生活を変えるようにとの呼びかけ
説教集
更新日:2023年10月22日
2023年10月22日(日)聖霊降臨後第21主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一 1章13~16節
13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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キリスト者というのは、愛の人、柔和な人と一般に思われているのではないでしょうか。それだけに、キリスト者の誰もが、そう生きられない自分を知って、信仰と生活のギャップを自覚しているのではないでしょうか。キリスト者とされながら、生活はキリスト者になりきっていない自分を感じている人は多いと思います。日本のプロテスタント・キリスト教の最初のリーダーたちも、信仰と生活との大きな隔たりを周囲に感じさせた話は色々残っています。例えば植村正久について、家禄 1500 石の旗本であったのが明治維新で没落して、野武士ようになってキリストに救われたと言われます。それでキリスト者と野武士が一人の人の中に同居しているようなところがあって、「どっちが本当のお父さんなの」と娘が母親に聞いたという話しが残されています。
信仰と生活のギャップは誰にも生じます。だからこそ聖書はキリスト者の生活のありようを語って、生活を変えよと呼びかけます。今朝の御言葉は、新しい生活生活としてとして終りの時に与えられる救いの恵みをひたすら待ち望む希望の生活であるように、また生活のすべての面にわたって聖なる者となるように呼びかけます。これは無理な呼びかけでしょうか。無理な呼びかけかそうでないかは、どういう根拠に基づいてその呼びかけがなされているかということによります。
キリスト信仰者にその生活の全面的変革が呼びかけられるのには、当然の理由があり、根拠があってのことです。この段落が「だから」という言葉から始まっているのはそのためです。「だから」というのは、「どうだから」と言っているのでしょうか。当然、前の文章で語られたことを受けています。ペトロの手紙一は、挨拶の後、最初の段落で「わたしたちは新たに生まれさせられました」と語りました。それは「神の憐みとイエス・キリストの復活」によってでした。それで「キリストを見たことはないのに愛し、今見なくも信じており、言葉では言い尽くせない喜びに満ち溢れています」と言われました。信仰の目標である魂の救いを受けているとも言われました。さらには今、わたしたちに告げ知らされている救いは、預言者たちも探求し、注意深く調べた救いであり、それだけでなく、わたしたちが今救いにあずかっている様子は、天から御使いたちが前のめりになって覗きたく願っているほどのものと語られました。「そういう救いに与っている」と言われて、今朝、「それだから」と言われるのです。
新しく生まれさせられ、キリストによる救いに与っている人は、新しい生活になるでしょう。その生活はイエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待ち望む希望の生活でしょう。そのようになりなさいと言うのです。イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みは、すでに今与っている救いの完成です。それは、天に蓄えられている財産を受けとることでもあり、神からの称賛と光栄と誉れを受け取ることでもあります。それを待ち望む希望の生活へとキリスト者の生活は変えられました。
希望の生活はまた「心を引き締め、身を慎んで」いる生活と語られます。「心を引き締め」という言葉は、文字通りには「腰」という言葉が入っていて、「あなたがたの心の腰に帯を締め」と言うのです。「心の腰」とは妙な表現ですが、「腰に帯びする」のは丈が長く、袖や幅も長い上着を身に纏って、それが絡みついたり、足もとにからまらないように腰で帯びをするわけです。特に旅に出る時、また労働を始める時にそうします。それらの準備は腰に帯びすることで完了します。エフェソの信徒への手紙では、戦いの中で神の武具として神の真理を腰の帯とするとありました。「心の腰に帯をする」というのは、自分の身のまわりを整えること、あのことも捨て、このことも捨てることだと言った人がいます。多くのことに引きずられていては、旅立つことも、戦うこともできないでしょう。希望をかけるべきことに希望をかけ、希望すべきでないことに心を引きずられるべきではありません。心を分散させないように「心の腰に帯びする」必要があります。
