実を結ぶ時が来る
説教集
更新日:2023年01月25日
2023年1月29日(日)公現後第4主日 銀座教会 主日礼拝 牧師 髙橋 潤
詩編1編1~6節
1 いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず
2 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。
3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
5 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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1月最後の主日を迎えました。今週の水曜日から 2月に入ります。そして 2月 22 日水曜日は「灰の水曜日」、受難節(レント)に入ります。クリスマスから公現日へ導かれ、公に姿を現した主イエス・キリストが私たちの罪を背負って、十字架への道を進みます。私たちは、主イエスの背中を見つめながら従います。
受難節を前にして、本日与えられた聖書の御言葉は旧約聖書詩編の扉といえる第一編の御言葉です。詩編第一編の最初の言葉、「いかに幸いなことか」は、ほとんどの翻訳が「幸い」と訳していますが、左近淑先生は「うらやましいのは」と訳しました。この言葉のヘブライ語「アシュレ」を辞典で調べると、幸いなるかなという意味とともに、「不意の発生、不意の叫び、思わず出る感嘆の言葉」と説明されています。私たちが、思わず口から出る、感心したり、嘆いたりする言葉です。詩人は、神さまに対して「アシュレ」というのではなく、隣人を見て「アシュレ」という感情を与えられているのです。左近淑先生が「うらやましいのは」と訳した理由は、「ある論文によれば、この語は『祝福され、恵まれている』という似た語とは違って、他の人に対するうらやましい気持ちを表す語といわれる。この語は旧約では詩篇や箴言に多く用いられているが、神に対して用いられることはなく、神の戒めを守って生きる人に語りかける場合が多い」と説明しています。
左近先生が言わんとしているのは、詩人が皆さんお聞き下さいというような教師として語っているのではなく、この詩人が日常生活の中で隣にいる立派な信仰者を見て、このひとは神に愛されている人だな、いいな、と思った瞬間、笑顔が与えられ「アシュレ」と思わず口にしているということではないかと思います。「うらやましいのは」という日本語は、その相手が自分より恵まれているように見えて、憎らしく思われたりねたましいという感情として受け取られることもありますが、左近先生はそういう意味ではなく、自分より恵まれている人を見て、自分もそうありたいと願うという意味で素直に「うらやましい」と受け止めています。国語辞典では、「うらやましい」の説明として、「ねたましい」とは別に、「他人のようす、状態などが自分よりすぐれているように見えて、そうありたいと願われる」と説明されています。この意味で理解すると、詩編第一編の詩人は、そばにいる隣人が神に愛されて、罪を赦されて、生きているのを目の当たりにして、自分より恵まれているように見えて、そうありたいと願う思いでこの詩を書いていると理解できます。そうすると、この詩人は、これから神さまに従う道を歩きたいと、主の導きを与えられている瞬間を生きていることになります。これまで見てきた「神に逆らう者の道は滅びに至る」ことをよく知っている詩人が、神に従う道を隣人によって示され、信仰の道へ歩み出そうとしているのです。神を仰ぐ方へ導かれようとしている、その入り口に詩人は立っています。神の招きに応えてようとしている詩人の言葉として読みたいと思います。
詩人は「うらやましい」という感情の中で、自分自身の心の貧しさ、自分自身の闇を見ているのです。その上で、素直に願うのです。そして、神に祈り歌いはじめます。左近訳の詩編第一編を紹介します。
1うらやましいのは 悪い人の誘いに乗らず、
罪人の生き方をまねず、 傲慢な人間の仲間にならず、
2ヤーウェの教えを慕い、 昼も夜も口ずさむ人。
3そういう人は 流れのほとりに植えられた木が
時期(とき)が来ると実を結び、葉もしおれぬように、
何をしても、みなうまくいく。
4 神の教えに逆らう人はその逆。
風に吹き飛ぶもみがら。
