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銀座の鐘

キリストにある親と子

説教集

更新日:2022年05月16日

2022年5月15日(日)復活節第5主日  主日礼拝(家庭礼拝) 協力牧師 近藤 勝彦

エフェソの信徒への手紙6章1~4節

 エフェソの信徒への手紙 6 章の冒頭の箇所は、親と子について、そして子供の教育のあり方について記しています。親と子の問題は、どの家庭にとっても重大問題であり、また子供の教育は各家庭の問題であるだけでなく、国家や社会の重大課題としても意識されています。最近の国際情勢によって、国防問題が重大だと言われ出しましたが、教育の国家予算を損なうようなことがあってはならないという警告も聞かれます。しかし同時に言えますことは、次世代のための教育にとって、何をどう教えればよいか、肝心なことは決して自明ではないと言うことです。子供は親のためにいるのではなく、ましてや国家や社会の手段としているわけではありません。聖書が親と子について、また子供の教育について語っている内容は、どの家庭でも、またどの社会でも、尊重して聞かれてよいことではないかと思われます。
 聖書は子供たちに向かって、「主に結ばれている者として両親に従いなさい」と言います。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい」と言うのです。「従え」と言われることは、現代では決して耳ざわりがよくなく、人々からはむしろ嫌がられるかもしれません。しかし聖書はさらに「父と母とを敬いなさい」という「十戒」の第五の戒めを記します。十戒は、宗教改革者たちによっては使徒信条や主の祈りと共に、教会生活のために、特に子供たちの信仰教育のために重大な基本として尊重されました。率直に言って、現代の教会は「十戒」の意味をもう一度取り戻して、教会生活に生かす必要があるでしょう。
 十戒の戒めは、第一から第四の戒めまで神に対する姿勢を語ります。それに対して、第五から第十の戒めまでは信仰共同体の生活を語っています。その最初が「父と母とを敬え」です。この位置は、神関係の戒めと共同体生活の戒めを結び合わせる位置にあると言われます。つまり「父と母を敬いなさい」は、神をまことに神とすることの表現に されています。敬い従う本当の理由は、現実の父と母にあると言っているのではありません。神を神として神に従うことが父と母を敬う理由なのだと言うのです。それは、信仰共同体の生活の最初の戒めであって、「神の約束」が伴っていると言われています。「約束」は、この戒めを実行すれば「あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」。その約束は神から来ています。父と母を敬うことは、神の意志からきていると言うのです。
 それで「主にあって両親に従いなさい」と言われている意味がはっきりします。「主にあって」と言われているように、両親に従えとは一般道徳として誰にも言われることが記されているわけではありません。両親に従いなさいと言われるのは、「主にあって」です。「主にある」とは、「キリストにある」ということで、「主にある新しい生き方の中で」ということです。「救いに入れられた者として」ということです。キリスト者は、キリストの十字架の死によって罪を負われ、どんな罪も赦され、洗礼によってキリストの体である教会に入れられました。キリストの救いに入れられたわけです。そうであれば両親に従いなさい、そして父と母を敬いなさい。そうすることで神の意志神の支配に従いなさい。神の御心に従う者であることを示しなさいというのです。「主にある」ならば、たとえその両親がどうあろうとも「両親に従いなさい」と言うのです。
 続いて両親の代表として「父親たち」に語られます。「子供を怒らせてはなりません」。親が愛を込めて子を育てるとき、それでも親の愛に親自身の都合が隠されるときがあります。あるいは親の権威が、子供にとってはまったく親の都合から来ている抑圧に思われるときがあります。そのとき子供の中に戸惑いや疑問が生じ、怒りが生まれることもあるでしょう。子供の心に親に対する怒りが生まれたら、それは親の不幸ですが、同時にその子供自身の不幸になります。
 そういう不幸を人類は経験してきました。ギリシャ悲劇はオイディプス王の運命による悲劇を伝えます。父の王から捨てられたオイディプスがやがて父を殺し、その母を奪い、自らの運命に耐えきれず、両眼を衝いて、盲目の人としてさまようという話です。 親と子の悲劇は、イスラエルの民にはダビデとその息子アブサロムの罪による悲劇によって知られています。アブサロムの妹タマルに降りかかった事件に対し、ダビデの処置は自分の都合を優先させたもので、正義のないものに思われました。それはタマルの兄アブサロムの心を深く傷つけ、怒りと恨みを残すものになりました。親と子の問題の難しさ、人間の深みに根差し、現代にも引き継がれます。ニーチェが「神は死んだ」と言って無神論を語ったのは、牧師であった父やその世代の精神的、道徳的な抑圧に対する反抗と無関係ではないと言われます。
