主の晩餐
説教集
更新日:2024年03月09日
2024年3月10日(日)受難節第4主日 銀座教会 主日礼拝 副牧師 川村満
マタイによる福音書 26章26-30節
26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
聖書をもっと知りたければ・・・
» 一般財団法人日本聖書協会ホームページへ
1、 主が与えてくださる晩餐
今日お読みいたしました御言葉は、あの有名な「最後の晩餐」であります。ダ・ヴィンチが書いたあの絵画を知らない人はいないと思います。最も有名な聖書の一シーンとも言えるのではないでしょうか。しかし、新共同訳特有の聖書の見出しでは、最後の晩餐と記しておらず「主の晩餐」と記しております。ある牧師はこの新共同訳の見出しを、とても良い見出しだと評価しております。なぜなら、単に最後の晩餐なのではなく、主イエス御自身が弟子たちのために用意し、準備してくださった晩餐であるということが大切なのです。同じように、この晩餐を想起し、古代から守り続けておりますこの聖餐式。パンとぶどうの杯を通して表わされているイエス・キリストの体と血に与る聖餐式に招いてくださるのは、復活された主イエス御自身であられるということであります。主イエス御自身が、この聖餐の中に必ず、共におられる。聖霊を通して信じる私たちと共におられる。そして、今、わたしたちに、「取りなさい。わたしの血と肉を」と語りかけてくださる。それが恵みなのであります。
2、 契約の血
ところで主はここでこのように弟子たちに告げられます。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 」このマタイの言葉を聞くうえで、もうひとつ、旧約聖書の出エジプト記24章3節~8節を参照したいと思います。
「モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての方を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の意志の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」
ここには契約と言う言葉が頻繁に出てきます。聖書の信仰の大きな特徴の一つは、神と人間との間の契約であると言えます。神はイスラエルという国を、全世界の諸国から選び分ち、御自身と契約を為されました。神に従い、栄光を表わす民として祝福するという契約であります。旧約聖書とは古い契約。新約聖書とは新しい契約という意味です。古い契約の時代、神はモーセを通して、エジプト人の奴隷となっていたイスラエルを脱出させます。十戒という映画が昔ありましたが、その物語の中で、神は、イスラエルの民を出エジプトさせるためにエジプトの王ファラオに十の災いを与え、その最後の決定的な災いが初子の死でありました。滅ぼす者がエジプト中のあらゆる初子を討つときに、あらかじめ主が、鴨居に羊の血を塗った家々を過ぎ越し、災いから免れるという約束を為されました。その過越しを記念する祭りがイスラエルの過越しの祭であり、そういう過ぎ越しの食事の時に、主イエスは「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言って弟子たちにパンと杯を配られたのです。いわば御自身を過越しの羊になぞらえて、わたしこそがあなたたちの罪を贖うための犠牲となると言われたのであります。人間の罪を贖うためには、動物ではいけない。ましてや人間は罪に堕ちているので、誰も、自分も他人も贖うことができない。ただ、罪の汚れのない主イエスだけが、わたしたち罪人を贖うことができるのです。モーセを通して行われた神とイスラエルの民との間の契約は、動物の血が用いられましたが、動物の血には、人間の罪を贖う力などはなく、従って何度も動物をいけにえとしてささげる儀式をしなければなりません。主イエス・キリストが十字架において流してくださる血は、動物の血を通しての契約ではなく、わたしたちの罪を贖うための完全な力があります。この主イエスの十字架と復活の救い。罪の赦しと永遠の命を信じて、洗礼を通して私たち自身がキリストと一つとなる。それが新しい契約であります。
3、 神の愛への招きとしての洗礼と聖餐
そして聖餐にはいつもこの新しい契約の更新という意味があります。洗礼を通してイエス様と一つとなった私たちでありますけれども、日々、罪を犯し、心も霊も弱さの中にある。信仰と不信仰の間を行きかうような私たちであります。しかしそういう弱いわたしたちの歩みを神の恵みの土台の内に立たせてくださる。神の救いの契約の中に生かしてくださっている。それがわかるのは、聖餐なのであります。取りなさい!このわたしの血を。わたしがあなたのために十字架で流した血を。そしてわたしが十字架で裂かれた肉を。取りなさい。そして清くなりなさい。新しくなりなさい。私が苦しんだのは、あなたがたと共に喜ぶためなのだ。私が十字架にかかったのは、あなたがたが永遠に生きるためなのだ。この命を受け取りなさい。私が命がけでもぎ取った永遠の命を!!主イエスは聖餐を指し示し、いつもそう私たちに語りかけてくださっている。そうであるならば、このイエス・キリストを通して表わされた神様の深い愛を、受け入れない理由などどこにもないのではないでしょうか。取りなさい!そう言ってくださる主イエスの愛に応えて、キリストの命に与って行きたいのです。銀座教会に集う、主が招かれている全ての方々がその招きに答える日が来ますように。また、さまざまな事情にあって、礼拝に集うことのできない兄弟姉妹も、共に聖餐に与るときが与えられますように。
お祈りをいたします。
天の父なる御神。聖餐の意味を、確認させていただき心より感謝いたします。見えない神の御言葉を通して、見える神の御言葉である聖餐を通して、主イエスの確かな救いを私たちの心に刻んでくださいますことを感謝いたします。これからも聖餐を受ける中で、わたしたちの信仰。救われた喜びを確かにしてくださいますように。まだ洗礼をお受けになっておられず、聖餐に与ることを待ってもらっている方々を、祝福してください。あなたの救いを心から喜んで受け入れる時が来ますように。そしてそのような方々がますます豊かに与えられていきますように。さまざまな事情の中で、礼拝に集えず、聖餐の恵みに与ることのできない兄弟姉妹の上にも、主の恵みが豊かにありますように。今年も私たち銀座教会がこの聖餐における主の恵みの契約の群として立ち続けていくことができますように。この言い尽くしません感謝と願いを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン