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銀座の鐘

「偽証にまさる証し」

説教集

更新日:2022年03月14日

2022年3月13日(日)受難節第2主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 藤田 由香里

マルコによる福音書14章53~65節

 主イエスの御受難を覚える受難節第二主日をお迎えしました。大変緊迫した最高法院の主イエスの裁判の場面です。祭司長・長老・律法学者たちは、主イエスの公のご生涯において、繰り返し、主を試そうとしてきました。
 マルコによる福音書7章で、イエスはすでにファリサイ派の人の偽善を見抜いて、神ではなく人間を中心としていることを指摘されていました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」あなたたちは、神の掟を捨てて、人間の言い伝えを守っている」(マルコによる福音書7章6〜7節)鋭い悔い改めを求めるお言葉を語られておりました。
 そして、彼らは、多くの人々が主イエスのお言葉を信じて弟子になる様子を見て、妬みと怒りから主イエスを陥れる心の種を膨らませておりました。12人の1人イスカリオテのユダは、ヨハネ福音書においては「サタンが入った」(13章27節)と言われますが、主の晩餐を共に囲んでいる間も、主イエスを引き渡す計画の時を待っていたのであります。それは主イエスがご存知の計画でありましたが、ユダは裏切りの接吻により、主イエスを捕らえました。すると、11人の使徒と他の弟子たちは皆、「イエスを見捨てて逃げてしま」(マルコによる福音書14章50節)いました。またマルコ福音書記者本人ではないかと言われる「1 人の若者」(マルコによる福音書14章51節)も主の御前から逃げ出したことを記録・告白しています。この後、ペトロが1人、遠く離れながらイエスの後に従います。
 主イエスは、引き渡され、ユダヤ教の最高法院サンへドリンへと連れて来られました。祭司長、長老、律法学者らは皆、イエスを死に渡すための証言を求めていまし た。
 本日の場面では、「証言」「証し」が一つの鍵になる言葉であると思います。「証 言 マルトゥリア」という言葉が、派生語を含め7回出てきます。その派生語には「偽証する プシュードマルトゥレオー」という言葉があります。「偽証」これは、文字どおり、偽りの証言です。真実とは異なる言葉を、証しとして公に語る。今日の世界にあっても、わたしたちは、偽証であろうと思える言葉を、たやすく見つけることができます。しかし、偽りであるが故に、そのような言葉は、いわば集められると「バラバラ」であって「一致する事はなく」(マルコ14章59節「食い違う」の直訳)、どこかにそのほつれが露呈されます。本日のサンへドリン・ユダヤ教の最高意思決定機関の最高法院の場でなされた裁判は、まさにそのような証しが錯綜する場でありました。そこに、静かに、落ち着いて、冷静に立っておられるのが主イエスです。そして主イエスはこの出来事自体が、父なる神の救いのご計画であることをよくご存知でありました。
 主イエスに対する不利な証言が求められ、一同が死刑にするために躍起になるなか、ここに、一つの具体的な証言が記されます。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」(マルコによる福音書14章58節)
 マルコによる福音書13章2節に主イエスが語られた言葉をこの男は証言しようとします。しかし、彼はイエス様が言っていないことも言っています。主イエスは「わたしが神殿を打ち倒す」とは一言も言っておりません。イエス様が語る言葉は、ご自分の力で壊したり立てたりすると言う言葉ではなく、と言われる、父なる神がそれを成し遂げられるが故の受け身表現を用いています。「一つの石もここで崩されずに、他の石の上に残らされることはない」(同13章2節)と言っています。どこまでも、父の御心に沿って歩まれる御子は、神殿が倒されるのも、建てあげられることも、神の御意志として語られます。この言葉が本当に示している事は、キリストの体が一度十字架で死に渡されても、3日後に復活なさるということでした。復活をなさるのも父なる神です。この男の偽証は、まるで主イエスがエルサレム神殿の破壊者であるかのごとくに偽りを語っているのです。案の定、「この場合も、彼らの証言は食い違っ」(マルコによる福音書14章59節)ておりました。
  偽証に重なる偽証、それは、この法廷に仕える者たちが、「神の御前に真実を語る」と言う本来の適正な司法におけるなすべき役割から離れていたことを物語ります。十戒の「偽証するなかれ」との戒めの前に、証言者たちは、主イエスへの嫉妬・ 企み・怒りにとらわれ、遂には自分たちこそ法廷の主であると言わんばかりの行動に出ます。彼らの思いを代表するかのように、しびれを切らした大祭司は、法廷の中心へと進みでます。そして、主イエスに問いかけます。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」(同14章60節)けれども、主イエスは黙しておられます。大祭司が直接イエスに「あなたは誰か」と問いかけるまでは。なぜ沈黙なさったのでしょう。主が証言しなくても、彼らの偽証が食い違い、反論する必要がなかったからでしょうか。十字架が父のみ心の救いのご計画であると知るから、父への従順の故に、静まっておられたのでしょうか。
 黙するキリストを前に、大祭司は尋ねました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(14章61節)この言葉は、直訳すると、「あなたは祝福されるべき方の子、キリストなのか」とも言えます。
 主イエスご自身は、唯一、この法廷で、真実を語られておられます。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」(62節)
 大祭司は、衣を引き裂いて怒り、これを冒瀆の発言と判断し、最高法院一同は、主イエスを死刑とすることを決議しました。
 ここで、イエス様はご自分がメシア・キリストであり、神の御子であられることを答えます。また、十字架において去り、復活して昇天した後、ご自分が再び来られる時、第二の到来の時、再臨の時のことを語ります。人々の神への敵意が募り極限に達 しつつあるこの法廷で、イエス様は、これから起こる全てのことを見据え、且つ神の 自由な・言い尽くせない人間への愛の証言を語られました。そうです、イエス様は「福音」を語られたのです。これこそ、偽りならざる神の真実な証しです。教会はこ の証しを受け継ぎ、これを伝えることを任されています。

 本日の最後の場面で、人々は、イエス様に唾を吐きかけたり、あるものは、目隠しをして殴り、「言い当ててみろ」(マルコによる福音書14章65節)と言いました。この「言い当ててみろ」は元のギリシャ語で直訳すれば「預言してみろ(プロフェーテューソン 2人称命令・単数)」です。実は主イエスがこの法廷でなさっていた事は、まさに十字架の赦し、復活の命と、主イエスが再び来られる時の再臨の預言でありました。イエス様は、ひたすら真っ直ぐに真実な証しをなさっていたのです。それも、わたしたちを言葉と行いと全てを持って、愛してくださる仕方で、証をなさいました。主イエスは、わたしたちを愛し抜く強い愛による証しをもたらしてくださいました。コロサイの信徒への手紙2章13節以下には次のような言葉がありました。
 「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、14 規則によってわたしたちを訴えて不利に 陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。」(コロサイの信徒への手紙2章13b1〜14節)
これから主イエスが向かわれる十字架は、わたしたちの罪を取り除いてくださるための道行きです。また私たち自身の十字架も、主が担ってくださっている道です。救い主の十字架を覚え、見つめながら悔い改め、神の深い憐れみと赦しへの感謝に生きましょう。私たちもキリストの真実を証しましょう。それは、既に勝利している光の証です。
 祈りましょう。天の父なる神様。様々な偽りの言葉が行き交う最高法院の裁判で、主イエスは救いのご計画の十字架への道を進んでくださいました。主は、真実な証しを語られ ました。神の法廷の御前に、わたしたちをの罪を赦し、恵みによって義としていただく御 救いに感謝いたします。わたしたちも、主イエス・キリストのまことを証しする器として お用い下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。