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銀座の鐘

主に仕えます

説教集

更新日:2022年09月03日

2022年9月4日(日)聖霊降臨後第13主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 牧師 髙橋 潤

ヨシュア記24章11~18節

 本日の御言葉は、モーセの後継者として荒れ野の最後の旅を導く指導者ヨシュアが、カナンの地を征服した後、神の民に残した遺言の言葉です。ここに記されている内容は、ヨシュアと神の民イスラエルとの「シケム契約」とよばれています。シケム契約の内容は、モーセが命じた律法を守ることの再確認と、12のイスラエル諸部族が一致して神に仕えるべく一つに結集するための誓約です。
 ヨシュア記は、1章から12章においてヨシュアを先頭にカナンの地を征服したことについて記され、13章から21章で征服した土地の分配について記されています。ヨシュア記を貫くのは神の約束です。1章6から7節「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、j強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」ヨシュア記23章14節「わたしは今、この世のすべての者がたどるべき道を行こうとしている。あなたたちは心を尽くし、魂を尽くしてわきまえ知らねばならない。あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。」
 1章に記された神の約束が23章で実現したと宣言されています。この宣言に続いて、ヨシュア記を閉じる24章は、ヨシュアがイスラエルの民をシケムに集めたことが報告されています。
 シケムという場所は、エバル山とゲリジム山の間の谷間です。シケムはアブラハムがモレの樫の木の下で祭壇を築いて礼拝した場所です。族長ヤコブもシケムに祭壇を築き礼拝を献げました。ヤコブはシケムで泉を掘り、言い伝えによればそこが「ヤコブの泉」「ヤコブの井戸」と呼ばれています。また、ヤコブの息子ヨセフの遺体がエジプトからシケムに移され葬られたのがシケムです。このようにシケムという場所は、アブラハム、ヤコブ、ヨセフにとって大切な場所だったことが分かります。
 ヨシュアはシケム契約の前にこの町を「逃れの町」の一つとしました。その後のイスラエルの歴史においても、シケムは王国時代に北イスラエル王国の中心であり、バビロン捕囚後はサマリアの中心地でした。主イエスの時代ではヨハネによる福音書4章に登場するシカルがシケムのことであるといわれています。主イエスはシカルのヤコブの井戸でサマリアの婦人に出会って「永遠の命に至る水」について語り、「父を礼拝する時が来る」と語られました。このような歴史を持つのがシケムです。
 本日の聖書箇所では、シケムにおいてヨシュアが最後の言葉を語り終え、110年の生涯を閉じたことが記されています。ヨシュアは、死の直前、「主に仕えなさい」と語り、民は「主に仕えます」と答えました。
 なぜ、シケム契約が必要だったのでしょうか。なぜ、神がモーセと神の民に十戒を与え、シナイ契約を結ばれたことを思い起こさせるだけでなく、シケム契約として再契約をしなければならなかったのでしょうか。
 それは、イスラエルの12部族が多神教の土地カナンにおいて、神から与えられた命を生きるために、最も大切な信仰の戦いを戦い抜くためです。シケム契約を何度も思い起こし、ヨシュアの言葉に立ち帰り、信仰の戦いを生き抜くためではないかと思います。私たちにとってもシケムの契約は、信仰の戦いを生き抜くために立ち帰るための御言葉なのです。
 24章1節以下、ヨシュアは、新しくイスラエルの聖所となったシケムにイスラエルの全部族を集めました。1節を読みますと「イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せ」、「彼らが神の御前に進み出ると」と記されています。そうです、ヨシュアは全部族を神の御前に立たせたのです。12部族の要となる人々を神の前に立たせました。この場所でアブラハム、ヤコブ、ヨセフが祭壇を築き、礼拝したことを思い起こさせながら、ヨシュアは12部族の要となる人々に主なる神が約束を成就し、この恵みに満ちた生活に至るまで、主なる神がどのような驚くべきことをしてくださったか神の歴史を思い起こさせています。シケムの南側にゲリジム山、北側にエバル 山があります。イスラエルの民は、ゲリジム山側で祝福をエバル山側で呪いを朗唱し、主に服従し続けるなら祝福し、主を捨てるなら呪いがあるということを知っているのです。(ヨシュア記 8:30 以下)神の御業を思い巡らし、神が祝福され、救い出されたことを思い起こし、御前に立って、ヨシュアの言葉を聞きます。「主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。」14節
