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銀座の鐘

新生と生きた希望

説教集

更新日:2023年06月16日

2023年6月18日(日)聖霊降臨後第3主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一1章3~5節

 人間は生まれ変わったり、新しく生まれることができるでしょうか。普通に考えれば、そのようなことはあり得ないと誰もが思っていると思います。しかし通常な らあり得ないと思っていること、新しく生まれる、あるいは生まれ変わることが切実な願いになることはあるものです。救いを求めるということは、そういうことではないでしょうか。新しく生まれることを願い、生まれ変わることを渇望するのは、このままの古い自分の人生ではやっていけないからです。そういう苦しく、つらい時があるものまたごく普通の人生ではないでしょうか。今このままの自分では生きる意味がない、安心がない、まして喜びは何もない。そういう人生の思いはけっしてめずらしいものではないと思います。平安がない人生はしばしばではないでしょうか。そういう時にこそ、私たちは救いを必要としています。
 そのとき救いというのは何でしょうか。人間にとって本当の救いを与える福音とは何でしょうか。それは私たちを生まれ変わらせるもの、新しく生まれさせるもの と言ってよいと思うのです。主イエスのもとに人目を忍んで夜、訪ねて来た老人ニコデモもそういう問題を抱えていた一人だと思います。そのニコデモに主イエスは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。そして「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とも語ったと言われます。主イエスが与えてくださる救いは、新たに生まれさせ、そうすることでその救いに入ることができるものでした。
 ペトロの手紙は、今朝の箇所から本文に入ります。そして本文に入るや直ちにこの手紙が全体として語ろうとしている重大な福音を語り出します。それが 3 節に記された「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださいました」という福音です。神が新たに生まれさせえくださったというのは、新しい生で「新生」とも言われます。新しい命ですから、当然、死んだ状態から命へ、無意味な状態から意味ある人生へと移されたことです。それはないものから有る者へと移されたのと同じで、神の創造の力によらなければならなかったでしょう。しかしその創造の力は、同時に神の憐みによって、赦しとして、恵みとして罪や悪の状態から命と救いに生き返らします。それで新生は、とりわけ神の憐みによることが言われています。「豊かな憐み」とあるのは、沢山の憐みと書かれています。神の大きな憐みによって私たちは生き返らされたのです。このことは手紙の書き手とされるペトロ自身が、誰よりも深く経験した救いだったでしょう。彼は神の憐みによって罪の悲惨な状態から生き返らされ、「岩」のように確かな信仰の人にされました。私たちも新しく生かされたのは、同じ憐みによったのです。
 キリスト者の信仰生活は、神の大きな憐みによって新たに生まれ変わらされた生活です。そのことを「新生」と言うと申しました。また時には「再生」とも言われ ます。Born again したと言われます。そのようにして「新たに生まれた」のは、信仰の生活のことですが、それが本当の命に生かされた人生なのです。
 神の憐みによって「新たに生まれさせられた」という文章は、ここでは「一回的な行為」を示す動詞で記されています。それで具体的に書かれてはいないのです が、生涯一度の洗礼と結び合わされてここに記されていると解釈されます。「新たに生まれる」のは、ただ心でそう思うだけでなく、神の憐みを表わす主イエス・キリストに洗礼によって結ばれ、主のものとさえながら私たちの身に起こります。主イエスがニコデモに語った「だれでも水と霊とによって生まれなければ」という言葉も水と聖霊による洗礼を語っていました。洗礼によって主イエス・キリストの死と共に古い自分に死んだのです。そのとき神の大きな憐みによって主のものされて、本当に生きる者とされました。
  本当に生きる者とされたことは、新しい命が何のためかということによって分かります。それは、本当に生きるためですが、そのことは「生き生きとした希望を与えられている」ことで分かります。本当に生きるということは、生きた希望、生き 生きした希望を持って生きることでしょう。何の望みもなくいるのであれば、本当には生きていないとことにならないでしょうか。生き生きした希望をもって人は本当に生きます。ということは、生き生きした希望というのは、どんな時にも人を生かす希望です。
