キリストの十字架
説教集
更新日:2021年03月27日
2021年3月28日(日) 棕櫚の主日礼拝 家庭礼拝 伝道師 藤田 由香里
マルコによる福音書15章21~31節
15:21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかっ たので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22 そして、イエスをゴルゴタという所――そ の意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イ エスはお受けにならなかった。24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合っ た、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右に もう一人は左に、十字架につけた。28 こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言 葉が実現した。29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、 神殿を打ち倒し、三日で建てる者、30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」31 同じように、祭司長 たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自 分は救えない。32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろ う。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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受難節の歩みを進め、本日から教会暦で棕櫚の主日、受難週に入ります。「ホサナ」と群衆たちに歓迎されたエルサレム入場から、主の晩餐、金曜の主イエスの十字架の死に至る場面に入ります。本日のマルコによる福音書の聖書は、主イエスがポンテオ・ピラトの前に引き渡され、死刑判決を受け、 茨の冠を被らされつつ兵士たちから侮辱を受けた後の、ゴルゴダへの道行の場面です。通常は、死刑判決を受けた罪人が自らかかる十字架を背負って、ゴルゴダ・されこうべと呼ばれる丘へと歩かされます。しかし、主イエスは、兵士たちに幾度なく葦の棒で叩かれ、侮辱され、疲弊し、力尽きておられていたのです。
21 節に田舎から出てきて通りかかった「アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人」が登 場します。このシモンは、キレネの人です。キレネとは、今日のリビアにあたり、当時の北アフリカの主要な街であり、ギリシャ人植民地・ローマ帝国の領土でした。多くの離散したユダヤ人も住んでおり、シモンという名は、ヘブライ語発音のシメオンと同じ意味のユダヤ人に一般的な名前でした。「シャーマー」 (聞く、耳を傾ける)という意味があるとされます。このキレネ人のシモンは、過越祭の時期にエルサレム に巡礼に来ていたか、あるいは、21節の田舎は「畑」とも訳せますので、エルサレムに移住していたキレネのユダヤ人の一人とされます。彼は、福音書でほとんどその背景が描かれませんが、マルコ福音書は一言「アレクサンドロとルフォスの父」と添えております。ルフォスは、ローマの信徒への手紙(16 章)で、パウロが次のように言う人物とされます。「13 主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。」シモンは、後の初代教会において重要なキリスト者家族として連なった人物であると考えられます。
このキレネ人シモンは、通りがかりの道で、礼拝に向かう道だったかもしれません。突然、無理に十字架を担がされることになります。兵士たちは、主イエスの十字架を無理に担がせました。「突然の十字架」を負わされることが、私たちにもあるかもしれません。理由のわからない苦難、原因や理由や罪を突き詰めて思い巡らしてみても、なぜ与えられたのかわからない受難。そういうものがわたしたちの人生を振り返ってみる時に、ある・あったかもしれません。近しい家族・友人であるほど、なぜあの人にこんな苦難が起こってしまうのかと嘆き祈ったことがあるかもしれません。兵士たちからすれば、シモンでなくとも良かったのでしょう。これから十字架刑を受けるはずの人物が担ぐ十字架を突如、背負うこととなりました。力尽き・弱る主イエスと並んで、通りすがりの人たちは、あたかもシモンが受刑者であるかのように 罵ったかもしれません。
本日の主イエスを囲む人物たちは、シモン以外には、兵士たち、一緒に磔にされる二人の強盗、通りすがりの人々、祭司長と律法学者でありますが、皆一様に主イエスを嘲り・見下し・罵っております。 十字架に至る道で、多くの人々の嘲りの言葉と行為が矢継ぎ早に記録される中、ただ主イエスは沈黙を守っておられます。
兵士たちが主イエスの衣服を分け合う為にくじを引いています。24 節にこうあります。「24 それから、 兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで 決めてから」これは、詩篇22編の引用です。詩篇22編は、わたしたちが知っておりますように「わが 神、わが神なぜわたしをお見捨てになるのですか」で始まるマタイ・マルコの十字架上のキリストの叫び の言葉です。24節にマタイ・マルコ・ルカの共観福音書を見比べる時に、マルコのみが加えている表現があります。それは小さな一言ですが「誰が何を取るか」という言葉です。誰が何を取るかくじを引 いた。これは、兵士たちが、「わたしはこれが欲しい」という自分たちの欲と願いを満たそうとしている描写です。キリストの十字架のふもとで、自分たちのことで頭が一杯になってしまっていたら、私達も同じ 罪に陥っています。