出エジプト記 12 章には、過越しの食事のことが記されています。エジプトをいよいよ脱出する夜、「腰に帯びして食べた」と記されています。「食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(出12・11)と記されています。「腰に帯びをする」のは、これから紅海を越え、荒野を越えて約束の地を目指して旅立つ準備です。この様子は毎年の過越祭で再現されました。
ペテロの手紙はすべてのキリスト者が各地に離散し、仮住まいしていることを知っています。地上の生活を旅人として歩んでいるのを知ってます。目標の地にある恵みは、イエス・キリストが現れるときの恵み、救いのまったき完成です。それを望み見て、希望の旅の準備をそなえよと呼びかけています。目指す目的地は他の多くのことを棄てて悔いない神の国です。そこに希望を向けて、身支度するのが信仰者の生き方と言われます。
「身を慎み」とも書いてあります。「身を慎む」は酔っぱらった酩酊状態でないことです。「酔生夢死」という言葉がありますが、酔っぱらって生きて夢の中で死ぬという表現で、ぶらぶらして無目標で一生を過ごすことでしょう。それを人生の理想にすることはキリスト教信仰にはありません。身を慎んでキリストと共に歩んで行くのが人生です。
新しい生活は、もう一つの呼びかけで語られます。それは「聖なる者となりなさい」です。「聖なる」というのは、神によって選別されて「神のもの」になることです。それには「召し出してくださった聖なる方」に倣うのだとあります。「召し出してくださった聖なる方」は神にほかなりませんから。「神に倣う」と言われているわけです。聖なる神に倣って、「あなたがた自身も生活のすべての面で聖なるものとなりなさい」と言うのです。とんでもない表現、驚くべき呼びかけではないでしょうか。一体、誰が神に倣うことができるでしょうか。ここには旧約聖書のレビ記に繰り返し記される言葉が引用されています。「なたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」という御言葉です。神は聖なる方です。このことが私たちの信仰生活の中でどれだけ身に着いているでしょうか。私たちは主イエス・キリストにあって神を愛である神、憐れみ深き神として仰ぎます。神が義にして慈しみの神であることも知っています。しかしそれだけでなく、神は主イエス・キリストにあって「聖なる神」です。神の愛も「聖なる愛」です。ただただ甘い愛の神ではありません。峻厳にして厳粛な聖なる愛の神です。とても神に倣えるものではありません。しかしその聖なる神に倣えと言われます。
欲望に引きずられることなくと言われ、従順な子としてと言われます。従順な子とは、わがまま勝手で傲慢な子でないということです。。やがて後の教会で、人間の罪や悪の典型的な姿が論じられるようになりました。罪の第一は「欲望」に引きずられること、「強欲」とか「貪欲」です。そして罪の第二は「高慢」とされました。それがここにすでに語られています。さらに典型的な罪をどう名指すか、ある人々は第三の罪として「怠惰」を揚げますし、他の人々は「虚偽」を挙げることもあります。現代人の罪の姿はどうでしょう。強欲や貪欲の罪は、いろいろな形を取って、ある時は賄賂や窃盗として、あるときは性的な不道徳として、個人を襲い、また集団を襲います。軍事的な侵略でも、民間人の入植でも貪欲が働くことが多いでしょう。貪欲によって悪がなされる時、他方でそれを制止すべきなのにその努力を怠る怠惰が生じ、言い逃れる虚偽が入り混じります。すべては神なしに生きようとする人間の高慢のなせる業と言えるでしょう。主イエス・キリストにある者たちには、生活の全面的切り替えが呼びかけられます。それが一言で「聖なる者となりなさい」、「神のもの」とされて、「神に倣いなさい」というのです。
どうしたらよいでしょうか。この手紙をもう少し先まで読み進みますと主イエスを模範とすることが記されています。聖なる方に倣うのは、神に倣うことですが、どうしていいか分からないことではなくて、主イエスに倣うことです。主イエスと共に生きて、主イエスに倣う。それは主イエス・キリストにあって神の救いに生かされ、聖なる者となる当然の歩み方です。主イエスと共に生きて、主イエスの模範に倣う人生は、身を慎んで希望に生きる道ですが、同時に聖なる者となる道でもあります。
聖なる天の父よ。御子主イエス・キリストにあって与えられた救いのゆえに御名を讃美します。今日は特に救いの完成に向けて心に帯びし、身を慎んで希望のうちに待つ生活をするようにと示されました。感謝します。また、あなたに倣って聖なる者となるようにとのみ旨を示され、あなたから遠く離れたわが身の現実を恥じる者であります。どうか主イエス・キリストと常に共にあって主の模範に倣うことができますよう、御霊の御導きをお与え下さいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。