 希望はそれが潰えた時、それに一切を賭けてきた人を絶望に陥れ、破滅させま す。だからはじめから希望を持たない方がいいという人生観、人生諦めが肝心だと言う人生哲学もあるわけです。アウシュヴィッツの収容所の中で、連合国による解放の日が近い、この地獄のような収容所の生活からもうすぐ救出される、そういう噂が広まるときがあったと言われます。人々はその噂に希望をかけ、生きる意味や気力の一切をそこにかけます。しかしその噂にあった当のその日が来ても何も起こらず、虚しく過ぎ去っえしまう。そのときみずから命を絶つ人も含めて死ぬ人の数が激増したと言われます。希望が失望に転落したとき、生きる力が喪われます。ですから、生き生きした希望がある、人を生かす希望があるなら、それは決して失望に転ずることのない希望でなければなりません。
 その希望が「死者の中からの主イエス・キリストの復活」によって与えられると言われます。復活の主キリストを心の中で主とあがめます。そのとき、生き生きと 湧く希望があると言うのです。それは主イエスを死者の中から起こした生ける神が憐みの神であり、その憐みによって私たちを新たに生かし、主の復活によって生き生きとした希望に生かしてくださるということです。生ける神にかけた希望、復活の主イエスに基づく希望は、どんな試練の重圧のもとでも失われることのない希望です。生ける神にかけ、主イエスの復活に基づく希望は、死を越えた希望です。ペトロをはじめ主の弟子たちの初代の教会は、神の大きな憐みにより、イエス・キリストの復活によって新しく生き返らされ、そして復活の主イエスによって生き生きとした希望に生かされました。主イエスを見捨てた者たちも、復活の主イエスとともに死を越えた命に生かされます。臆病や不誠実、そして裏切りの行為も主にあって赦されたのです。再生の命は、主に愛されることによって主を愛し、主と共に生きる新しい生です。主にあって新たに生き返らされたのは、復活の主イエスと共に生き生きした希望に生きるためです。
 その中身、希望の内容も語られています。新たに生まれさせられた者たちが持っている生ける希望、命を与える希望とは何でしゅうか。ペトロはそれは天に蓄えられている財産だと言います。朽ちず、汚れず、しぼむことのない財産にあずかって いると言います。「財産」という言葉は「遺産」とも訳せる言葉です。地上にあるどんなすばらしい遺産も、結局、朽ち果て、汚れ、しぼむでしょう。しかしそうでない天に蓄えられている遺産があると言います。それを相続します。「新たに生まれさせられた人」は「遺産」を継ぐ。なぜでしょうか。理由は明らかです。遺産を継ぐのは子たちです。神の財産であれば、それを継ぐのは神の子たちです。そして「新たに生まれさせられた人」とはまさしく「神の子」とされている人のことです。神の憐みにより、主イエス・キリストの復活によって、新たに生かされた人は、「神の子とされた」にほかなりません。ですから、そこでの希望は神の「遺産」を継ぐことで、そしてその遺産はいますでに「天に蓄えられている神の財産」です。朽ちるものではありません。汚れるものでも、しぼむものでもありません。それは「楽園」を思わせる財産です。天に蓄えられており、それが終りの時に現わされます。天に蓄えられている楽園が地上に降りて来ます。新しい天と新しい地が天から下って来るように、生き生きした希望の対象である遺産は、楽園であり、神の国です。その到来の希望にいますでに生かされています。
 それが「終わりの時に現わされるように準備されている救い」と言い換えられていることもよく分かるのではないでしょうか。水と霊による新生はもうすでに救いなのですが、そしてすでに神の国にあずかっているのですが、「終りの時に現わさ れるように準備されている救い」がなおあるのです。新たに生まれさせられた私たちキリスト者は、神の遺産を継ぎ、すでに準備された御国が現れるとき、その中に入ります。その全き救いを受ける希望を、今すでに、生き生きと抱いています。

 天の父なる神様。あなたの豊かな憐みと主イエス・キリストの復活によって、新たに生まれさせられ、生き生きとした希望を与えられておりますことを感謝いたし ます。あなたが与えて下さった再生の命に生きる確かさを、この礼拝の中で、また御言葉をとおして確かなものにしていただいたことを感謝します。生きる意味や張り合いを失いかけている人々がおりましたならば、どうぞもう一度神の子とされた希望に生きられますように導いてください。教会が生きた希望にある群れとして、あなたの大きな憐みと、主イエス・キリストの死者の中からの復活を伝え、多くの人々がまことの命と希望に生かされるために用いられることができますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。