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銀座の鐘

主が選ばれたはじめての王、サウル

説教集

更新日:2022年10月08日

2022年10月9日(日)聖霊降臨後第18主日 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花

サムエル記上10章20~27節

 今朝、私たちに与えられました聖書箇所サムエル記上10章20-27節には、イスラエルの歴史において、初めての王様がくじによって選び出されたということが記されています。王様をくじによって決定するということは、現代の私たちにとっては驚くべきことですが、当時のイスラエルにおいては、くじによる決定は、人間の意志によるものではなく、主なる神様の御意志によるものだと考えられていました。このくじによって選ばれたイスラエルの初めての王様、それがサウルでした。はじめての王様誕生を目の前にしてイスラエルの民は「王様万歳」といって、喜びの声をあげます。しかし、私たちはこのサムエル記上、いや、旧約聖書全体を読む時、神の民とよばれるイスラエルに人間の王様が誕生したことに対して、「王様万歳」といって喜びの声を上げることなどできないのです。
 私たちは聖書日課に従って、このサムエル記上に入る前に、士師記を共にお読みしました。士師記には、主が選ばれた三百人の民だけを率いて、いなごの大群のようなミディアン人を倒したギデオンという士師について記されていますが、この士師ギデオン対して、士師記8章22節で「イスラエルの人はギデオンに言った。「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください。」このように願いました。つまり、ギデオンに王様になって欲しいと願ったのです。しかし、続く23節でギデオンは「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」と答え、王様になることを拒否したのでした。
 「主があなたたちを治められる」というギデオンの言葉は、イスラエルという神の民について考えるとき、非常に重要な言葉です。しかし、士師記においてこのように退けられたはずのイスラエルの王が本日の箇所では立てられているのです。どうしてでしょうか。
 このことは、本日の聖書箇所の直前、サムエル記上10章18-19節に「彼はイスラエルの人々に告げた。「イスラエルの神、主は仰せになる。『イスラエルをエジプトから導き上ったのはわたしだ。わたしがあなたたちをエジプトの手から救い出し、あなたたちを圧迫するすべての王国からも救い出した』と。しかし、あなたたちは今日、あらゆる災難や苦難からあなたたちを救われたあなたたちの神を退け、『我らの上に王を立ててください』と主に願っている。よろしい、部族ごと、氏族ごとに主の御前に出なさい。」このように記されています。
 聖書は神の民イスラエルに王様が誕生したのは、イスラエルの民が自分たちを救い出してくださった主なる神様を退けたことによるとはっきりと記しているのです。このような恩知らずな願いをイスラエルの民は主に願ったのです。とんでもないことです。この出来事については小見出しに「民、王を求める」とつけられているサムエル記上8章に記されています。8章は、年老いた士師サムエルがイスラエルのために裁き人とした彼の息子たちがふさわしくない振る舞いを行う者たちであったために、イスラエルの長老たちによって王が求められることから始まります。しかし、「裁きを行う王を自分たちに与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映」りました(6節)。このことについて、サムエルは主に祈ります。
 この箇所を初めて読むとき、主なる神様は王を求めるイスラエルの願いを退けるだろうと思いながら読み進めていきますが、驚くべきことに主はこの民の願いを聞き入れられるのです。7 -9節に「主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきりと警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。』」と記されているとおりです。まことの王であられる主なる神様を退けて王を求めるイスラエルの姿は、何も今に始まったことではありません。このような民に対して、主は警告として王の権能を知らせます。王の権利、それはイスラエルの民の息子や娘を徴用し、土地、畑 、羊といったありとあらゆる財産なども没収、徴収するといったものです(11-17節)。
 つまり、王を立てるということは、イスラエルの民が王の奴隷となるということです。サムエルを通して語られた主の警告の言葉は「その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」という18節の言葉で締めくくられます。恐ろしい言葉です。ですが、民はこのような言葉を聞いても従わず、王を求めたのです。こうして与えられたのがイスラエルの歴史においてはじめての王、サウルでした。
 イスラエルの初めての王様、サウルは本日の聖書箇所においては、くじによって民の前で公に認められましたが、ここでは王とする儀式、油注ぎは行われていません。
