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銀座の鐘

「互いに仕え合いなさい」

説教集

更新日:2022年01月16日

2022年1月16日(日)公現後第2主日 家庭礼拝 協力牧師 近藤勝彦

エフェソの信徒への手紙5章21~24節

 主の年 2022 年を歩み出して、第三週の礼拝日を迎えました。今朝は、信仰生 活の基本を語る御言葉から学びたいと思います。エフェソの信徒への手紙は、前半で福音を語り、後半では倫理や生活を語りますが、今朝は、その後半部分でもう一つの転回を示す 5 章 21 節をお読みいただきました。ここから「妻と夫」や「親と子」、さらには「奴隷と主人」といった具体的な家族生活が語られます。その最初の言葉が 21 節です。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。キリスト教信仰による家族生活の「根本」が示されています。
この後、22節には「妻たちよ」と呼びかけ、婦人たちの家族生活の基本が語られ、続いて 25節では「夫たちよ」と呼びかけ、夫たちへの勧め、さらに6章1節では「子供たちよ」、そして「父親たち」と続き、さらに「奴隷たち」に呼びかけ、続いて「主人たちよ」と続きます。ですから当時の大きな家族生活の全体が扱われ、そのすべてを貫く生き方が 21節に記されているわけです。妻と夫、親と子、そして奴隷と主人の間に生き方の根本の相違はありません。キリスト教信仰の家族生活の基本は一つです。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言うのです。
 これ以前には、何が記されていたのでしょうか。21 節の直前には「いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」とあります。それは家族生活というより、教会生活全般を語っていました。教会生活を語った部分から、ここで家族生活に話が転じるわけです。しかし教会生活とまったく違った家族生活があるわけではありません。教会生活が家族生活に及んでいきます。教会生活から家族生活に橋渡しされる。その結びめの言葉が 21 節と言ってよいわけです。そうすると、21 節は教会生活にも当てはまる基本です。それが家族生活を支える基本でもあるわけです。そうした信仰生活の根底がここに語られると言ってよいわけです。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」。
「仕える」とは、どういう生き方でしょうか。主イエスはゼベダイの子ヤコブとヨハネに語りました。「人の子は、仕えられるためでなく、仕えるために来た」(マルコ10・45)と。その主の言葉を思い起こすと、私たちは今日も、主イエスによって仕えられていると分かります。このことを覚えて、私たちも、互いに仕え合うのが主のみ旨であると言うべきでしょう。一般に「仕える」とか「奉仕」とかと訳される言葉は「ディアコニア」という言葉です。しかしここにあるのはただ単純に、「下に置く」という言葉です。つまり「互いに仕え合いなさい」と訳したのは意味を汲んで訳したのであって、文字通りには「互いに自分を下に起きなさい」、つまりは「他者に従いなさい」と言っています。主イエスの言葉にすると、「すべての人の僕になりなさい」に通じると言えるでしょう。あるいは子供たちを指し、「神の国はこのような者たちのものである」と言われた主イエスの言葉に通じます。他の人の上に立つのでなく、下に立つ、そして従う。それを根本に置くのが信仰の生活と言います。しかし聖書が記された頃の妻たち、あるいは子供たち、そして奴隷たちは、そう言われなくとも他の人の下に置かれていたのではないでしょうか。信仰に入った生活も、これまでの生活と何ら変わらないと思わなかったでしょうか。
 信仰によって私たちの生活はどう変わったのでしょうか。以前の生活や他の生活と何の変化もないと感じる人がいるかもしれません。従いなさい、下に立ちなさい、互いに仕え合いなさい。これまで人の下に身を置いたことのない人にとっては大きな変化でしょう。しかしずっと従ってきた人には、何の変化もないと思われないでしょか。しかし実は、根本において一大変化が起きています。信仰の生活は、信仰なしに生きてきたときとは、全く別のことがあります。なぜかというと、今までは「キリストに対する思い」が動機になっていなかったからです。生活はがらりと変えられました。もはや世の習慣がこうだから、こう生きているのではありません。キリストがいてくださるので、キリストへの思いからこのように生きている、いや生かされているのです。同じ様なことをやってもまったく意味が違う。どんな小さなことでも、キリストを思ってさせていただく、それが信仰生活です。
