福音はローマへ、そして世界へ
説教集
更新日:2020年09月19日
2020 年8月30日(日)聖霊降臨後第13主日 主日家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
使徒言行録28章23~31節
23 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩ま で説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスに ついて説得しようとしたのである。24 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じよう とはしなかった。25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次 のように言った。「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、26 語られまし た。『この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見る が、決して認めない。27 この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目 で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。』28 だ から、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに 聞き従うのです。」29 (†底本に節が欠落 異本訳)パウロがこのようなことを語ったところ、ユダヤ 人たちは大いに論じ合いながら帰って行った。30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、 訪問する者はだれかれとなく歓迎し、31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・ キリストについて教え続けた。
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本日の御言葉は、使徒パウロがとうとう長い旅を終えて、ローマにたどり着いた後のこと が記されています。囚人として移送されたはずのパウロが自由人であるかのように生活して います。さらには、囚人パウロがユダヤ人へ伝道している姿が伝えられています。
私たちは、この聖書の御言葉から何をどのように受け止めたら良いのでしょうか。本日の 御言葉は使徒言行録の最後の言葉です。その意味では、使徒言行録が全体を通して語ってい ることをこの御言葉から正しく受け止めなければなりません。使徒言行録は、要するに何を 私たちに伝えているのでしょうか。
ローマ到着以前の使徒パウロは、十字架の主イエスこそ救い主であると語り続けました。 その結果、エルサレムにおいてもユダヤ人たちによって殺されそうになりました。その騒動 によって、パウロは逮捕されましたが、不当逮捕に対してパウロはローマ皇帝に上訴しまし た。そして、一人の囚人として百人隊長に護送されてローマに連行されてきたのです。この ローマ行きはもちろん上訴したパウロが望んでいたことですが、上訴の目的はパウロが自分 自身の身の潔白を晴らすためというよりも何とかして福音をローマに伝えるためであったと 思われます。最後の最後まで、福音を伝える僕(しもべ)として、ローマ皇帝への上訴を願 ったのが使徒パウロです。
ローマに連行される途上、到着する直前には、乗っていた船が難破しましたが、何とかロ ーマに上陸することが出来ました。目的地ローマに到着して使徒言行録は閉じられています。 使徒言行録が書かれた目的は、1章8節「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、 エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし の証人となる」という昇天直前の主イエス・キリストの言葉を思い出します。
使徒言行録の執筆者ルカは、ルカ福音書に続いて使徒言行録を通して、パウロの伝道旅行 の疲れをねぎらったり、無事にローマに到着したことを感謝したり、命がけの旅を回想することを語りません。囚人であるパウロは、昇天した主イエスがお語りになった通り、福音を 伝える「わたしの証人」であったことを語っているのです。
パウロは、たしかに囚人としてローマに連れてこられたはずです。使徒言行録 28 章 16 節 にあるようにパウロのローマでの2年間の生活は番兵が一人つけられての生活です。しかし、 著者ルカは、囚人パウロには関心を向けません。パウロは、囚人であるよりキリストの復活 の証人としてローマにおいても福音伝道の器とされたことに目を向けさせます。パウロの家 にはユダヤ人たちが日を決めて大勢集まっていることが大事なのです。使徒言行録が復活の 主イエスのお言葉通り、聖霊によって導かれ、ローマに到着したパウロは囚人であるよりも 使徒である事です。パウロが使徒として力強く神の国について証ししている姿なのです。使 徒言行録にとって最も大きな関心は、パウロの裁判結果や健康状態とかその一行の近況とか、 何を食べていたかというようなことではなく、エルサレムを経由して、主イエス・キリスト の福音がパウロによってローマに届けられたことなのです。今なおここでパウロによって福 音が生き生きと語り継がれている、福音が聖霊によって生きて働いているいること、これこ そが最大の関心なのです。私たちの目を生きて働く聖霊に向けさせようとしているのです。