 父親は子をどう育てたらよいのでしょうか。聖書はこの難問に対し単純明快に語ります。「主がしつけ諭されるように、育てなさい」。本来の意味はもっとはっきりしています。「主のしつけと諭しの中で育てなさい」、「主のしつけによって育てなさい」と訳してもよいでしょう。「主のしつけ」によって育てる。「主のしつけ」を口語訳聖書は「主の薫陶」と訳しました。使われているギリシャ語はパイデイアです。教育学で比較的よく知られたギリシャ語です。「教育」とも訳されます。「主御自身がなす教育」があると言うのです。子供たちには「主にあって」従いなさい、つまり主の救いにあずかる中で主の支配に服し、両親に従い、父と母を敬いなさいと言われました。父親たちには「主のしつけ」によって育てなさいと言われます。親と子のどちらも、神の意志、神の支配に従うように言われているわけです。教育の決めては神の支配と言うのです。
 主のパイデイア(教育)は、「しつけ」と訳され、また「薫陶」とも訳されました。同じこの言葉が使用されている箇所で、知られているのは、ヘブライ人の手紙 12 章ではないでしょうか。その 5 節にこうあります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。「なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。「あなたがたはこれを鍛錬として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられます」。ここに出てくる「鍛錬」、それによって神の子として扱われれいることがわかる、その鍛錬がパイデイア、主の教育です。
 私たちは、主キリストが代わって十字架に死んでくださったことによって神の子とされました。その私たちには色々な試練が与えられます。それはすべて、主が愛する者を鍛えて、子として生きるように育てておられる、それが主のしつけであり、薫陶であり、鍛錬だというのです。その主のしつけによって親は子を育てなさいと言われます。
 そうすると、人生で受ける試練を主の教育、主の鍛錬として受けるためには主を知る信仰がなければならないでしょう。主を知る信仰が伝えられて、主の御意志を知るのでなければ、主のしつけを受けることにはなりません。子供を育てるということは、家庭の平和や家族の繁栄、将来の安心などのレベルで考えられるものではないということになります。国家のため、社会のためでもありません。そうでなく主を知る信仰によって神の支配が信じられ、その神の支配の中に子とされて生きるためです。親と子の関係の中に信仰の継承が起こり、神の救いの歴史が遂行されていく。そのための親と子だと言われています。神の意志と神の支配が遂行されるのを神の国と言います。主にあって親と子は神の国の遂行に仕えることになります。教育は親のためにあるのでも、またその家族のためにあるのでもありません。本来伝えられるべきものが伝えられていく教育は、救われた者が救われた人生を神の国のために生きるように、神のみ旨を知り、神の御意志をなしていくためです。本当の教育が「主の教育」「キリストのしつけ」によることを、主にある教会だけは知っていなければならないでしょう。神の子とされた者が、子とされた命を神の国の中で永遠に生きるように育てられていく、そういう教育があることを主にある者は知っていなければなりません。神の国のための親と子のあり方、その教育がなされれば、神の国のためですから、それは本当の意味で、世の救いのためになることは明かです。

  天の父なる神様、御言葉によって主イエス・キリストの教育、しつけや薫陶、また鍛錬が与えられていることを知り、感謝いたします。どうか、子供たちがあなたへの信仰を知り、御国のための子供たちとして育つことができますように。そのために主にあって、主のしつけによって育てる力を私たちに与えてください。全世界の教会と日本の教会にあなたの憐みによって御力を注いでください。子供たちがあなたのみ旨に応え、あなたの御意志に従い、御国に仕えることができますように。それによって世の救いのために奉仕することができますようにお願いいたします。世界の主であり、教会の頭である御子イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。