 キリストに対する思いは、ここでは「キリストを畏れる」という珍しい表現で 言い表されています。この表現はここにしか出てこないという人もおります。も う一か所、「キリストへの畏れ」という言葉は、コリントの信徒への手紙2にもでてきます。しかしそこはキリストによる審判のことが記されていて、審判をなす主に対する畏れを私たちは知っていると書かれています。しかしここでは審判のことは記されていません。「キリストに対する畏れをもって」とは、誠実な信仰生活のありようとして語られているわけで、「畏れ」はキリストの臨在に触れている厳粛な思いでしょう。主イエス・キリストは憐み深きお方で、愛の方です。「仕えるために来た」と言われた主の言葉には、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という言葉が続きます。エフェソの信徒への手紙が伝えるのは、その主イエス・キリストが私たちの「頭」である、すべてのものを足もとに従わせ、すべてのものの上にある「頭」であるということ、そして頭であるキリストが教会に与えられ、教会を御自分の体としてくださっているということです。ですから「キリストに対する畏れをもって」とは、主キリストが教会の頭として与えられ、このキリストに私たちはすべてを負い、何ごとにつけ信頼を寄せ、畏敬をもってお仕えする、そういうキリストへの思いです。そこからキリストの下に身を置き、キリストに従い、キリストに仕える生活がキリスト者の義務となり、この義務を果たすためには、互いに仕え合うことで実行することができるというのです。
 また、キリストに対する畏れをもってでなかったなら、私たちは本当の意味で互いに仕え合うことはできないでしょう。私たちは皆自己中心的ですから、自分を他者の下に置くより、できるだけ上位に置きたいと思うのではないでしょうか。人に従うより、従わせたいのではありませんか。仕えるように見せながら、その実、自分がしたいようにしているものです。本当の意味では仕えていないので、恩に着せている場合もしばしばです。私たちは、信仰生活に失敗すると言わなければならないでしょう。
 しかし頭であるキリストは、私たちを守り、支えてくださいます。主イエスは、御自分の命を捨てて仕えてくださっているお方です。ですから、このキリストに対してならば、私たちは仕えることができるのではないでしょうか。しかし目に見える仕方で主に仕えるには、主が共に生きよと命じて与えて下さった人々に対して仕える以外にありません。その生活に何度失敗しても、悔い改めて、もう一度チャレンジします。頭であるキリストは、その生活を赦し、励まし、支え、守ってくださいます。それが信仰生活、「互いに仕え合う」生活です。
 最近、書物を出版しました。友人の牧師たちにそれを贈呈したところ、ある牧師から手紙がきました。「日本の教会のためにも喜ばしい」出版だと書いてくれて、「何よりも、主イエス御自身が、とてもお喜びくださっておられることと存じます」と言うのです。私は自分の本の出版をそのように考えたことは、一度もありませんでした。しかし今朝の御言葉、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言われる信仰の生活について言えば、私たちがキリストを思って、互いに他者の下に自分を置き、主に従うように従い合い、仕え合う。それを基本に置いて、そのとおりにいかなくとも、そのときもう一度悔い改めて主の生き方に立ち帰ろうとします。頭である主イエスは、そういう私たちの信仰生活をきっと喜んでくださっているはずです。聖書が勧めているということは、そういうことではないでしょか。私たちが仕え合おうとする信仰の生活を、主は喜び、そして守り、支えて下さっています。そうに違いありません。ですからこの年も、この信仰の生活を歩み続けたいと思うのです。
祈りましょう。

 憐れみ深い天の父なる神。新しい思いを持って主の年 2022 年を開始いたしました。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」との御言葉を感謝いたします。どうかこの一年、頭であるキリストの体を生きる信仰生活を、教会にあっても家にあっても互いに仕え合って前進していくことができますように、主イエスに守られ、統治され、喜ばれる日々の歩みに努めることができますように導いて下さい。とりわけ、あなたの助けを必要としている方たちに、助けが与えられますように。主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。
アーメン。