執り成しと救いのみ業
説教集
更新日:2021年05月30日
2021年5月30日(日) 三位一体主日 主日家庭礼拝 伝道師 藤田 由香里
マルコによる福音書 2章1~12節
2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、 2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言 葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。4 しかし、群衆に阻まれ て、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根 をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰 を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。6 ところが、そこ に律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7 「この人は、なぜこうい うことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪 を赦すことができるだろうか。」8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自 分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。9 中風の人 に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、ど ちらが易しいか。10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そ して、中風の人に言われた。11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に 帰りなさい。」12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行っ た。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美 した。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日は、三位一体主日です。ペンテコステ礼拝を経て、聖霊なる神の働きによって教 会が建てられ、父・子・聖霊なる神の御業がいよいよ地上に現れたことを覚え、三位一体の神様を賛美します。
マルコによる福音書2章に入りました。主イエスと4人の弟子一行は、ガリラヤ伝道をしながら、再びカファルナウムに来られました。「慰め主の村」を言う名をもつこの地は、1章で、安息日に主イエスが汚れた霊に取りつかれた男を癒された町でした。この汚れた男の癒しの出来事は瞬く間にガリラヤ中に広まりました。その後、主は弟子のシモンのしゅうとめを癒し、寂しい所で祈られ、近くの村や町々で、ガリラヤ中に神の国の宣教をなさいました。そして、律法の規定では、城壁の外にいなければならない重い皮膚病を患う人を癒されました。そこで主イエスは、「沈黙命令」を出されますが、 男はこの出来事を広め、更に主イエスのところに、四方から多くの人々が集まってきました。
このような次第で、再びカファルナウムに戻られたイエス様の周りには、多くの人びとが押しかけました。イエス様は、家でみ言葉を語っておられました。その家の戸口は、全く隙間もないほどに人で一杯になったと言います。
主イエスの言葉を聴きたい、一目見たいという人々で一杯の家に、4人の男がやってきました。彼らは、1人の中風の男を担いで、イエス様のところへと運んできました。「 中風」は、おそらく脳の後遺症で、体の一部が麻痺した病ではないかと言われます。新しい聖書協会共同訳では、「体の麻痺した人」とあります。「中風の人」という言葉は 、「弱っている人」とも訳せます。4人はこの男の友人であったのでしょうか。なんとかしてこの男性をイエス様のところに連れていきたい、その様な強い願いを持っていました。「イエス様の御元へと彼を連れて行けば、きっと救ってもらえる。」そのような「キリストへの願い・期待」は、彼らの心を、自分たちでも気づかぬうちに「一つの思い 」にしていました。しかし、大勢の群衆でひしめき合うこの家の中を通っては、とてもとてもイエス様の御もとにたどり着くことが出来そうもありません。「すみません、道を開けてください」と言ってよけてもらえることもできないほどに、一杯の人であった のです。ここでも4人の男は諦めません。なんと彼らは、その家の屋根に登りました。イ エス様がおられるあたりの屋根を掘り起こすようにはがして穴をあけたのです。当時の家の造りでは、その様なことが可能でありました。そして、その男を、床ごと上から吊 り下ろしたのです。普通に考えたら、しないことです。非常識な行為であるとさえ言わ れたかもしれません。しかし、主イエスはこの4人の男のうちに、「一つの信仰」を認めました。5節の「イエスは彼らの信仰を見て」の「信仰」は、単数形で「一つの信仰」で す。4人の心は合わさっていました。そしてイエス様は、中風の男性に言います「子よ、あなたの罪は赦された」初対面であろうこの人を「子よ」と呼び、「罪の赦し」を宣言 なさいました。
しかし、この家にいた何人かの律法学者たちは、心の中で考えていました。「この人 は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いっ たいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」律法学者たちは、聖書の言葉をよく知っていたので、罪の赦しの権威が、只神様にのみあることもよく知っておりました。イ エス様は、ご自分の霊によってすぐ彼らの心の考えを見抜かれ、言われました。「なぜ 、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威 を持っていることを知らせよう。」
