「シメオンの讃歌」
説教集
更新日:2022年01月02日
2022年1月2日(日)降誕後第2主日 新年礼拝 牧師 髙橋 潤
ルカによる福音書2章25~38節
25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、 イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。26 そして、主が遣わ すメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。27 シメオンが “霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおり にいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。28 シメオンは幼子を腕に抱き、神を たたえて言った。29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせて くださいます。30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。31 これは万民のため に整えてくださった救いで、32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れ です。」33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。34 シメオン は彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの 人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして 定められています。35 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある 思いがあらわにされるためです。」
36 また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をと っていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、37 夫に死に別れ、八十四歳に なっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、 38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子 のことを話した。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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主の年2022年を迎え、共に新年礼拝をおささげ出来る幸いを感謝いたします。 救い主の誕生によって、私たちの交わりが教会とされ、神の家族とされている事を感謝いたします。新年礼拝、新しく神の御前に立ち御言葉を分かち合いたいと願います。 主イエス・キリストがお生まれになって40日過ぎました。モーセの律法によって定めの期間が過ぎた時、主イエスの父ヨセフと母マリアは、主イエスを抱いて、神殿に行きました。この神殿に出かけた目的の一つは、母マリアの清めのためです。旧約聖書レビ記12章に記されている定めによれば出産後40日間、母は汚れの期間とされ、40日過ぎて神殿で犠牲を献げることで清められるとされていました。この定めの背景には、産後の女性を40日間ゆっくり休ませなければならないという健康上の配慮があったと理解されています。
マリアとヨセフが神殿に登ったもう一つの理由は、出エジプト記13章に記されているとおり、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」すなわち長男は主に献げられて、神のものとされると律法によって命じられていたからです。出エジプトの出来事の中で小羊の血が戸口に塗られ、その印によって、イスラエルの初子が救われました。この出来事から、長男は神のものであるという信仰が生まれました。長男が献げられることによって、次男三男、いや家族全体が神さまの恵みと祝福を受けることになりました。長男をささげ、代価を支払って買い戻す儀式が行われました。そして、家族の祝福の源が明らかにされるのが長男の奉献式でした。
日本の風習であるお宮参りは、その土地の守護神である氏神様に赤ちゃんが無事誕 生した事を報告し、健やかな成長をお祈りしてもらうために神社に行き参拝する儀式 です。キリスト者は土地の氏神を神としているのではありません。父子聖霊なる神を 信じていますから、教会でお祈りすることが大切です。神社に行って氏神様に祈祷し なくても良いのです。私たちの教会では、ご家族の希望によって「新生児誕生の祈り」をささげます。お生まれになった病院や退院後のご自宅またははじめて教会に来られた日に申し出てください。牧師が聖書を読み祈ります。また、毎年11月には子ども 祝福家族礼拝が行われ、礼拝の中で「こども祝福の祈り」を献げます。ユダヤの伝統のように長男だけに限定することはしません。伝統的な日本のお宮参りのように土地の守護神に気遣う必要もありません。日本では八百万の神々を使い分ける文化で、お願いする神は多い方が御利益も増えると考えてしまいます。しかしこれは、いつの間にか人間が神を選ぶようになっているのです。私たちが神を選ぶという事は神より人間が上になっている事になります。私たちは神に選ばれ、神に愛され、神の御前に立つ事を自覚しなければならないのです。
さて、ヨセフとマリアが主イエスを抱いて神殿にいた様子を見ていたシメオンとアンナという旧約聖書の伝統を継承する二人が登場します。女性であるアンナは84才であると記されています。シメオンの年令は記されていません。救い主に会うまでは死なないという約束が与えられていたこと、赤ちゃんの主イエスを抱いて、29節から32節の賛歌を歌ったこと、この賛歌の内容から、シメオンもアンナと同じように老人であると想像されています。シメオンについて大事なことは、年齢ではなく、27節にあるように霊に導かれていたということです。聖霊に導かれていたがゆえ、この幼子こそメシア(救い主)であると救い主を見分ける目が与えられました。シメオン自身の経験や主イエスの姿が特別であったのではなく、神の恵みによって、シメオンは救い主を知り喜ぶ信仰が与えられていたのです。そして賛歌が与えられました。