 「川の向こう側」というのは、ユーフラテス川の向こうを指しています。かつてアブラハムは「他の神々を拝んでいた」のです。アブラハムがかつて関係していたユーフラテス川の向こうであるウルやハランは聖書の神ではなく、その土地の守り神を礼拝していました。エジプトにおいても多神教社会で土地の神々を礼拝していたのです。 ヨシュアは約束の地カナンに定住する際に、自分の神が誰なのか選びなさいと語って いるのです。なぜ、多神教ではだめなのでしょうか。
 古代の社会においては、その土地の守り神を礼拝することが習わしでした。移民してきた人々は、その土地の神と出会い、自分たちの信じる神と新しい土地の神との信仰上の折り合いを付けなければなりませんでした。しかし、折り合いを付けることがむずかしい場合は、両方の神を礼拝することになり、多神教という宗教混交になっていきました。カナンの地の神々を礼拝するのか、荒れ野を導いた聖書の神を礼拝するのか、または両方の神々を礼拝するのかが問われているのです。
 15節「今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々」とあります。アモリ人の神々というのは、約束の地カナンの先住民が礼拝している土着の神々です。カナンに定住するやすぐに問題になるのが、農耕文化の土着の祭りへの参加です。土地の人々が、畑の豊作を願い、豊かさと繁栄を求め、自然災害や飢饉などの災いが起らないようにという願いをもって、村挙げて一斉に祈る祭儀への参加です。その土地の人々と共に生きるためには、その土地を愛し、その土地を理解し、土地の人々の伝統文化を受入れ、その土地の守り神を尊重することが求められます。土地の祭りへの参加や土地の神々への理解や礼拝について、どのような姿勢を示すかが問われるのです。
「他の神々を除き去って」というのは、どのような意味でしょうか。「他の神々」を礼拝しないということだけでなく、聖書の神を礼拝する礼拝に、土地の神々が忍び込んでいないかどうか吟味することです。具体的には、ヨシュアと神の民がシケムにおいて行う礼拝において、「アモリ人の神々」の名を呼ぶことをしないということでしょう。シケムの礼拝だけでなく、各自の家の礼拝においても、こっちの神さまにもあっちの神さまにもいい顔をして礼拝するという姿勢をとらないということです。悔い改めて、荒れ野を導いてくださった聖書の神のみを礼拝するということです。
 私たち日本人は、宗教的に寛容であり、熱心な民族であるといわれることもあります。年末、クリスマス、除夜の鐘、初詣とキリスト教、仏教、神道を渡り歩くことで驚かれる民族です。キリスト教の礼拝でお祈りして、お寺や神社でもお祈りして、どの神さまでもいいので、御利益があればうれしいという思いから、多神教的な姿勢になるのではないでしょうか。しかし、よく考えてみれば、地域の神々へ願をかけたりお参りしたり、教会の礼拝にも率先して参加するという姿勢に問題があることは理解できるでしょう。自分にとって得になりそうな神々ならどんな神々でもいいという考えは、実は自分が神になっているのであって、真の神が定まらない姿勢なのです。
 豊作を願ったり、無病息災、家内安全、商売繁盛という人間の願い事が叶うか叶わないかという結果で成り立つ関係からは人格的な関係は生まれないのです。
 主なる神とその民との関係は、地の豊作や繁栄を願い、神がそれを叶えることにおいて成り立つのではなくて、神が与えて下さる契約において成り立つのです。契約による関係とは、人格的な関係です。お互いが心を持った人格として語りかけ、語りかけに応えるという対話と交わりの関係です。愛と信頼による関係です。主は私たちとの間にそういう愛と信頼の関係を築くために契約を結ばれたのです。神の愛と信頼に答えるために「主に仕えます」と応答するのです。私たちは聖書の神を礼拝します。日本や世界の伝統的な宗教を理解したり見学したり尊重することは、問題ありません。私たちの信仰が明確にならなければ相手を尊重することになりません。
 イエス・キリストは、私たちが願うことさえ出来なくなって絶望するときにも、十字架上で祈っておられるお方です。この主イエスを救い主キリストと信じる信仰によって、主イエスとの人格的な交わりが与えられ、大切な祈りの交わりによって育まれているのです。主の日毎、「わたしとわたしの家は主に仕えます」と告白しましょう。