスは、嘆きの淵にて、この言葉を大声で叫ばれました。嘆きの頂点の言葉です。
このように、マタイの受難の場面では、背後に詩編22編があり、詩の順序と逆に引用されていきます。マタイ福音書の十字架のこの叫びまでの聞いた時、旧約聖書に親しんだ民は、ハッとしたかもしれません。

ではなぜ22編が逆の順に引用されるでしょうか。その手がかりが、更に戻ることで見えます。22編の1節表題まで戻ると、22編は「賛歌」であることがわかります。この詩は、嘆きのみの歌ではなく、神様を賛美する歌です。22編の最後は、神に助けていただいた者の賛美で閉じられます。神信頼の嘆きは、賛美に変えられ、主を賛美する歌として締めくくられます。嘆きから賛美へ移行する賛歌22編を、マタイ福音書はご受難へのあゆみの場面で引用します。嘆きの歌が逆行して、嘆きの始まりの頂点の叫びでクライマックスを迎える。この逆の順序が、どれほどの深い嘆きの淵まで主が降ってくださったかを伝えるようです。

同時に、表題が賛歌であることを告げるように、22編は、賛歌という表題で始まり、神様への賛美で閉じられる。22編は、神様への賛美で包まれている嘆きの歌です。

新約聖書において旧約聖書の1節が引用される時、旧約聖書の箇所の前後や文脈も深く引用に関係することがしばしばあるようです。マタイ福音書の受難の場面で、詩編22編の引用を聞くとき、この詩編全体の内容を思い浮かべてお聞きしたいのです。

イエス様が私たちのあらゆる嘆きの頂点を引き受けてくださいました。私たちも、2020年春は新型コロナウイルスによる世界的な大きな試練を経験します。不安や・何が最善な行動であるかのわからなさ・予測できない状況・そこに閉塞感を覚えるかもしれません。しかし、「主のうけぬこころみも 主の知らぬかなしみも うつし世に あらじかし(讃美歌532)」です。そして、「主にある御民は 神によりて安し(讃美歌520)」です。私たちは、どのような淵にいても神様に信頼してまっすぐに祈れます。「信仰の創始者であり完成者(ヘブライ人への手紙12:2)」であるイエス様が、あらゆる闇に勝利してくださった方が、父なる神様に深く信頼するお姿を見せてくださいました。

嘆きから賛美に変えられていく詩人の姿を、詩編22編は興味深い語呂合わせで描きます。ヘブライ語の「サーファル(数える・語り伝える)」という動詞に注目します。嘆きの淵にいる詩人は、イスラエル周辺世界でもっとも大きく優れた牧草地とされる「バシャン」の猛牛(22:13)に襲われ、砕かれ、骨が数えられる(サーファル)ほどになってしまいました。「骨が数えられる」という描写は、自分では癒せない痛みを表せると思います。この詩人は、自分の骨が数えられる(22:18)ほどに砕かれて弱ってしまいました。弱り果てた自分を見つめています。しかし、詩人の目が外へと向けられていきます。詩人は、詩のクライマックスでは、主の名を語り伝える(サーファル)(22:23、31)力を与えられています。なぜでしょうか、それは、主なる神様が、救いを求める叫びを聞き届けてくださり、応えてくださったからです。神様は、祈りに答えてくださるのです。祈って、お委ねして、神様の御心に信頼するのです。

詩人は、主の救いを語り伝えていくことを宣言します。
「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え(サーファル)、
集会の中であなたを賛美します。22:23」
「主のことを来るべき代に語り伝え(サーファル)
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう22:31」

このような驚くべき恵みによる変化は、ただ神様のみ力によります。私たちの内側からではなく、神様の側から与えられる祝福と恵みです。この「私たちの外から」与えられる祝福は、主イエスの十字架による神と人との和解であり、キリストの復活という永遠の命です。十字架は、死と滅びで終わるのではなく、命を語り伝えます。

詩編詩人は、主から命を受けたとき、自分の内で完結するのではなく、この救いを語り伝えていきます。異邦人である百人隊長たちも、主に仕えていた女たちも、主イエスの十字架のご栄光を見ていました。女たちは復活の主イエスにお会いし、11人の弟子に見て聞いたことを伝えます。そして、11人の弟子たちも復活の主イエスにお会いし、救いを語り伝えていきます。

十字架のご受難は、イースターの喜びの賛歌になります。十字架の嘆きから復活の賛歌への変化は、救いの決定的な出来事になりました。私達も復活の命を伝える主の十字架を「地の果て」まで「代々に」語り伝えていきましょう。