聖なる公同の教会
説教集
更新日:2023年08月25日
20 23年8月27日(日)聖霊降臨後第13主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書16章13~20節
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行 ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子の ことを何者だと言 っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハ ネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言 者の 一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわた しを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」 と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バル ヨナ、あなたは幸いだ。 あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言 っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこ
れに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐこ とは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは 、天上でも解かれる。」20 それか ら、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように 、と単子たちに命じ られた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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使徒信条の一節「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信じるという信仰告白につ いて、聖書の御言葉から主の御心をお聞きしたいと思います。使徒信条によって数会を信じる、聖徒の交わりを信じるということは、どのように受け止めたらよいのでしょうか。私たちは本当に教会を信じているでしょうか。教会生活を通して、教会での対立や混乱を経験することがあります。牧師も役員も信徒もつまずきを与えることも受けることもあります。教会で熱心に奉仕をした結果、傷つくことがあります。期待が大きいだけに深刻な問題になります。教会でのいやな経験、耐えがたい経験によって、とうとう所属教会を変えざるを得ないこともあります。この世の悩み以上に魂を深く傷つけます。そのような深刻な実の中でも、私たちは教会を信じる信仰を失ってはならないのです。どうしてでしょうか。
信仰の対象である教会とは、旧約聖書の背景から新約聖書の教会へ、そして、現在の教会につながっていることを確認したいと思います。旧約聖書では、人々が「神の住まい」を求めました。しかし神は人が造られた住まいにはお住みにならないと語られました。サムエル記下7:5-6「わたしのダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。6 わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。」旧約聖書によって語られる神の住まいをめぐる問題は、神殿をめぐる問題としても現されてきました。新約聖書では、主イエスがエルサレムに入られて十字架刑に処せられる直前、神殿において「宮清め」を行いました。当時の神殿では、異邦人が礼拝する場所を 、商売人達が占領して異邦人が入れないようにされていました 。この庭を祈りの家とするために主イエスが商人たちを追い払うという宮清めをしました。主イエスの神殿批判があり、神の霊が神の民を「聖なる神殿」とすることをお示しになりました。主イエスは、神殿批判を通して、神殿の破壊と再建を語りました。「この男が、『わたしは 人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」(マルコ14章)主イエスは礼拝こそ、この世における神の臨在の場であり、神がおられることを示されたのです。ヨハネによる福音書4章 において、主イエスは異邦人であるサマリアの女性に語られました 。「23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 主イエスは、神は霊である、霊と真理をもって礼拝しなければならないと語られました。教会は聖霊の宮であるということです。新約聖書における教会は、ただ単に人間が集まっていれば教会なのではなく、聖霊の宮として集められているということなのです。教会の根拠は人間ではなく神なのです。神なき教会は教会ではないのです。コリントの信徒への手紙一3章「16あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。17神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」
新約聖書は私たちが神の神殿であること、神の霊が私たちのうちに住んでおられ ると語っているのです。キリストの体である教会は、聖霊の宮であり、神の神殿なのです。
エフェソの信徒への手紙2章「22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」この御言薬も覚えておきましょう。私たちが聖置なる神によって神の住まいとなるのです。聖霊なる神の働きを通して、神の住まいとされていることを心に刻みましょう。