5 だから 神のさばきに耐えられず、
その教えを守る者の集いに、いられない。
6 教えを守る者の歩みはヤーウェに守られ、
それに逆らう者の歩みは滅びにいたる。
私たちはこの詩人が聖人ではなく、清く正しい道だけを歩んできた人ではないことを読み取ることができます。詩人は悪人の巧みな誘惑の恐ろしさを知っています。罪人の生き方を知っているからこそ「罪人の生き方をまねず」とか「傲慢な人間の仲間」であった昨日を思い出しながら歌うのです。
2節の「ヤーウェ」とは、ヘブライ語の聖なる四文字を発音した神の名前です。神の教えという意味で聖書と理解してよいと思います。「ヤーウェの教え」を「慕う」とは、聖書を通して神の言葉を慕い求め、喜ぶという意味です。「口ずさむ」とは、低い声でわずかに唇を動かして朗読するさまを表現しています。今、詩人は聖書を読み始め、聖書を読むことの喜びを味わいはじめ、真剣に生きているのです。
教会ではこのような人を求道者と呼んでいます。主イエス・キリストの救いを求めている人です。教会の集会に入る前に、救いを求めて神の御前に出ている姿がここにあると思います。詩人は、礼拝に来て、真剣に礼拝にあずかり、讃美歌を歌って祈る 隣の人を見て、そういう人が素直にうらやましいと思えるように導かれているです。4節で「神の教えに逆らう人はその逆」と言い切る詩人は、神の教えに逆らう人がどういう人であるかを自分自身の経験を含めて、反面教師をよく知っているのです。神に逆らう自分自身が「風に吹き飛ぶもみがら」であることを誰よりも理解しているのです。そして、自分自身が神のさばきに耐えられないことも、信仰者の集いにいられない思いもよく知っているのです。しかし、詩人はヤーウェに守られる道があることを御言葉を口ずさみながら知りました。この詩人は決して上から目線でこの詩編を祈り歌っているのではなく、下から、救いを求めて、神さまとの出会いまで導かれて祈り歌っているのです。左近訳を通して、詩人の心がこのように理解できるのではないでしょうか。詩人は自分自身が歩んできた人生を背負いながら、教会の門の前に立ちつくし、一歩足を踏み入れ、祈る人々の交わりに加えられているのです。
今日、はじめて礼拝に来られた方、この詩人の心を理解できるのではないでしょうか。銀座教会にて求道生活を進めてください。これから洗礼を受けるために準備している方々があります。最も大切な準備は教会の交わりに加わることです。その第1 は一緒に礼拝に出席し、祈ることです。教会生活を通して、洗礼準備を進めましょう。すでに洗礼を受けて、教会生活、信仰生活を重ねている方々は、もう一度洗礼は受けることはできませんが、求道中の姿勢を思い起こし、上から目線ではなく、神の御前にへりくだり、御言葉を口ずさむこと、自らが軽いもみがらのように風にふきとばされてしまう存在であることを自覚して、御言葉を口ずさんでください。
神の言葉によって生かされるということは、一人で頑張って黙々と聖書を読むことではありません。教会の交わりの中で、一緒に聖書を読むということです。そこで、神さまとの交わりが与えられます。神さまの愛の言葉が心に届けられます。
左近訳3節「時期(とき)が来ると実を結び」とあるように、御言葉を口ずさむ人 は、「実を結ぶ」のです。「時期がくると」は、旧約聖書では12回用いられている言 葉です。そのほとんどは農作物、天体の運行といった自然界の法則に関する時を指し て用いられています。しかし、コヘレトの言葉 3 章では神さまのなさるすべてのわざを表現するときに用いられています。詩人は人間の力で変えたり、支配することの出来ない自然の力の更にむこうに神の御支配があることを察しています。詩人は、神が備えてくれる実を結ぶ時を信頼しています。実を結ぶときを望み見ています。御言葉を口ずさみ、御言葉を喜び、救いを求めている詩人は、時が来ると、必ず実を結ぶことを待望しているのです。受難節の備えとして初心に帰り、一同求道者として歩みましょう。祈ります。
天の父なる神さま。この世の誘惑から守られ、あなたのみ声を聞くことができ感謝いたします。あなたに背を向けて歩んできた道から、あなたの御言葉を口ずさむ者へと導かれ、御言葉を分かち合う交わりに加えられたことを感謝いたします。
実を結ぶときを待ち望みます。あなたの時を生きる者へとお導きください。 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン