「信仰の目が開かれる」
説教集
更新日:2021年09月14日
2021年9月12日(日) 聖霊降臨後第16主日・敬老祝福礼拝 家庭礼拝 伝道師 藤田 健太
マルコによる福音書7章31~37節
7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り 抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、 その上に手を置いてくださるようにと願った。33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中 から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れた。34 そして、 天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。35 すると、た ちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。36 イエス は人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが 口止めされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。37 そして、すっかり驚 いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえ るようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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主イエスの弟子たちの中には「汚れた手」、すなわち「洗わない手で食事をする者」がいたことが7章の冒頭で伝えられます。そのすぐ後には、「ファリサイ 派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人々の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」との注釈が付されます。「手を洗う」行為は、現代で言うところの保健衛生の観点からではなく、宗教的な観点から重要とされていました。当時、この慣習に従わないユダヤ人がもしいれば相当な「掟破り」でと見なされたでしょうし、そのような人は厳密には「ユダヤ人」として認められなかったと思います。実際には、「洗わない手で食事をする者」たちとは「異邦人」のことだったでしょう。主イエスの弟子たちの中には「異邦人」たちも含まれていたということでしょう。
マルコによる福音書では、7章24節以来、主イエスが異邦人の地で為さったみ業の報告がなされてきました。7章24~30節では、主は「ティルス地方」で「ギリシア人」の「シリア・フェニキア生まれ」の女性の娘を癒されました。本日の箇所を挟んで、8章10節には、主は「四千人の給食」の後、「ダルマヌタの地方」に行かれたとあります。7章冒頭で「異邦人」を含む主の弟子たちの交わりが描かれて以来、「異邦人」に向けられた主の積極的な伝道のお姿がマルコによる福 音書の中に伝えられます。現代の認識とは異なりますが、聖書において「汚れ」という理解はとりわけ重要でした。ユダヤ人は「汚れ」の理解に従って、自分たちと異邦人の間を明確に区別しました。異邦人も汚れていましたし、身体に欠損のある者、ある種の病に罹っている者も「汚れ」の範疇に含まれました。律法に規定された「汚れ」の規定を忠実に守ったユダヤ人の伝統に対し、そのような人々にも積極的に歩み寄ったのが主イエス・キリストの伝道でした。
本日の箇所で、人々は「耳が聞こえず舌の回らない人」をイエスの前に連れて来ます。「連れてくる」という言葉は「運んでくる」と訳してもよい言葉で、そこから私たちは以前礼拝でお聞きしたマルコによる福音書2章の「中風の人」の物語を思い出すことができます。自分で歩くことのできぬ中風の人を4人の男が「運んできて」、屋根に穴を空けてまで、主の御前に連れて来たエピソードが描かれました。主は彼らの信仰を見つめて、よしとされました。「耳が聞こえず舌の回らない人」も、人々の信仰によって主の前に引き出されました。私たちの「執り成し」が家族や友人、隣人たちを神様に繋ぐことが出来るという、慰めに満ちたメッセージが語られます。その後、イエスは、「この人だけ」を群衆の中から連れ出したとあります。私たちは隣人を神様のみ前に執成す役を負いますが、その人と神様との関係がそこから始まります。信仰は神様と一人ひとりの人間の間に与えられるものです。私たちが自分には伝道は無理だと、自らの力を卑下することなく、逆に、自らの力を過信しすぎることなく、救いの問題を神様に素直に お委ねする道がこの箇所に示されていると思います。
主イエスによる癒しは幾つかの象徴的な行為からなりました。第一に、イエスは「指を彼の両耳に差し入れました」。第二に、イエスは「(ご自分の)唾をつけて彼の舌に触れました」。イエスの行為に隠された意味を、余りにも深く詮索しすぎる必要はないでしょう。イエスは彼の「耳」と「舌」に直にお触れになったのです。そして、「天を仰いで」、「深く息をつき」、その人に向かって、「エッファタ」とお呼びになりました。“エッファタ”は当時公用語に近かったとされるアラム語で、「汝、開かれよ」の意味です。すると、たちまち、この人の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったのでした。
本日の癒しの出来事は、聖書のほかの箇所と照らしてみる時、より豊かな内容を聞き取ることが可能となるかもしれません。例えば、本日の福音書の出来事をイザヤ書 35章5節以下に記された預言の成就と見ることが可能でしょう。
「そのとき、見えない人の目が開き、
聞こえない人の耳が開く。
そのとき、
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が湧きいで、
荒れ地に川が流れる。」
―神様の国が到来した時、人々と世界の上に 生じる変化についてイザヤは語りました。主イエスの癒しの業と神の国の福音の中に、イザヤの預言の成就を見ることが可能であると思います。
さらに、本日の聖書の箇所に登場する「開く」という言葉に着目するならば、エゼキエル書やナホム書、ハバクク書、ゼカリヤ書といった、いわゆる黙示文学と呼ばれる「幻」の中で「門が開かれる」とか「泉が開かれる」といった言葉で登場してきます。かつて預言者たちが見つめた神様の御国の幻が、主イエス・キリストの伝道の業の中に実現するのです。私たちの伝道の働きも、主イエス・キリストによって実現したこの大きなビジョンの中に包まれていることをおぼえたいと思います。私たちの伝道を通して、主ご自身が神の国の幻を実現してくださるのです。
最後になりますが、「開く」という言葉は、人類の歩みの始まりとも呼べる、あの「園」の出来事の中にも語られていました。創世記 3章5節以下― 「蛇は女 に言った。『それを食べると目が“開け”、神のように善悪を知るものとなるこ とを神はご存じなのだ。』女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は“開け”、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」 ―園の木によって目を開かれた人類が最初に目にしたのは、神様と共にある幸いや栄光ではなく、自ら隠すべき罪の姿でした。私たちの目の「開かれ方」が適切であるのか、私たちは本当に見るべきものを見つめることができているのか、今一度、心に問い直してみなければいけません。主イエス・キリストはそんな私たちに触れて下さり、私たちの信仰の目を「開いて」、私たちが本当に見るべきものを捉えることができるようにしてくださるのです。
当時のユダヤ教においては、人々は「律法」を見つめ、律法によって規定された「汚れ」を見つめていました。主はそんな人々の顔から「覆い」を取り除いてくださいました。私たちの顔の上にある「覆い」は何でしょうか。自らの顔の上にある罪の覆いが何かを真剣に考えましょう。主は私たちに触れ。「汝、開けかれよ」の号令のもと、その覆いを取り除いてくださいます。
祈祷
父なる神様、「耳が聞こえず舌の回らない人」の癒しの物語を通して、私たち一人ひとりの信仰の目を開いてくださったことに感謝いたします。私たち一人ひとりの上に、あな たによって取り去っていただかなければいけない罪の覆いがあることに気づかされます。 私たちの開かれた目によって、罪に勝利してくださったキリストの十字架と復活のお姿を 見つめることができますように。あなたによって開かれた目をもって、1週間の聖なる歩み を送ることができますように。
感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈り上げます。アーメン。