「我らの日用の糧」
説教集
更新日:2021年03月20日
2021年1月31日(日) 公現後第4主日 主日家庭礼拝 伝道師 藤田 健太
マタイによる福音書6章25~26節
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと、また自分の体のことで何 を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥 をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥 を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」の祈りによって、主の祈りは後半部分に入りま
す。「主の祈り」の前半部分は、天におられる神さまのご支配が、私たちの地上においても成りますようにという祈りでした。何よりもまず、「神さまご自身」について祈ること が必要でした。地上で神さまに対する正しい礼拝が捧げられず、神様の愛にみちたご支配 が行き渡らない限り、人間のあらゆる営みは成り立ちません。神様のご支配を確かめる礼 拝から、私たちの1週間の生活がはじまってゆきます。
本日、私たちが向き合う主の祈りの文言には「我ら」という言葉が登場してきます。そ してこれ以降、全ての祈りの文言の中に「我ら」という言葉が登場してきます。「我らの 罪を赦し給え」、「我らを悪より救い出し給え」―いずれも「我ら」に関するお祈りです。 この後に続く「罪の赦し」と「悪よりの救い」に比べると、本日の祈りはひどく具体的な 響きをもった祈りです。世俗的と言っても良いかもしれません。「飽食の時代」と呼ばれ る時代を生きる私たちは、この祈りを祈る危急性を一体どれほど認識できるでしょうか? 食料供給や自給率の低い国に住む、名前も知らない人たちの執り成しのためにのみ、この 祈りは祈られるべきなのでしょうか?食糧確保が天候などの外的な要因によって著しく損 なわれた時代の人々の記念として、今日の聖書に保存されているだけなのでしょうか?
他でもない私たちこそが「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と真剣に祈らなければ いけないのではないのです。―偏食、拒食、摂食障害など、食べ物と人の心が深く結びつ き、その苦しみをまざまざと味わい知る私たちの時代こそ、この祈りを真剣に祈らなけれ ばいけないと思います。人間の体と心を支える「まことの命の糧」の飢え渇きを知る私た ち自身が、この祈りを「我らの祈り」として真剣に捧げなければいけないと思います。
「日ごとの糧」の祈りは、マタイによる福音書6章とルカによる福音書11章に出てきます。 マタイによる福音書の方では「私たちに必要な糧を今日与えてください。」ルカによる福 音書の方では「私たちに必要な糧を毎日与えてください」とあります。―二つの福音書に おいて、強調点が異なることにお気づきになると思います。マタイによる福音書の方では、 「今日」という言葉に力点が置かれます。また「与えてください」という言葉も、もとの 言葉では、一回きりのお願いのニュアンスを含む言葉が使われています。マタイによる福 音書の祈りは「今日、一回限りの必要な糧」を切実に祈る祈りと言ってもよいと思います。 一方、ルカによる福音書の方は、「毎日」という言葉に力点が置かれます。また、やはり、 「与えてください」という言葉が、もとの言葉では、繰り返し与えてくださいというニュ アンスのお願いになっています。「神様による継続的な支え」を求める祈りです。どちら のお祈りが優れているとか、どちらのお祈りがありがたいということではありません。ど ちらのお祈りのニュアンスも大切だと言えます。私たちは「今日一日、一回限りの命の糧」 を真剣に求めます。それでいて、その糧が「明日も、明後日も、その先も…」、私たちの 寿命が尽きるその日まで、継続的に、安定して与えられることを求めざるを得ません。
「必要な糧」の「糧」という言葉は、もとの言葉を直訳すると、「パン」という言葉で す。「パン」という言葉に「必要な」という言葉があとからくっついて修飾しており、「必 要な糧」と翻訳されています。実は、この「必要な」という言葉をどのように翻訳するの が適切であるのか、正確なところは誰にも分かりません。もとの言葉では、これは“エピ ウーシオス”という言葉ですが、聖書の他の箇所にも、ギリシャ語の他の文書にも用例が 見つからないため、意味を確定することがほとんど不可能であるとされています。ギリシ ャ語に長けた古代教父たちですら、この言葉の本来の意味を知るには至りませんでした。
そこで、シリア語などの他の言語の写本にもとづいて「必要な」という訳語を当てるに至 りました。エジプトで発見されたある中世の写本には「“エピウース…”のために、2分の 1オボロスの銀貨を支給した」という記録が残されていました。そこから、現代の学者たち は“エピウーシオス”は「配給された食糧」を指す言葉ではないかと推測するようです。
しかし、教会の伝統は「必要な糧」という言葉が、単純にお腹を満たす「肉の糧」を意 味するだけでなく、私たちの心を養う「霊の糧」をも意味することを強調してきました。 古代教父たちの中には、“エピウーシオス”を“エピ”/“エイナイ”という2つの言葉に 分解して、「存在を超えた」という意味だと説明する人たちがいました。「存在を超えた パン」、つまり、肉の糧を超えた天からの糧です。私たちのお腹だけでなく、私たちの魂 をも養う命の糧です。旧約聖書の出エジプト物語の中で、荒野を歩む民たちに与えられた 「マナ」を思い出すことができると思います。天から与えられたマナはイスラエルの民の 空腹を満たしただけではありません。不安と恐れに駆られた民たちの心をも満たしました。 天よりのマナは神様に対する民たちの信仰を養うパンでもありました。私たちにとっては、 教会の「聖餐」がこれに当たります。聖餐で配られるパンは私たちのお腹を満たすには十 分ではないかもしれません。しかし、私たちの魂を満たすにはこれほどありがたい糧は存 在しません。聖餐式のパンは、私たちの救い主イエス・キリストの体だからです。まさに、 「存在を超えたパン」、私たちの罪を癒し、私たちの魂を養い、私たちの信仰を育む命の 糧です。「日毎の糧」が世俗的な意味だけをもつわけでないことがそこから分かります。
本日の聖書箇所は、マタイによる福音書における「日毎の糧」の祈りの解説と理解する ことができます。「私たちの祈り」に対する「神様の応え」がここで語られていると言え ます。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自 分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服より も大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもし ない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」(マタイ6:25-26)
―日毎の糧を求める私たちの「焦り」の前に、私たちの糧を保証してくださる、神さま の「配慮」が先んじることが語られます。地上で体と心の飢えを満たすため、私たちはあ らゆる試みを行います。私たちのそのような試みではなく、神さまの愛にみちた配慮が、 人間の飢餓に終止符を打ってくださるのです。最も分かりやすい神さまの愛に満ちた配慮 とは、主イエス・キリストの十字架です。主イエスが荒野で悪魔を前にして引用なさった 聖書の言葉―「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉で 生きる」を思い出しましょう(マタイ4:4)。私たちの時代の根本的な飢餓の解決の糸口はそ こにあります。
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」―私たちのこの祈りに応えて、神さまが今日も 必要な命の糧を差し出してくださっています。明日も、明後日も、その次も、私たちの命 が尽きるまで、神さまによる、まことの命の糧の配給は続いてゆくのです。
祈祷
天の父なる神様、私たちに必要な日毎の糧を与えてくださることに感謝いたします。神 様の言葉をいただくことから、私たちの体と魂の成長ははじまってゆきます。新型ウイルスの影響により、生活の基盤が大きく揺らいだ方々がおられます。「今日、必要な糧」を その方たちにお与え下さい。私たちの時代が抱えるあらゆる飢餓が、あなたから与えられ る命の糧によって解決に導かれますように。私たち自身もまた、神様からいただく糧に養 われて、地の塩、世の光として働きを担う器として整えられますように。主イエス・キリ ストの御名によって祈ります。 アーメン