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銀座の鐘

イエス・キリストを信じる

説教集

更新日:2023年07月03日

2023年7月2日(日)聖霊降臨後第五主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

ヨハネによる福音書1章14~18節

 本日与えられた主題は「使徒信条」の第二項イエス・キリストを信じる信仰です。使徒信条の文章では「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」です。
 キリスト教の教会は、主イエスこそが、私たちの救い主(キリスト)であると信じる信仰によって集まっています。しかし、このイエスはキリストという、私たちにとって当然と思える信仰は、当然のこととして理解されるまで、厳しい戦いや論争がありました。特に使徒信条の原型が生まれる2世紀から4世紀の古代教会において、イエスこそキリスト(救い主)であると一斉に声を合わせて、讃美し告白することは困難だったのです。しかし、使徒信条が成立していく道のりにおいて、くり返された論争において、イエスはキリストであること、すなわち主イエスは真の神であり真の人であるという信仰が大切であることが分かったのです。この信仰告白こそが、教会を教会とするための力であることが証明されました。
 イエスはキリストであることに対する批判の一つは、イエスは神であるけれども人間の姿であるのは見せかけに過ぎないという主張でした。主イエスの人間性を否定する人々がいたのです。彼らは、主イエスが人として誕生し、伝道し、十字架上で息を引き取ったのは、人間の目でそのように見えただけであったのだと主張しました。このような主イエスの人間性を否定する理解は、主イエスは神であって人間ではないという理解で一見大変分かりやすいし受け入れやすかったのです。しかし、主イエスの人間性を否定すると、主イエスが伝道を開始したことも愛の業を行ったことも、十字架上で苦しみ死んだことも見せかけになってしまい、犠牲の死を引き受けたことも無意味なことになってしまいます。主イエスの人間性の否定は、主イエスの救いの御業の根拠が失われてしまうことになるのです。この主張は、主イエスは人間ではないといいながら、神であることの本質も否定することになってしまうのです。
 古代教会において、イエス・キリストに対するもう一つの主張がありました。この主張は、主イエスはたぐいまれな罪のない人間であったと理解します。罪なき人だったから、人間イエスは神の養子に選ばれて、人間イエスが神になったのだと主張しました。主イエス・キリストは本当は神ではなく特別な人間だったと理解しました。この主張では、人間は場合によって神になれるということになります。そして、主イエスの人間性も神性もよく分からないことになってしまいます。人間が神になったのだという危険な主張に古代の教会はさらされました。
 このような、主イエス・キリストは神であるけれど人間ではないとか、主イエス・キリストは人間であったけれども神になったという主張に対して、教会は、「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信じる」と告白して、戦い続けてきたのです。この信仰の戦いの最大の武器が使徒信条でした。使徒信条において「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白することこそ教会の力であることを経験してきたのです。
 主イエスは父なる神の独り子であると告白することで、主イエスを単なる神だとしたり人間だとしたりする主張は長い戦いの末、異端とされ去って行くことになりました。主イエス・キリストは真の神であり真の人であることによってのみ、主イエスが神の独り子であり、救い主であると信じる信仰がいよいよ光り輝いているのです。
 現在、キリスト教会において、古代の教会のような厳しい挑戦はないように見えます。すでに使徒信条によって信仰が整えられたことが明らかになってきたからです。しかし、いつの時代にも、様々な仕方で人間イエスだけを強調して、真の神であることや罪の赦し神の贖いを語らないとしたら古代教会の異端と変わらないことになります。人間イエスだけを強調し、苦しみだけの連帯が教会であるという人があります。これも使徒信条からかけ離れた教会になってしまいます。教会は信仰共同体であることに土台があることを確認し、変わった教えには注意しなければなりません。
 主イエスが真の神であり真の人であることを使徒信条によって耐えず告白することが信 仰を守るための最大の力になります。また使徒信条を告白することは、聖書の御言葉を正しく読むことにつながり、聖書の信仰を正しく受け継ぐためにも大切であることを確認しなければなりません。
 本日与えられた御言葉は「14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」です。