使徒言行録の関心と私たちの関心の違いから、大切なことが見えてまいります。パウロと 共に使徒言行録の歩みをして来た私たちは、ローマにおいて伝道するのはいいけれども、伝 道する為には、まずは囚人としての身の潔白を証明すること、場合によってはローマ市民と してのパウロが不当な扱いを受けたことを認めさせることではないかと思うのではないでし ょうか。パウロがローマ皇帝へ上訴したのですから、その事に関心を向けることは当然だと 考えるのです。パウロは、囚人としての生活をいつまで続けなければならないのか心配にな ります。使徒言行録は、裁判の結果について一言も語りません。使徒言行録の関心は、パウ ロの名誉や取り扱いではなく、ローマにおいてパウロが福音を語っていること、キリストの 証人として生きていること、福音が生き生きと力を発揮していることなのです。すなわち、 聖書が私たちに伝えている大切なことは、パウロの人権以上に、大切なことがあるというこ とを伝えているのです。パウロの裁判のゆくえは、二の次のことなのです。使徒言行録には パウロの2年間のローマ滞在後のことは記されていませんが、パウロはローマで殉教の死を 遂げたと伝えられています。聖書は、パウロの死よりもパウロが生きて福音を伝えている姿 を生き生きと描ききっているのです。
ローマ皇帝の考えやその時々の状況の変化によって、いわば皇帝のさじ加減でパウロの命 は左右されてしまいます。しかし、聖霊の導きによる福音は、ローマ皇帝がどのように考え ようとも、世界へ広がっていったのです。どんなにローマ皇帝の権力が強く見えても、聖霊 の力の足もとにも及ばないのです。2020 年を生きる私たちは、福音が世界へ広がっているこ とを証明しするためにここに信仰を与えられて生かされているのです。
パウロの伝道旅行とローマへの旅を振り返る時、ローマに到着したパウロは、パウロの命 を狙っていたユダヤ人から完全に逃れることが出来たのでしょうか。ユダヤ人たちも流石に ローマまでは追いかけてこないのでしょうか。パウロが囚人となったいきさつは、いうまで もなく、イエス・キリストの十字架と復活を語っていたからでした。ユダヤ人から突き上げられ、命を狙われ、ローマ皇帝による裁判を受けるために護送されているのです。しかし、 ローマに滞在するパウロは、命を狙われている人のようには見えません。番兵が一人では無 防備としかいえないような扱いに見えます。自由かつ寛大な取扱いを受けているように描か れていますが、パウロの命を何としてでも守ろうという空気はなかったのです。しかも、当 のパウロもその無防備なまま、ローマに到着しても、性懲りもなく大勢のユダヤ人を受け入 れ、福音を伝え続けています。この姿を通して、使徒言行録は、人間の武力による防御では なく、聖霊なる神への信頼こそが最大の防御である事を伝えているのです。もっというなら ば、聖霊の導きに従って伝道することこそ、生命線であると伝えているのではないでしょう か。使徒言行録は、パウロの命を狙う敵がどこにいるかには、関心を向けていません。3回 に渡る地中海世界への伝道旅行と同じように、パウロはどこの町にいってもユダヤ人たちに 福音を伝えることをやめないのです。ユダヤ人たちに対して復活の証人であり続けたのです。 復活の証人としてパウロがキリストを証言しても、福音を聞いた人々の反応は様々です。パ ウロは、どんなにユダヤ人から命を狙われることがあっても、ユダヤ人を敵視しないのです。 ユダヤ人への伝道を中止しませんでした。
私たちはともすると、命を狙われるような経験を一度でも経験すると、心の傷となって相 手をまるごと敵視してしまうのではないでしょうか。パウロは、ローマに到着して、もうユ ダヤ人とはかかわりたくないと決別することなく、懲りずにユダヤ人への伝道を第 1 に考え ました。聖霊なる神は、福音が伝えられるために、民族差別はしないのです。民族差別を乗 り越える力が聖霊によって発揮されているのです。パウロも民族意識に支配されていないの です。ユダヤ人伝道を大切にしつつ、異邦人への伝道へと向かうのです。ユダヤ人への敵意 やこだわりから解放されている姿こそキリストの証人なのです。使徒言行録が、キリスト者 の命を狙うユダヤ人への敵意に支配されていないことは、非常に大切な事だと思います。聖 霊なる神に従う事によって、教会は民族差別や国粋主義に陥る危険から守られるのです。
使徒言行録と私たちの関心の違いとして最後にあげたいことは、エルサレム教会とパウロ を派遣したアンテオキア教会との関係についてです。この問題については使徒言行録におい て語られていません。パウロはエルサレム教会とのつながりを重んじました。キリストの体 なる教会は一つであることを重んじました。教会同士の関係については、使徒言行録におい て、決別しなければならないとか、合同しなければならないとか、教会間の交流について、 どのように理解したら良いのでしょうか。教会同士が助け合うことと信仰による一致をもつ ことは、どの時代においても難しい問題なのです。日本基督教団においても教会内でも助け 合うことの信頼関係と信仰告白による一致は緊張関係にあります。
使徒言行録は、この問題に最後のところでは答えていないと思います。聖書は、少なくと も教会間の問題を抱えていることを受け止めながら、福音伝道を続ける道を指し示している と思います。伝道を導く聖霊なる神に信頼して、神に委ねる姿勢を教えているのではないで しょうか。
すなわち、使徒言行録は、キリストの証人として、パウロの裁判のゆくえやパウロの健康、 凶暴なユダヤ人の追跡、教会間の信頼関係よりも、もっと大切な事があることを教え示して いると思います。それが聖霊なる神の御業です。聖霊なる神は、今どこに働き、どこに向かっているのか、聖霊なる神にしたがっていくことこそ、聖書とパウロの関心事なのです。私 たちの関心は、他人に対して失礼なことをしていないかとか、自分に対するこの世の評価が 気になるのです。しかし、聖書は私たちに最も大切なことは、聖霊なる神が生きて働いてい ることであり、そこに目を向ける時、私たちが大切な恵みを受けるということではないでし ょうか。福音がユダヤ人であろうと異邦人であろうと、福音が生き生きと伝えられているか どうかが肝心なことなのです。福音が伝えられていることこそ、私たちがこの世の力から解 放され自由にされ、一人一人が神の喜びに満たされるのです。