イエス様はここで、罪の赦しと癒しの関係を語ります。福音は、罪の赦しの権威が子なる神イエス・キリストにあることを告げています。同時に、主イエスの公のご生涯においては、神の国の宣教と同時に多くの癒しが報告されます。罪の赦しと癒しがいつも直結して描かれ、関係している訳ではないことは、聖書に記されております。癒しがあれば罪の赦しがあり、罪の赦しがあれば癒しがあるという同時的なものではもちろんないのです。例えば、ラザロが病になったのは、「神の栄光が現れるため」(ヨハネ福音書11:4 )でありました。人々が主イエスによる復活の命を知るためでした。もし、この男性が中風の癒しだけうけ、罪の赦しを受けなかったなら、彼は神様から離れたまま、つまり罪人のままでありました。現に、最初の主イエスの宣言は「罪の赦し」であり、神とこの人との関係回復に関わるものでした。そして、主イエスは、律法学者たちのつぶやく心に応答するかのように、罪の赦しと体の癒しとどちらが易しいのか、神には両方可能で あるのだということをお示しになりました。主イエスはここで、父なる神に罪の赦しの権威があり、また子なる神キリストにその権威があることを語り示されました。この記 事は、罪の赦しの権威は、ただ「イエス・キリストの真実な救い」にのみあることを告 げます。
本日の聖書に記される人物関係は、ヨハネ福音書によく見られるような仕方での主イエスとある人物の一対一のやり取りではありません。「あなたが信じたから救う」ではなく「あなたの友たちがあなたのために信じているから救う」という三者の間の関係で す。そして、四人の男の信仰によって救われたこの男性は、主イエスによって罪赦され 、中風が癒され、自分の足ですぐに立てるようになりました。主イエスは、この男に、「自分の床を担いで家に帰りなさい」と言われます。この男は、ここまで、4人の友人に担いでもらい、彼らによって主イエスの御元に来ました。しかし、今や自らの足で立てるようにされ、自ら自分の床を担いで、自分で自分の人生を負って、神を賛美するものになりました。神の御前に自分で立つものにされました。神が彼を共に担って下さっている。主が、背負ってくださっているのです。その過程に、4人の友の信仰がありました。彼もやがて執り成すものとなるでしょう。そしてこの信仰は、上からの賜物であ り、三位一体の一位格である「聖霊」によって与えられるものであるのです。
聖書には、確かに執り成しの祈りや行為が沢山記されます。アブラハム・モーセ・ ダビデから始まり、多くの王・預言者・祭司たちも、街のため、民のため、1人の救いために執り成しをしました。初代教会でも、例えばペトロが囚われたとき、教会を上げて祈りを捧げました。パウロ書簡においても執り成しの祈りや行為が進められています 。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のた めにささげなさい。」(テモテの手紙一2:1)キリスト者は、聖なる者たちのため、 弱る人の為、全ての人の為に執り成すように勧められております。
この執り成しの祈りを思い起こさせるような、救いの出来事を、私達も目撃します。 「なんとかして主イエスの御元にこの人を連れ、救われてほしい」という執り成しが教会では起こります。そして、私達もまた、誰かに執り成され、救われたのではないでしょうか。教会に祈られ、自分の気づいていないところでも祈られ、み言葉を聞き、教会の交わりに入れられました。そして誰よりも主イエス・キリストが、私達の救いのための執り成し手です。人々から離れた寂しい所でよくお一人で祈られていた主イエスの祈りの中には、小さな1人ひとりの名が覚えられています。そして、子なる神キリストは、神様と人間との間の罪による隔てを十字架の贖いで取り去ってくださいました。
ヘブライ人の手紙には、本日の「中風の人」と同じ言葉が用いられております。それは、『「弱くなった」膝を真っ直ぐにしなさい』(ヘブライ人への手紙12章)というところです。「弱くなった膝」とは、私達の信仰の道を走る足が弱まっていることを示す譬えです。ヘブライ人の12章では、信仰の競技を走る姿が記されます。そこには、雲の様におびただしい観客がいます。その観客は、旧約の信仰者たち、そして、教会史の歴史の中で、先に天に召された先達です。「こういうわけで、わたしたちもまた、こ のようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をか なぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信 仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(12:1~2)長距離走の途中では特に、目標や希望を見上げることが力となります。自らに定められている各々の信仰の競技を先導し力をお与えくださるのは、主イエスです。そこで、「弱る信仰の膝を真っ直ぐにしなさい」とこの説教者は励まします。他でもなく、主イエスによって、 聖霊によって、この弱まる膝は、真っ直ぐにさせられます。そして、私達自身の信仰が真っ直ぐになることは、周りの人が踏み外さないことに仕え、隣人たちが癒されることに仕えるものであります(ヘブライ人への手紙12:13)。
一人一人が神様の御前にある自らの信仰の道を吟味し、主イエスの救いを信じ、立ち返る。主によって罪の赦しの宣言を頂く。このことは私達を日々新たにし、キリストに 向かって成長させます。主イエスは言われました。「これらの小さなものが1人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイによる福音書18:14)主が先だってなされた執り成しの業にお仕えしましょう。
祈祷
天の父なる神さま、主は私達の最大の執り成し手としてお立ちくださり、私達を御救いへと招いてくださいましたことを感謝いたします。主の慈しみを頂き、礼拝の喜 びを与えられている者として、私達もまた隣人の執り成しを成していくことが出来ます よう聖霊のお支えによってお用い下さい。主イエスの御名によって祈ります。
アーメン