聖霊なる神は、私たちにのぞんで信仰を与え、希望を与え、愛を与えるのです。聖霊は死者を生き返らせる再生の力を与えます。そして、聖霊は、絶えず祈る祈りの霊として私たちを祈る者にしてくださいます。聖霊は、神の御言葉への信頼を与え、伝道のカとなって働かれます。聖なる神は私たちの中に住まわれ、私たちを用いて要なる神殿として、伝道への力を与えるのです。聖霊の宮である教会は神の力が発揮される場なのです。
聖霊抜きで教会を評価したり、教会を理解することは出来ないと思います。もちろん、教会が混乱しているとき、躓きを与えてしまうときがあります。しかし、どんなに不完全な教会でも、教会である限り、聖霊なる神が働いておられるのです。そのことを使徒信条は、「聖なる公同の教会」と言い表しているのです。この「教会」は単数形で記されています。「聖なる公同の教会」というのは、「一つなる教会」という意味が込められています。この一つなる、聖霊の宮である一人一人が集まった教会を信じるのです。教会を信じるという信仰告白は、信仰者を信じることでもないし、混乱した教会の状態を信仰の対象としなさいということでもありません。私たちに信仰を与え、聖霊の宮としてくださった、聖霊なる神を信じるということなのです。
「聖なる教会」というのは、教会にあつまる一人一人が聖であるという意味ではなく、聖なるお方、神御自身が教会の根拠であるということを意味しています。「聖なる教会」は、数会に集まる人の声の大きい人の考えに従うのではなく、聖なる神の御心を求め、御心に従って、神の国を目指して、主なる神に従う教会です。教会は人間が造り出す物では ありません。民族や国家の許可によって成立したのでもありません。困難な時代だから生まれたのでもありません。教会は神が愛してくださり、神が造られ、神が呼び集め、神の赦しの言葉を与えられた集いです。教会は初めから終わりまで神のものです。
教会では礼拝が行われます。礼拝のない教会は教会ではあり得ません。教会の礼拝では聖礼典である洗礼式と聖餐式が行われます。洗礼式を通して、古い自分の死とキリストの命に生きます。罪の赦しを与えられて神のものとされます。洗礼を受けた者が聖餐のパンと杯を頂き、罪の赦しの恵みに生かされます。ここに聖なる教会があります。教会は聖なる教会として、神の言葉に従い続けます。
「公同の」というのは、普遍的という意味です。公同の教会は性別によってもあるいは職業によっても区別されません。人種、民族、地域、国民の違いによっても区別されたりしません。あらゆる差別を越えて普遍的に存在します。教会が普通的であるということは、人間は皆平等だからという理由によるのではありません。そうではなく、公同の教会は神 の愛と救いの力によって、包み込まれているからです。公同の教会というのは時間的にも空間的にもこの世の様々な隔てを越えて普遍的な広がりをもっているのです。
公同の数会は「聖徒の交わり」です。「聖徒」というのは、信仰者が聖人であるということではなく、私たちが「キリストのもの」とされているということです。私たち一人一人、いわゆる聖人ではありません。欠けた土の器にすぎません。しかし、キリストのものとされています。聖盤の働きによって、神の声を聞き、祈り、神を信じ 、礼拝する者とされています。これこそが「聖徒」なのです。教会は主イエスの言葉を聞いて生かされています。主イエスが子どもを受け入れたように私たちも子ども受け入れます。主イエスが病気の人の友となったように、主イエスに従います。主イエスが愛されたように私たちも主に従う道を歩みます。「聖徒の交わり」を信じるということは、私たちの包容力や広い愛によるのではなく、聖徒の交わりの中心に聖な る神が働いておられることを信じる信仰 です。「聖徒の変わり」は、「聖なるものとの交わり」と訳すことが出来るようです。聖霊なる神の働きの中で神との交わり、神に愛されているものとの交わりが聖徒の変わりです。
私たちは次週、9 月 3 日主日礼拝において聖餐に与ります。 主イエスのいのちをいただきます。聖餐は、主イエスの罪の放しが聖霊の働きによって、私たちの交わりを支えている神の国の祝宴です。次週行われる聖餐式には地上にいる私たちが与りますが、同時に神の祝宴ですから、すでに主のみもとに召された兄姉妹との交わりを思い起こす事でもあります。「聖徒の交わりを信じる」ということは、洗礼と聖餐を通して、十字架の主イエスの体と流された血という聖なるものに与ることを信じる信仰なのです。
マタイによる福音書16章には「教会」と記されています。主イエスの子ペトロが第 子たちを代表して信仰告白をしています。ペトロが信仰を告自することが出来たのは、天の父なる神が示してくださったからだと主イエスは言われました。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と語られました。
そして、続けて18節「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の 上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
シモン・ペトロの信仰告白は、主イエスの父なる神が現したことなのだということが大切です。そして、天の父なる神が現してくださった信仰告白によって、「わたし の教会」すなわち、神の教会が建てられるのです。神がお建てくださる聖徒の交わりは、「陰府のカ」も恐れることのない力を与えられているのです。復活の主を信じる私たちは、主イエスが時の力に勝利してくださったことを知っています。先に召されて天国におられるお一人お一人は、すでに復活の主の力と恵みに生かされています。私たちもこの死に勝利した復活の力によって、聖霊の働きによって、聖徒とされていることを覚えたいと思います。