祝福の源アブラハム
説教集
更新日:2022年06月18日
2022年6月12日(日)三位一体主日 子どもの日・花の日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤
創世記12章1~9節
1 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。2 わたしはあな たを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。 3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族は すべて あなたによって祝福に入る。」
4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。5 アブラムは妻のサライ、甥のロ トを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって 出発し、カナン地方に入った。6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木 まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。
7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、 彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を 張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。9 アブラムは更に旅を続け、 ネゲブ地方へ移った。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
創世記12章は、創世記全体の構造から、11章までの創造物語とは違う、いわば第二部に入ります。11章までの世界の創造の意味について語られていた第一部から第二部は歴史に入ります。1章から11章までは「前史」として語られていました。この前史は、神が世界とはどのようなところか、人間はどのような存在であるのか、天地創造の物語から語られてきました。そこには、天地創造、エデンの園の最初の夫婦、カインとアベルの物語、ノアの洪水物語、バベルの塔という内容でした。創造物語から11章までは、それぞれの年代決定や歴史的な事実かどうかの検証は、意味のある問いではありません。数字で表される事柄ではなく、神が創造した世界とはどのようなな存在なのか、神と人間の関係はこのような関係なのだということについて語られていました。そこに意味があるのです。
12章からは第二部歴史に入ります。年代決定や歴史的な事実として、神が創造された世界において、神と共に歩む歴史上の人物としてアブラムが登場します。17章からアブラムはアブラハムと名前が変わります。このアブラムから、イスラエルの父である族長物語がはじまります。アブラハム、イサク、ヤコブの神と語られるように族長の父がアブラハムです。いよいよ、前史が終わり、歴史として神が創造された世界において、神に招かれたアブラムが歩み出します。
神は何故アブラムを招いたのでしょうか。アブラムもアブラハムと名乗ってからも、いわゆるこの世的な業績や模範的な行いをしたことは記されていません。にもかかわらずアブラムは「信仰の父」と呼ばれています。神の声に従って旅に出たことが覚えられています。アブラムは、立派な業績を上げたとか、特別な貢献をして尊敬されたという話しは記されていません。逆に、あまりにも人間的な弱さ惨めさが印象に残る事件が記憶されています。その一つは、18章において主なる神がアブラハムと妻サラに、来年にはサラが男の子を生むといわれました。高齢のサラは神の言葉を聞いて密かに笑いました。20章ではゲラルに滞在していたとき、アブラハムは自分自身の身を守るために妻を妹と嘘をつき危機回避をしたことが明らかにされました。
このような人間的な姿は記されていますが、立派なリーダーであったとか人々のために貢献したという話しはほとんどありません。ある聖書学者は、アブラムとは「滅 びゆく一アラム人」(申命記26章5節)と紹介しました。
アブラムは古代シュメールの都市ウルの出身です。ユーフラテス川下流のカルデアのウルは、月の神を礼拝していた場所です。アブラムの父テラが留まったハランも月 の神を礼拝する中心地でした。すなわち、アブラムは月の神を礼拝する者でありました。いわば異教徒であったのです。アブラムは父テラ、妻サライ、甥ロトと共にハランに移住しました。そしてアブラムはハランにおいて「わたしの示す地に行きなさい」との神の命令に従ってカナンに向かって出発しました。