使徒言行録は、パウロを通して福音を聞いた者の反応を記しているのです。
23、24 節「23 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パ ウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者 の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。24 ある者はパウロの言うこと を受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。」
使徒言行録によれば、福音を受け入れた人々だけが大切なのではなく、信じようとしなか った人々のことも同じように記していることがわかります。福音が生きて伝えられている時、 信じようとしない人々がいることを隠したり、そうした人々を差別したり、無視したりしな いのです。熱心に祈り、熱心に伝えた後は、どのような反応であっても聖霊に託すのです。 パウロは、立ち去ろうとするユダヤ人に対して、預言者イザヤの言葉を伝えます。使徒言行 録はギリシャ語訳の旧約聖書七十人訳を引用しています。
新共同訳のイザヤ書 6 章 8~10 節を引用します。
「8 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。
誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
「わたしがこ こにおります。
わたしを遣わしてください。」
9 主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
10 この民の心をかたくな にし
耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく
その心で理解する ことなく
悔い改めていやされることのないために。」
預言者イザヤが神の召命を受ける箇所です。この御言葉が引用されている意図は、ユダヤ 人伝道に見切りをつけて、これからは素直な異邦人伝道に方向転換をするということではな いのです。そのように受け止めると、使徒言行録を誤解して読み終えることになります。熱 心に福音を伝えてもユダヤ人は「心をかたくなにし、耳を鈍く、」語っても無駄だと語って いるのではありません。そうではなく、かたくなな人間への神の働きかけが開始された、伝 道の始まりを伝える言葉です。その意味では、ユダヤ人だけがかたくなな心を持っていて異 邦人は柔軟な心をもっているということではないのです。ユダヤ人であっても異邦人であっ ても、全ての人がかたくなな心を持っているのであって、人間の心のかたくなさが問題なの ではなく、かたくなな人間の心に迫る、聖霊なる神の伝道がいよいよ本格的に開始されたこ とが召命を与えられたイザヤを派遣する時イザヤ書によって、宣言されているのです。
使徒言行録の最後に記されている御言葉は、ユダヤ人伝道は失敗で、ユダヤ人への伝道に 見切りをつけたということではないのです。そうではなく、聖霊なる神が、伝道を開始した ことを告げ知らせているのです。
30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
ユダヤ人であっても異邦人であっても聖霊なる神が開始した伝道は、「訪問する者はだれ かれとなく歓迎し」たのです。使徒言行録は、暗に2年というとき、その後のパウロの殉教 を知っているかのようです。しかし、パウロが殉教したことやローマでの迫害などについて
よりも、聖霊なる神が、この時、本格的な伝道を開始したことを私たちに伝えているのです。
「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」
この御言葉こそ、教会の姿であり、私たちが心に焼きつけておきたいと思います。
「全く自由に」とは、聖書の他の箇所では「大胆に」「勇敢に」と訳されている言葉です。 使徒言行録の最後の姿は、パウロが全く自由に、大胆に、勇敢に、福音を語り続けている姿 なのです。使徒言行録はローマ帝国の皇帝支配の中で、本格的な聖霊なる神による伝道が開 始されたことを告げています。ローマにおいて伝道の自由、キリスト者の命の可能性が与え られていることを宣言しています。ローマ帝国内において、その後の歴史の中での厳しい伝 道も不思議な道を与えられました。聖霊の導きは、世界にそして日本にも福音を届ける力で す。これは、なんと感謝すべき事でしょうか。
銀座教会130年の恵みを覚える時、使徒言行録28章で与えられた聖霊なる神の導きに よる伝道開始の力を与えられたことを自覚したいと思います。そして、日本での伝道の歴史 を通して、時が良くても悪くても神が共にいてくださる伝道の業を担っていることを忘れる ことがないようにしたいものです。そして、私たちが本当に目を向けなければならないこと は、神の御業であることを心に刻み込みたいと願います。
祈り
天の父なる神さま。使徒言行録を読み終える時、聖霊なる神が先頭に立って伝道の道 を開いてくださることを示され感謝いたします。ともすると私たちは孤独なキリスト者とし て自分を見つめる者です。しかし、聖霊なる神の御業に目を向け、あなたの御力に信頼し、 この世の力から解放してくださいますように祈ります。この祈り、主イエス・キリストの皆 によって祈ります。アーメン