銀座教会
GINZA CHURCH

銀座教会
GINZA CHURCH

  1. ホーム
  2. 銀座の鐘


銀座の鐘

「目を覚ましていなさい」

説教集

更新日:2025年02月22日

2025年2月23日(日)公現後第7主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書25章1~13節

 本日のみ言葉は、主イエスがお語りになった天の国のたとえの一つです。「十人のおとめ」のたとえという、見出しがついています。主イエスは天の国というのは、十人のおとめがともしびをもって花婿を迎え婚宴の席に入るというのです。口語訳聖書では五人は思慮深いおとめで五人は思慮の浅いおとめであったと記されています。賢いおとめは花婿を迎え婚宴の席に入ることが出来ましたが、愚かなおとめは花婿を迎えることも婚宴の席に入ることも出来ませんでした。ここに終わりの日の最後の審判が暗示されています。天の国という婚宴の席に入るのは、真夜中、油を用意していた賢いおとめたちでした。
 マタイによる福音書21章以下は受難週の出来事です。25章には主イエスが語られた三つのたとえ話が記されています。これらのたとえ話を語った後、主イエスは逮捕され、十字架刑に処せられました。主イエスは、十字架刑の直前という緊迫した状況の中で語っています。弟子たちや聞いている人々は、まさか主イエスが十字架で処刑されることなど思いもしなかった時です。主イエスはご自身の死を覚悟し、主イエスが処刑された後、弟子たちが天の国を見つめて生きることが出来るように人生の備えを伝えているのです。主イエスが弟子たちに対して語られた人生の備えは「目を覚ましている」ことです。目を覚ましているということは、どのような備えなのでしょうか。
 天の国は、この世の終わりを指し示しています。この世界の終わりに起こることは、主イエス・キリストが花婿のように十字架と復活の後、もう一度来られ、栄光の主イエスがご支配する婚宴の席という天の国の完成です。花婿を迎える十人のおとめは、天の国の完成を心待ちにして、いつかいつかと待っています。花婿の到着は昼か夜か何時なのか分かりません。夜ならばは油壺とともし火が必要になります。花婿なる再臨の主イエスは、いつ何時頃来られるのか分かりません。花婿を迎えることは簡単ではありません。主イエスはこのたとえ話の最後 13 節で「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」とお語りになっているように、その日、その時を知らない私たちが再臨の主イエスを待つためにはどうしたら良いのでしょうか。主イエスの十字架の死の出来事によって救いをあきらめたり、神はいないと考えたりしてはならないのです。
 主イエスは、「目を覚ましていなさい」といいます。目を覚ましているということは、眠らないということではありません。その理由は明確です。十人のおとめの様子で分かります。5節「ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。」とあるように、賢いおとめも愚かなおとめも「皆」眠気がさして眠り込んでいるのです。私たちは花婿なる主イエスを待ちくたびれて、眠ってしまう者なのです。
 では何が問題なのでしょうか。主イエスはこのたとえで、「十人のおとめの五人は愚かで五人は賢かった」と語ります。愚かさの理由は、眠ってしまったことではありません。信仰生活において、例えば礼拝中に眠くなることは誰もが経験することでしょう。礼拝以外では眠気がさすことが少ないのに、どうして説教が始まると眠くなるのか。この眠気は日本だけでなく世界中の教会どこにでも見られる姿であり、信仰者の永遠の課題かもしれません。しかし、礼拝説教中に寝てしまうのは、天の国の婚宴の席に入った賢いおとめも寝ていたように決定的な問題ではないのです。もちろん礼拝中の睡眠を勧めているのではないことはいうまでもありません。
 ではどういうことなのでしょうか。十人のおとめの愚かさと賢さの違いは何でしょうか。主イエスは「愚かなおとめたちは、ともし火はもっていたが、油の用意をしていなかった」とあります。ともし火はもっているのに油を用意しないということは、どういうことでしょうか。ともし火と油は一つ、セットのはずです。油がないともし火は闇夜を照らすことはできません。懐中電灯はもっていても電池がない状態に似ています。役に立たないのです。再臨の主イエスが来られても、油を買いに行くはめになり主イエスをお迎えすることができなかったのです。この賢いおとめと愚かなおとめの違いは、最後の審判についての備えです。使徒信条の言葉でいうと、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」という最後の審判、神の審きの時がくることを信じて待つことです。