ヘブライ人への手紙11章8節「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」 カナンに到着したアブラムは、そこに土地を得ることはなく、シケムやベテルをめぐり、ユダの最南端ネゲブまで下りました。そして飢饉を逃れてエジプトに行き、帰ってきてさらに放浪した後、ヘブロンに住みます。ヘブロンでは、先住民からわずかの土地を墓をもつため買い取りましたがそのほかの土地を得ることはありませんでした。主なる神は、アブラムの子孫が400年間異邦の地で奴隷として仕え、その後4代目の子孫になってようやく約束の地を得たと語っています。つまり、アブラムは約束の土地を得ることを経験することなく生涯を閉じたのです。
アブラムが約束を信じて旅立つことの意味は何でしょうか。神はアブラムに何を与えたのでしょうか。神の言葉を信頼して行く先を知らないで旅立つということは、約束の土地を望み見た信仰のなせる業でしょうか。そうではないと思います。アブラムが約束を信じて旅立ったのは、主がアブラムを祝福し、祝福の源とされたからではないでしょうか。12章2から3節には5回も祝福という言葉が用いられています。この祝福の言葉を聞いて、アブラムは旅立ったのです。
ドイツの旧約学者ヴォルフは、12 章1節「わたしが与える地」と言わずに「わたし が示す地」に行きなさいと言っていることに注目します。アブラムの旅立ちの目的は 土地取得のためではなくイスラエルが担うべき課題を示すことにあると主張しました。アブラムが担うべき課題とは、アブラムが祝福の源となることです。
「2 わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める 祝 福の源となるように。3 あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、「滅び行く一アラム人」として生きていましたが、神から突然何も手柄を立てたわけでもないのに「祝福の源」とされたのです。アブラムが「祝福の源」ということは、第一に主なる神がアブラムを祝福したことからはじまります。そして主が「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と語られました。アブラムが誰かから祝福されたらその人に神の祝福でお返しをするという意味ではありません。祝福という頂き物をしたからお返しに神の祝福を与えると理解してはならないのです。そうではなく、アブラムは祝福そのものとして存在して地上を歩き回っているのです。旅人としてアブラムを受け入れる人はアブラムが祝福のお返しをするまでもなく祝福を受けている事になります。アブラムを呪うとアブラムから呪われるというのでもありません。3節の「あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。」この言葉の祝福は複数形ですが、呪う者は単数形になっています。すなわち「あなたを祝福 する多くの人々をわたしは祝福し、あなたを呪う者があったらわたしもその人を呪う」 と言われているのです。
主なる神は、滅び行くさすらいのアラム人であるアブラムに使命を与えました。神から使命を与えられて、滅び行く者が祝福の源とされました。ヴォルフは創世記2章から11章まで5回「呪い」という言葉が用いられていることに着目します。そしてこの5回の呪いは、世界と人類と文化が問題に満ちていること、労働は空しく、実りなく、あてのない放浪生活に明け暮れ、死の恐怖に悩まされ、世界は呪われていると いうのです。そのような呪われた世界が12章の2から3節においてアブラムによって5回の呪いが5回の祝福に取って代わると語られていると読みます。そして「祝福の源となるように」と訳されている2節をヴォルフは命令形として訳さなければならないと言いました。すなわち「祝福の源となれ」。
神はアブラムをもちい世界をさすらうアラム人として歩かせ、模範的な人としてではなく「祝福の源」としたのです。ここに神の御心があります。私たちはアブラムの 正しさからではなく、アブラムに与えられた祝福をアブハムを受け入れることから、この祝福に与る教会によって神の祝福に与ることが出来るのです。
預言者ナタンがダビデ王に告げたナタン預言の言葉です。サムエル記下7章9節「あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。」この御言葉はアブラハムが受けた神の約束がダビデの時代に実現している言葉として読むことが出来ます。
創世記18章19節「わたしがアブラハムを選んだのは、彼が息子たちとその子孫に、主の道を守り、主に従って正義を行うよう命じて、主がアブラハムに約束したことを成就するためである。」イスラエルは多くに異民族のただ中にありました。しかし、神はアブラハムを祝福の源とすることによって、アブラハムが神から受けた約束はダビデ王朝において果たされていると理解することが出来ます。アブラハムに与えられた祝福の源は、現在教会において私たちが受け継いでいるのです。私たちは自らのふさわしさではなく、神の恵みによって祝福に与る者として生きているのです。アブラムが祝福の源とされたということは、全ての人を祝福しようとなさる主の御心がこの地上に示され実行されているのです。アブラムが祝福の源にされたことから、私たちは呪いではなく、主の祝福を身に帯びて生かされていることを感謝しましょう。