 実は一つ前の9章において、サウルはサムエルからすでに油注ぎを受けていたのです。9章は サウルがはぐれてしまった数頭のろばを探しに出かけるところから始まります。ろばについて尋ねるために、サウルは神の人と呼ばれていたサムエルのもとにやってきます。サウルがサムエルのもとを訪れたのは、偶然ではなく、主のご計画であるということが9章15-17節に記されています。
 「サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」サムエルがサウルに会うと、主は彼に告げられた。「わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する。
 この主の言葉にしたがって、10章1節で「サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注」いだのでした。この油注ぎの出来事はサウルとサムエルのたった二人きりで行われました。サムエルはサウルに油注いだ後に、サウルには三つのしるしが与えられると告げ、7節で「これらの しるしがあなたに降ったら、しようと思うことは何でもしなさい。神があなたと共におられるのです。」と言いました。10章9節には「サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。」と記されています。
 サウルに告げられたしるしの中で、最も重要なのは三つ目のしるしです。それは預言者の一団に出会い、サウル自身も預言する状態になり、別人のようになるというものでした。この出来事によって、「神の霊が彼に激しく下」ったのでした(10節)。
 これらの出来事の後に、すべての民の前で主の御意志によって、くじで王としてサウルが選ばれるという本日の聖書箇所が置かれているのです。サウルが王として召した出されるこれらの聖書箇所は、サウルが徹頭徹尾主によって選ばれたものであることを示しています。
 サウル自身が王になりたいなどと願って、王になったわけではないということは、聖書においてはっきりと記されています。それはサウルがサムエルに出会い、全イスラエルの期待が彼にかかっていると言われたときに、「わたしはイスラエルで最も小さな部族ベニヤミンの者ですし、そのベニヤミンでも最小の一族の者です。どんな理由でわたしにそのようなことを言われるのですか。」(9章21節)と答えたことや、本日の聖書箇所において、サウルがくじで選び だされたのにも関わらず、彼が荷物の間に隠れていたことからも明らかです。
 この話は9章でサウルによって探され、見つけられたろばの話を私たちに思い起こさせます。ろばを探していたサウルが、ここでは民によって探し出され、見つけ出されるのです。見つけ出され、民の真ん中に立たされたサウルはイスラエルの民の誰よりも肩から上の分だけ背が高かったと23節には記されています。続く24節でサムエルは民全体に「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。」と言いますが、このことは主が最も良い人を王として選ばれたということを示しています。
 私たちはイスラエルがまことの王である主なる神様を退けて、王を求めたのにも関わらず、主ご自身が王として最良の人、サウルを立ててくださったということに驚かされます。サウルを選び、彼を王として立てたのは、他の誰でもなく主ご自身です。聖書はそのことをはっきりと記しています。主がサウルを王として立てたのは9章16節で「この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」と記されているように、神の民イスラエルのためなのです。イスラエルの民がまことの王である主なる神様を 捨てて、王を願う姿とは対照的に、主はイスラエルをお見捨てにはなられないのです。主はイスラエルの民の声を聞いてくださるのです。民が王制に対する主の警告の言葉を聞き従わなかったのにもかかわらず、主は民の叫びを聞き、今、サウルを王として立てられるのです。
 しかし、10章26-27節は、この神が立ててくださった王サウルに対して、すべての民が従ったわけではないと言うことを伝えています。「こんな男に我々が救えるか」というならず者たちの言葉は、王サウルのこれからの人生を示唆しているかのようにも思えます。確かにサウルは後に王として相応しくない振る舞いをし、新しい王ダビデが立てられることになります。そして、このダビデの系図からイエス・キリスト、まことの王がお生まれになるのです。
 主が警告されていた通り、王制はイスラエルの民を苦しめ、民を王の奴隷にするものでしかなかったということは、旧約聖書に記されているイスラエルの歴史から明らかにされていま す。しかし、主なる神様は、自業自得としか言いようのないこのイスラエルの民の苦しみを見て、救い主、まことの王、イエス・キリストを与えてくださるのです。主の愛はまことに驚くべき愛です。主なる神様の愛がどれほど偉大であり、私たちには計り知ることができないものであるかということを改めて思わされます。どうかこの主なる神様の大いなる愛に感謝し、応答する者として、皆様と共に歩んで参りたいと願います。