平和の福音の戦士
説教集
更新日:2022年08月21日
2022年8月21日(日)聖霊降臨後第11主日 主日礼拝(家庭礼拝) 牧 師 近藤 勝彦
エフェソの信徒への手紙6章14~15節
14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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エフェソの信徒への手紙の中にこの箇所があることはよく知られていると言ってよいでしょう。ここにはキリスト者が身に着ける「神の武具」の一式が語られています。神から平和を与えられ、平和の挨拶をし、平和を告げるキリスト者が同時に武具で身を固める戦士でもあることは矛盾のようです。しかしそれは矛盾と言うより、信仰の現実です。キリスト者は「平和の挨拶」を交わしながら、なお「戦い」の中にあります。そのことをよく弁えていなければならないでしょう。
ここにキリスト者の武具として「6 つの武具」が挙げられています。はじめにそのうちの三つが語られます。「腰」に締める「真理の帯」、そして「正義の胸当て」、さらに平和の福音を告げる準備の「履物」の三つです。「なおその上に」と言って、16 節、17 節では「信仰の盾」と「救いの兜」が語られ、最後に「霊の剣」すなわち「神の言葉」がキリスト者の武具として語られます。はじめの三つは「帯」も「胸当て」も「履物」も身につける武具として語られていますが、後の三つ、「盾」と「兜」と「剣」はその上で手に取 る武器として、それらを手に取りなさいと言われます。後の3つの武器は次回に扱うとして、今朝ははじめの 3 つの武器をもう少し丁寧に学んでいきたいと思います。
まず注意すべきは、はじめの 3 つの武器を身に着けるにあたって、「立って」と言われていることです。もちろん横になったり、座って、あるいはあぐらをかいて武具を身に着けるわけにはいきません。武具は立って身に着けるものです。6 つの武具で身支度する戦士の姿をどういう背景から理解すべきかという問題があって、聖書解釈の上では議論があります。ある人はこの手紙の時代からしてローマの兵士が装備を整えて遠征にでかける姿が背景にある、そしてその連想からキリストの戦士の姿が記されていると理解します。特に履物について言及しているのは、ローマ軍が当時の世界の果てまで伸びたあのローマの街道、軍道でもあった街道を行く、その長行軍にのぞむ身支度があるのではないかと考えられます。その身支度に当たっては「立って」、周囲の手も借りながら胸当てを着け、履物を履いたのではないかと言うのです。これに対して、いや戦士の姿は旧約聖書の伝統の中にあるというさらに有力な解釈があります。「万軍の主」(ヤ-ウェ・ツェバオス)という言い方があるように例えばイザヤ書に主なる神が戦士として描かれています。「恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた」(59・17)とあるとおりです。さらにはやがて来るメシアの預言も「戦士であるメシア」を描いて「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と語られます。神とそのメシアの戦士の姿が信仰者一人一人に移されて戦士としてのキリスト者が理解されたと考えられます。
この伝統から理解すると「立って」ということがなぜ強調されるか、その理由が明らかになるでしょう。「立つ」という言葉はこの短い 1,2 節に 3 回でてきます。11 節に「悪 魔の策略に対抗して立つことができるように」、13 節「しっかりと立つことができるよう に」、そして 14 節「立って、真理を帯として腰に締め」とあります。「立つ」のは悪魔と華々しく戦いそれを征伐する姿ではありません。そのようには求めらてていないのです。そうでなく「ただ堅く立ち、抵抗する」が求められています。悪の力を現実的に弁え、それに抵抗する。自分たちでそれを絶滅することができると思い上がることはしません。しかしそれに屈することはない。万軍の主である神と神のメシア、イエス・キリストの勝利を確信して、キリスト者は揺るぎなく立ち続けるものです。前回はそれを「主にあってふ らふらしない」と表現しました。
悪の力に対するキリスト者の戦いは、堅固に立ち、抵抗して屈しないことです。その戦いは、決して攻撃的な戦いではありません。むしろ防衛的です。そのことは次に語られる色々な武具の性格によく現れています。真理は腰の帯です。衣が絡まったりはだけたりせず、しっかりと体を覆い守るように、そして敏捷に動くことができるように、帯で衣を引き締めます。決して攻撃的な武器を意味しません。しかし信仰生活の全体が神の真実によって引き締められ堅固にされます。神の真理、神の真実が信仰者を引き締める帯としてあると言うのです。そして「義の胸当て」、これも守りの武具です。悪魔が人間を誘惑によって突き刺せば、悪魔によって突き刺された人間は不安にさせられます。悪魔はその不安にさらに付け込んできます。しかし神はその「義」によって私たちの罪を赦し、罪にまみれた私たちをも「義」としてくださる。主の贖いに根拠を持った神の義が、私たちを守ります。罪を赦し、罪びとを義とする神の義は、悪魔の告発を退け、私たちの魂を不安から守り、罪の咎め、負い目によって傷つかないように堅固に守り、私たちの命の中心を守ります。神の義が私たちの胸と心臓を守る胸当てとなってくださいます。