ルカによる福音書の関心は、主イエスの奉献、エルサレム神殿でのヨセフとマリアが主イエスを奉献したことは、夫婦が律法に忠実に従う二人であったということです。主イエスがお生まれになったときから、両親は律法に忠実であったことが強調されているのです。両親だけではなくシメオンの人となりとして、「正しい人」「信仰があつく」と紹介されて、律法に忠実であることがここでも強調されています。最も大切なことは、主イエスが「救い主、メシア」である事を見抜く眼差しが与えられていた事です。本当の意味で律法に忠実な神の民が残っていたと記しているのです。この二人以外にはイスラエルの慰めら れるのを待ち望む信仰者がいなかったのです。この時代に、この二人に光が当てられ、本来の旧約聖書の正当な伝統を継承する者が二人以外にはいなかったことが証言されているのです。これは当時のユダヤの社会に対する、痛烈な批判として聞かれなければなりません。この二人以外の大祭司や祭司長など、神殿の支配者たちは誰も救い主を見分けられなかったという批判です。旧約聖書の歴史において、神の霊の導きによってシメオンの賛歌を受け止める必要があるのです。ヘロデ王はじめ、ユダヤの指導者たちは、主イエスを排斥したが、主イエスはユダヤ教を拒否することなく、神殿に入り、救い主としてシメオンとアンナに出会う事が出来たのです。
旧約聖書の律法に忠実であるならば、終末において遣わされる救い主メシアを待望しているはずなのです。ペルシャの王キュロスすらメシアと見なされる危うい時代が続き、メシア待望が形骸化し、今や誰が真の救い主であるかを見分けることすら出来なくなっていたのです。そのような危機的な時代の中で、真の救い主を見分ける事が出来た二人がいたことを福音書は、救いの恵みとして告げ知らせているのです。
律法の命令を実行するために、主イエスが神殿に献げられたとき、シメオンとアンナは旧約聖書の伝統に忠実に生き、旧約の伝統の本流を汲む二人が、霊に導かれ、まことの救い主を見分ける事が出来たのです。待望していた救い主、キリストに出会いました。アンナは女預言者、シメオンは霊に満たされ、主イエスの将来について預言します。
この出来事は、神殿での律法に従う儀式と女預言者と霊に導かれるシメオンによって旧約の預言のあるべき姿が印象深くここに示されているのです。律法を遵守する姿によって、イスラエルの遺産である律法と預言とがここに生きていることに光が当てられているのです。ユダヤの当局者が本来継承しなければならない事を見失っていたのです。
真の「律法と預言」は、神殿の中庭の儀式を通して生きていることが主イエス奉献によって証明されたとルカによる福音書が語っているのです。
シメオンの賛歌は、預言者イザヤの次の言葉を反映しています。イザヤ書40章1節「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2 エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」
イザヤ書66章12-13節「12 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう/平和を大河のように/国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ/抱いて運ばれ、膝の上であやされる。13 母がその子を慰めるように/わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」
シメオンの賛歌の32節、イスラエルの慰めは、異邦人への啓示であることが、声高らかに讃美されています。神の真の救いが、ここで初めて正しく讃美されている瞬間です。 神の御名が讃美されるということは、ユダヤ人限定の神ではなく、神の救いは普く広がるのです。東方の学者たちがそうであったように異邦人への啓示の光が輝いています。
シメオンは、主イエスが異邦人にもたらす救いを見たのです。その救いのためには、大多数のイスラエル人が主イエスを否むことも見通していました。語る主イエスに押し寄せる群衆と同時に、十字架につけよと叫ぶ群衆の姿も見通されているのです。
シメオンの第二の託宣は、マリアにあてたもので「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。」とあります。この剣とは、神の言葉を本当に信じることです。神を信じる信仰によって主イエスの真の家族となることです。家族とは血縁によるのではなく、神の救いを見つめ、神の言葉を受け入れることによって、真の家族になると語られているのです。
ルカ8:21「するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。」私たちは、シメオンの賛歌によって、神の家族の一人とされているのです。真の救い主を大胆に誉め讃え、主イエスの真の家族に加えられた喜びの知らせを聞きます。シメオンの讃歌を讃美することは、私たちが神の家族の一人として、神さまに迎えられている事を喜ぶことなのです。
クリスマスの出来事を通して、アンナやシメオンを通して、苦しみの中で神の導きを見つめ続けた人々を通して、今、私たちは神の家族とされているのです。
今なお地球上にはクリスマスを祝うこと、クリスマスの讃美を自由にすることが困難な国と地域があります。しかし、主の御言葉を信じる事によって、神の家族である事を感謝し喜ぶ事が出来るのです。
私たちは、現在、最も世俗化した時代に生かされています。これまでのどんな時代よりも救い主が誰であるのか見分ける事が難しい時代に生きています。何も分からないまま、手探りで生きることを求められています。現代は、真の救い主を見分ける事が出来ない時代、救い主を見失う時代ではないでしょうか。
私たちがシメオンの讃歌を讃美する事は、このような不信仰の時代の中でシメオンが主イエスを抱いて讃美したように、主日ごとに礼拝をささげ祈り、救い主が誰であるかを見分ける信仰の目を大切にしなければならないのです。教会において聖書を読むこと、救い主を抱いて喜ぶシメオンを心に刻む事が大切なのです。信仰の先達に感謝し、神に感謝を献げながら、声高らかに、シメオンと共に、讃美を献げ、礼拝を献げる主の年2022年としたいと願います。 主の年2022年、神の大いなる祝福に与り、声高らかに主の御 名を讃美しましょう。