 「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という御言葉は、主イエスは見せかけの人であるに過ぎないという主張を明確に否定しています。主イエスは肉となってということは、主イエスが人間となったということです。特別な人間が神になったという主張も同時に否定します。神が人になったのです。「父の独り子としての栄光」という御言葉 によって、神は父子聖霊なる三位一体であることが聖書の教えです。聖書と使徒信条を通 して「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と告白する信仰が輝き、力 を発揮するのです。
 イエス・キリストをゆがんで理解すると、聖書の言葉をそのまま読むことが出来なくなってしまいます。挙げ句の果てには、聖書そのものまで否定したり訂正しなければならないことになります。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神は三位一体の神であり、聖書を正典として読み、信仰を正しく告白することによって、私たちを取り巻く様々な落とし穴から守られ、信仰を告白していくのです。
 主イエスはキリストですと告白するということは、神の独り子主イエスが人となってくださり、十字架にかかり、ご自身を「全き犠牲」として神にささげたということを信じる 信仰が明らかにされることです。主イエスがキリストであると告白することによって、私 たちの救いの道が開かれるのです。私たちが救われているということは、「罪の購い」を信じる信仰によってのみ明らかにされます。使徒信条によって信仰を告白することは、主イエス・キリストが私たち人間を神との正しい関係に導き入れ、神との和解を与えてくださったことを感謝し賛美し、喜ぶ出来事です。
 私たちは罪人であり、自分で自分の罪をどうすることもできない者です。そのような罪の中にあった私たちは、主イエス・キリストによって神との新しい関わりの中におかれるのです。「購い」というのは、人手に渡ったものを買い戻すことです。聖書で「購い」は、神に属するものを高い値を支払って回復し解放することです。
 イザヤ書 43 章 3~5 節「わたしは主、あなたの神/イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし/クシュとセバをあなたの代償とする。4 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。5 恐れるな、わたしはあなたと共にいる。わたしは東からあなたの子孫を連れ帰り/西からあなたを集める。」
 預言者イザヤが救い主なる神の購いについて語っています。神はイスラエルの神の民を高い値をもって解放するのです。その根拠は私たちが神を信じたからではなく、神が私たちを愛してくださるからです。私たちの目には自分自身がどんな風に見えていても、神の眼差しは、4 節「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」と神の愛による選びと恵みが出発点であり私たちの思いや行いよりも先行しているのです。神の愛によって、独り子なる主イエス・キリストが血を流し、犠牲としてささげられ、私たちの罪が赦され、神との和解の道が開かれ、救いの出来事が実現し購われるのです。
 イエス・キリストは罪人である人間に代わって罪ある者とされて、罪人にふさわしい裁きを引き受けてくださったのです。私たちが受けるべき裁きを主イエスが代わりに引き受けてくださったのです。その結果として、私たちが救われたのです。子なる神が罪人である人間となってくださったのは、私たち罪人に代わって裁きを受けるためだったのです。
 罪のない主イエスが罪の中にある人間としての性質を取ってくださり、身代わりとなってくださったのです。このことは、クリスマスに主イエスを迎える時から思い起こさなければならない、信仰の大切な筋道なのです。
 16 わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
 主イエスは歴史を生きたユダヤ人です。神の国は近づいた悔い改めて福音を信じなさいと語りはじめ、弟子たちと共に方々を歩いて教え、愛の業をもって伝道しました。御言葉 を語り、病の中にある人々を癒やされました。神が人となってくださった主イエスは歴史上の人物として神を示したのです。キリスト教信仰は、神以外の被造物を信仰の対象にすることはありません。父のふところにいた独り子である神主イエスだけが神を示したのです。ナザレのイエスという具体的な人物が実は神がお遣わしくださった独り子イエス・キリストであり、そこに神の御意思と救いのご計画が実現し、「主イエスはキリスト」であると使徒信条をもって、私たちの救い主をほめたたえるのです。
 「我らの主」とはどういうことを意味しているのでしょうか。私たちがイエスを主と告白したから「我らの主」なのでしょうか。そうではないのです。使徒信条によれば、主イエスはキリストであり、神の独り子であるから「我らの主」なのです。私たちが主イエスを主とするかどうかにかかわりなく、それ以前に神の決意によって、更には主イエス・キリストの十字架と復活によって主イエスは「我らの主」であるのです。
 日本基督教団に属する私たちの教会は、使徒信条を誠実に告白する教会であり、共に心を一つにして「我らの主」こそ、私たちの救い主キリストであると大胆に告白し続けるのです。