帯と胸当てに次ぐ第三の装備は「履物」です。その履物は「平和の福音を告げる準備」と言われます。平和の福音を告げる前にその準備をするでしょう。その準備がすでに戦士の装いになっていると言うのです。伝道のただ中に戦いがあります。しかしその前に伝道に出で立つための準備においてすでに戦いは開始されています。
伝道が告げる福音は「平和の福音」です。なぜかと言えば、福音は主イエス・キリストの御業とそれが勝利したという報告だからです。主イエスが特にその十字架の贖いの御業によって神と私たちの間に和解を回復し、神との平和を打ちたてて下さった、その知らせが福音です。ですから福音は神との平和の福音であり、それに基づいて他者との平和に生かす福音です。ですから福音は「平和の福音」です。エフェソの信徒への手紙では、主イエス・キリストの十字架が「隔ての壁」を打ち壊したと言われます。またキリストは十字架によって「敵意を滅ぼした」とも言い、敵対する双方を主にあって「一人の新しい人に造り上げて平和を実現したとも言います(2 章 15 節)。キリストの福音は「平和の福音」で、それが根本にありますから、キリスト者の戦いは「平和の福音」を告げる戦いです。
その伝道に出で立つ「準備」は「足」もとの備えを整えるわけです。これをある人は長行軍に耐えるローマの兵士の履物のイメージだと解釈しますし、別の人は旧約聖書にすでに福音を告げるものの「足」への注目があることに注意を向けます。イザヤ書 52 章 7 節に、神の支配の到来を告げ知らせる者の足は美しいと歌われます。彼はその知らせをたずさえ山々を越えて来たり、いまそれをイスラエルの民に聞かせようとしえいる。神こそ王にいますと告げる。その者の足は美しいと言うのです。「いかに美しいことか,山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられたと、シオンに向かって呼ばわる」。神こそが王と告げる者の美しい足、これがこの個所の履物の叙述と関係していると言うのです。
「平和の福音」を伝える備えがキリスト者の戦いの武器と言われます。この武器の備えは戦争を準備するのでなく、「平和の福音」を告げる準備をする、その意味で平和を準備します。キリスト者の戦いは平和の実現のために仕える戦いです。そのためには教会自身が「一つの群」として平和の中にいることが重大でしょう。キリストの十字架の福音によって「一つの群」にされたのがキリスト教会だからです。
古代ローマの格言に「もし平和を欲するなら、戦争を用意せよ」という格言がありました。戦争に対する備えがなければ平和は維持できないというのです。今日も同じように言われます。ウクライナに対するロシアの侵略や台湾に対する中国の様子を見て、日本でも「平和を欲するなら、戦争の用意をせよ」式の発言が見られるようになりました。確かに軍事的な空白だけでは、他国から侵略を受ける可能性があると言わなければなりません。侵略したいと思わせる誘惑を与えることは正しいことではありません。しかしパウロは、ここで「戦争の用意をせよ」とは言いません。そうでなく、平和の福音を告げる準備こそが神の武具なのだと言います。そこである神学者は、「もし戦争を欲しないなら、平和を用意せよ」と言い直しました。どんな時にも平和を告げる。平和を告げることを止めない。それがキリスト者の戦いです。神の真理を帯として、神の義を胸当てとして立ちます。しかしその目的は、主イエス・キリストが示された神の愛による平和を告げるため、告げ続けるためです。祈りましょう。
天にいます父なる神様、私たちの戦いは戦いのための戦いでなく、平和の福音を告げる戦いであると知らされ、感謝いたします。主イエス・キリストがあの十字架の苦難と死によって勝ち取ってくださったあなたからの赦しと義と平和とを感謝いたします。人々が主による平和に深く生きることができますように導いてください。世界の平和のために祈ります。争いや災害に苦しむ人々の上に、あなたの義と平和からのまことの救いが与えられますように。ウクライナとヨーロッパにも、また台湾と東アジアにも、あなたの平和による支配が行われますように。一切のものを足もとに従える主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。