救い主、その御名はイエス
説教集
更新日:2023年04月01日
2023年4月2日(日)受難節第6主日・棕櫚の主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花
ルカによる福音書23章39~47節
(39)十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではない か。自分自身と我々を救ってみろ。」(40)すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神を も恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。(41)我々は、自分のやったことの報いを受けて いるのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(42)そして、「イエ スよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。(43) するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言わ れた。(44)既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。(45)太陽 は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。(46)イエスは大声で叫ばれた。「父 よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(47)百人隊長はこの出 来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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今朝、私たちは神の御子、イエス・キリストが十字架へとつけられ、そして、十字架の上で息を引き取られるそのお姿を見つめています。本日の聖書箇所には、十字架につけられたイエス様のお言葉が二つ記されています。それは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、そして、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という二つのお言葉です。
四つの福音書を通して、私たちはイエス様が十字架の上で残されたお言葉を聞くことがゆるされていますが、イエス様が十字架の上で残されたお言葉は全部で七つあります。本日共にお読みしているルカによる福音書には、七つの内三つのお言葉が記されています。ルカが記しているもうひとつのお言葉は、イエス様が二人の犯罪人と共に十字架につけられた時に言われた23章34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という主なる神様への嘆願、祈りのお言葉です。イエス様はこの祈りのお言葉を、御自分を罵り、嘲り、十字架へと今まさに御自分をかけ、そして、このような祈りを聞いても悔い改めることなく、あざ笑い、さらに罪に罪を重ねてイエス様の服までをも分け合う人々のために、また、今この聖書の御言葉を聞いている私たちのために祈ってくださいました。
イエス様のご生涯を、そして、ご受難の姿をずっとご覧になっていた父なる神様は、愛すべき独り子イエス様をこのように扱う人々に対して、怒りを露わにして彼らをことごとく打ち滅ぼすことなど簡単にできたことでしょう。また、主なる神様は、私たちすべての罪人を救おうという救いのご計画を取りやめることもできたはずです。しかし、主なる神様は、イエス様が十字架という苦しみの最中においても、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という執り成しの祈りをささげ、祈る姿をご覧になり、このイエス様の執り成しの祈りを聞いて、救いのご計画を取りやめることなく、苦しまれるイエス様を最後まで見つめていてくださったのです。
ですが、主なる神様がその御手を差しのばさなければ、イエス様に待っているのは十字架による死です。神の御子、メシア、救い主が、そのような罪人として十字架で死を迎えるだなんて、誰も想像することなど、いや、受け入れることなどできなかったでしょう。それはイエス様に向かってユダヤ人の指導者たちが「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(23章35節)と言っていたことからも明らかです。彼らが考えていた神によって選ばれたメシアとは、力や威厳があり、敵と戦うメシアであって、罪から人々 を救うために苦しまれる苦難のメシアではなかったのです。
しかし、イエス様こそが主なる神様によって選ばれたお方であるということは、すでにルカによる福音書で、イエス様のお姿が変わる9章35節で「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と雲の中から主なる神様が告げているとおりです。まことにイエス様は、イザヤ書53章12節に描かれている苦難の僕のように、自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられ、そして、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしてくださるのです。
このように、十字架につけられてもなお、執り成しの祈りをささげ、この執り成しを成就するために無実であるにもかかわらず、苦しまれるイエス様の姿をすぐ隣で見ていた二人の人がいました。それはイエス様と一緒に十字架へつけられ、そして、十字架による死を待つばかりとなった、死にゆく二人の犯罪人です。この十字架につけられた犯罪人の一人は、他の人々のようにイエス様を罵りました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(39節)と。彼の言っている救いとは、この十字架の死という、今まさにイエス様と彼ら犯罪人に迫っている死からの救いです。「メシアならこの十字架から降ろしてみろ」、と彼は罵りますが、彼はイエス様ならできるはずだ、と思って言っているのではありません。むしろ、できないだろうと思って、このように言っているのです。他の人々のように、彼も十字架につけられたイエス様を、メシアとして信じ、受け入れることはできなかったのです。