なぜマルコ福音書記者がこの一言を入れたか、考えられるのは、この「取る・アイロー」というギリ シャ語は、「十字架を担ぐ・負う(アイロー)」とも訳せる言葉です。つまり本日の箇所では、キレ ネ人シモンが、十字架を負うことを強いられている姿と、兵士たちが自分たちの取り分を取る姿が対比 されているのです。
キレネ人シモンは主イエス・キリストの十字架の出来事を間近で見、その御苦しみをほんの僅かばかりでも負いました。シモンは、やがて 実は主イエス・キリストが「わたしの十字架」を担ってくださる方で あることを知らされ救いの信仰に招かれてました。突然十字架を負わされました。しかし、苦難を知り、 その中で、すぐにではないかもしれません。のちに、復活の主イエスに出会い、宣教の言葉を聞き、洗 礼を受けています。シモンはこの経験を通して、実は、十字架の恵みを知ったのです。主イエスの十字架の御苦しみを私たちは知り尽くすこと・表現仕切ることはおそらくできないと思います。想像を絶するのです。その十字架の御苦しみには、はるかに及ばずとも、突然の受難を受けたシモンは、十字架を負う中で、主イエスに従う道を知ることができました。十字架を負うことで、罪について真剣に考えたでしょう、そこに、自分では決して負えない人間の罪深さを知ったでしょう。ここから、わたしのための主イエスの十字架・罪の赦しを知らされていきました。
主イエスは、マルコ福音書8章34節以降で言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を 捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、 それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 37 自分の命 を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」主イエスは言われました。「自分の十字架を負う」ということは、聖書を通して、礼拝を通して神のみ 前に立ち、神と人の前に自らの罪を認めることではないでしょうか。その時それは、負いきれないかもし れない。わたしの十字架をわたしだけが負うことは。しかし、わたしたちは知っています。その十字架を、 わたしごと背負ってくださっているお方がいる。十字架上で主イエス・キリストは、わたしはあなたを赦し ・贖うと、私たちを責め立てるのではなく、全て一緒に・むしろご自分が担おうと、大きな慈しみを与えて くださる。この尽きぬ救い主の愛を受け取ることは、はっきりと主イエスはわたしのキリストであると信じる ことです。そこに、愛に満ちた主の御顔がある。主の愛をわたしたちは受け取ることができます。主イエ ス・キリストを信じるとは、わたしはこの方に贖われたと信じ、わたしがつくはずだった十字架を掲げ、主 イエスにお従いしていくことです。やがて十字架を背負う道行きの先・わがゴルゴダの丘に、わたしが背 負ってきた十字架が立てられる。しかし、その十字架についてくださったのは、他でもなく、主イエス・キ リストであります。
主イエスは、兵士たち・祭司長・律法学者たちに繰り返し言われます。「イスラエルの王、自分を救っ てみろ、十字架から降りてみろ」主イエスがこの十字架を降りることは、キリストの救い・神の計画が成就 されなくなることを意味していました。主は、十字架の上で、罪びとたちのために祈り、罪を贖い、イスラエルだけでなく、全世界の主イエスを信じるものの真の王として即位なさいました。ここに、十字架の栄 光が輝きます。
キリスト者として受けた苦難を、キリストの御受難を知るものとして受け取る時、そこには、救いの輝き・ 復活の命の光が見えてくると思います。わたしたちも、キリストの十字架の御前に立ちたいと思います。 主イエスのみことばに聞き、御招きに答えて、自らの十字架を背負いたいと思います。悔い改めの告白を持って、ぬかずきたいと思います。悔い改めの7つの詩篇があります。そのうち32編をお聞きして 終えたいと思います。このような歌です。
「いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2 いかに幸いな ことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
3 わたしは黙し続けて
絶え間な い呻きに骨まで朽ち果てました。
4 御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。
5 わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。
6 あなたの慈しみに生きる人は皆
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
7 あなたはわたしの隠れが。
苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。」
この最後の 7 節の言葉は、文語訳聖書でもとても味わい深いものです。次のように言われます。
32:7「汝はわがかくるべき所なり なんぢ患難をふせぎて 我をまもり
救のうたをもて我をかこみたまはん」
十字架の主イエス・キリスト 汝 我を守り、救いの歌を持て我を囲みたまはん
祈祷
天の父なる神さま、わたしたちが自らの十字架を背負い、主に従い行くことができますように。 主がわたしたちを担ってくださることを深く知り、贖いの恵みを、感謝と信仰を持って受け止めるものと ならせてください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。