 このともし火の油とは、いったい何でしょうか。代々の教会は、この問題に対して真剣に考えてきました。例えば、宗教改革者マルチン・ルターは、この油とは「信仰である」と主張しました。この信仰とは霊的な敬虔さのことだと考えました。確かにマタイによる福音書 24 章 11~14 節には終わりが来る前に「多くの人の愛が冷える」とあります。
「11 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。14 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
 主イエスが語られた油とは何か、ある神学者は、山上の説教で主イエスが語られた御言葉から答えようとしました。その御言葉はマタイ5章 15~16 節です。
「15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」このみ言葉から、油を用意するとは「立派な行い」であるに違いないと考えました。「立派な行い」とは何でしょうか。最後の審判に際して、花婿を迎える準備として、立派な行いを見て、天の父をあがめることだというのです。
 信仰生活において、終わりの日のために油の準備ができているということは、天の父をあがめるようになることであり、私たちの良い行いだけで救われるのではないのです。私たちの良い行いが、自分自身を救う根拠にはならないのです。そうではなく、天の父をあがめるようになるために、誠実に神をあがめる、神を礼拝することが大切なのです。
 再臨の主イエスを迎えるための油を準備することとは、具体的には、再臨の主イエスが暗闇の中に来られるということを深く理解することではないでしょうか。
 私たちは人生の暗闇でこそ、救い主を迎える備えをしているかどうか、人生の暗闇の中で主イエスをお迎えする、そのための備えが大切なのです。人生の暗闇では、神も自分も見えず、神の光も見えないのです。人生の闇、それは迫害というキリスト教会が経験してきた出来事で想像することが出来ます。迫害の中では、棄教、信仰を捨てることがあるのです。主イエスの十字架も復活も信じられなくなるのです。しかし、そのような闇の中でこそ、救い主が到来するのです。神を見失いそうになる闇の中でこそ、ともし火を灯して救い主の到来を待つのです。真夜中に再臨の主イエスが到来することを覚えたいと思います。だから、目を覚ましていなさいと主イエスが遺言のように弟子たちに、そして私たちにお語りになっているのです。
  本日のみ言葉によって、私たちがこれから遭遇するであろう人生の暗闇の中で心して再臨の主イエスを目を覚まして待つことができるために、主イエスがお語りになったみ言葉を心に刻みたいと願います。
・邪悪な振舞いを断つこと マタイ 15 章 18~19 節 「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。」
・敵を愛すること マタイ 5 章 44 節「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
・他者を赦すこと 18 章 21-35 節「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
・自分の十字架を担って主イエスに従うこと 10 章 38 節「38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」
・神を愛し、自分と隣人を愛する 22章 37節以下「37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38 これが最も重要な第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

 この譬えを語られてすぐ、主イエス・キリストは十字架に架けられ、息を引き取ります。暗黒の日を迎えます。主の弟子たちは人生の真夜中を迎えました。しかし、三日目に主イエスは復活してくださいました。40日後主イエスは再臨の約束をして天に上げられ、弟子たちは再臨の主イエスを待ち望みつつ、迫害を信仰の力によって乗り越えました。
 今、私たちは再臨のキリストを待ち望む時代、信仰をいただいて生かされています。何時か分かりませんがこれから直面する、最後の審判でこそ与えられた信仰の力が発揮されるのです。主イエスが見えなくとも人生の暗闇を恐れなくてよいのです。主イエスを賛美して、信仰を備えとして、主イエスを礼拝してお迎えしたいと思います。
 大切な御言葉を蓄え、再臨の主イエスをお迎えするのが教会です。私たちは主イエスから暗闇を照らす、み言葉の光を与えられています。私たちの人生が神の御前で総決算される、最後の審判の時が来ます。しかし、恐れず、父子聖霊なる神の御名をあがめつつ、闇を照らす信仰の光を輝かし続けたいと願います。
 共に礼拝をささげつつ再臨の主イエスをお迎えしましょう。