しかし、罵り、イエス様をメシアとして受け入れることができないこの犯罪人に対して、もう一人の犯罪人は「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(40-41 節)とたしなめました。このもう一人の犯罪人は、自分は罪人として裁きを受けて当然の存在である、ということを認めていました。ですから、もう一人の犯罪人とは違って、イエス様に対して、十字架の死からの救い、つまり、十字架から降ろせ、と求めたりはしないのです。さらに、彼は報いとして十字架の死、裁きを犯罪人である自分たちが与えられることは当然のことと受け入れる一方で、何にも罪を犯していないイエス様が十字架という刑罰を受けられていることを不当なことと見なしています。
きっと、この犯罪人はイエス様が罪がないのにも関わらず、十字架へとかけられてもなお、 「父よ、彼らをお赦しください。」と執り成し、主なる神様へ祈る姿を見て、この方こそ、まことに選ばれた方、メシアであると確信したのでしょう。それゆえに、彼は42節で「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うのです。
彼は確かに犯罪人です。あの罵ったもう一人の犯罪人となんら違いはありません。しかし、彼はこの十字架でイエス様と出会い、悔い改めた罪人へと変えられたのです。それゆえに、彼は十字架の苦しみの中、力を振り絞って、自分を、また、すべての人を救う力があるこの救い主の名前を呼ぶのです。だからこそ、彼は「イエスよ」と呼び、そして、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願い、信仰を告白するのです。
私たちはここで、この犯罪人が十字架の上で呼んだ、「イエスよ」という名がマリアが身ごもった際に天使から「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1 章21節)と告げられていた、そのような名前であるということを思い出したいのです。イエス、それは「主は助ける、主は救い」という意味を持ち、自分の民を罪から救うことがおできになるお方、まことの救い主の御名です。このような御名を持ったお方が、死を前にして信仰を告白し、祈る犯罪人に対して、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ 23 章 43 節)と、宣言されるのです。
「はっきり言っておく」、ギリシャ語では、アーメンという言葉です。ですから、「アーメン、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエス様はこの犯罪人におっしゃったのです。そして、この犯罪人は、死後、将来の話をしていたのでしょうが、驚くべきことにイエス様は、「今日」と言うのです。この「今日」という言葉は、ルカによる福音書においては重要な言葉です。この言葉は2章11節で羊飼いたちに向かって天使が告げた言葉「今日ダビデの町 で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、メシアである」という言葉の中で用いられています。イエス様の誕生によってはじめられた「今日」が、この十字架においても語られているのです。つまり、神の支配が、救いが、今すでに、ここでも始まっているのです。このような慰めの言葉が、神の御子を十字架にかけるという、人間の罪が最も露わにされている中で明らかにされているのです。ここには、この十字架の死が目前に迫っている時でも、宣教をし続けてくださった私たちの救い主のお姿がはっきりと示されているのです。
さらに私たちは本日の聖書箇所から、救い主イエス・キリストが十字架で苦しまれた時、全地が暗くなり、日食でもないのに、太陽が光を失ったこと、また神殿の垂れ幕が人の手によるのではなくて、真ん中から裂けたという奇跡をも目撃しています。救い主イエス・キリストの十字架の死は、ユダヤ人だけではなく、全地に影響を及ぼすものであるということが全地が暗くなり、太陽が光を失ったことから明らかにされています。そして、神殿の垂れ幕が裂けたということは、イエス様の死を通して、ユダヤ人も異邦人も関係なく、すべての者が神の民となる新しい道が開かれたことを意味し、新しい契約がイエス様によって立てられたことを意味しています。
このような全世界に及ぶ奇跡がおき、ご自分の死によって、新しい契約が立てられるというしるしが明らかにされた時、イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46 節)。こう言ってイエス様は息を引き取られたのです。
このように、イエス様は最後に、ご自分の魂を、すべてを主なる神様に委ねられました。まことに、十字架の死に至るまで従順な神の御子、救い主の死を、私たちは今、目撃しているのです。そして、このような驚くべき出来事を見たとき、人は黙ってはいられないのです。それは47節に「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美する百人隊長の姿が記されているとおりです。この百人隊長は異邦人でありながらも、十字架につけられたイエス・キリストが、まことに正しい人、メシアであることを知りました。彼は十字架刑を執行するためにそこにいたのですから、これらの奇跡だけではなく、十字架の上でイエス様が言われたお言葉を聞き、主なる神様に執り成しをされるお姿も、また、最後には主なる神様を信頼して、ご自身をすべてお委ねするその姿を一部始終目撃していたはずです。それゆえに、百人隊長は、神を賛美し、信仰を告白せずにはいられなかったのでしょう。
私たちもこの百人隊長と同じように、この十字架でのイエス・キリストのお姿を今日、目撃したのです。まことに主イエス・キリストこそが、神の御子であり、神に選ばれた、正しい人、罪からの救い主であることを十字架の主のお姿から知ったのです。十字架の上においても、敵を愛され、執り成しの祈りをささげ、また、死を目前にしても宣教された主イエス・キリストの姿を私たちも目撃したのです。ですから私たちを罪から救うために、十字架の死に至るまで従順であられた救い主の姿を深く覚えながら、今日から始まる受難週の時、十字架の主イエスの姿を見つめつつ、この主にのみ従い、神を賛美しながら歩んで参りたいと願います。