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銀座の鐘

「キリスト・イエスにある人」

説教集

更新日:2026年04月19日

2026年4月19日(日)復活節第3主日 銀座教会・新島教会主日礼拝 牧師 近藤 勝彦

ローマの信徒への手紙8章1節

 ローマの信徒への手紙は、使徒パウロの代表的な手紙ですが、なかでもその8章は頂点をなしていると言われます。パウロのロマ書8章、アシジのフランチェスコの「太陽の讃歌」という表現にも接したことがあります。もちろん聖書は単純ではありませんので、他の見方もあって、例えばロマ書5章は、「キリストの血によって義とされた」と語っていて、それこそロマ書の中心だという説教者もおります。いずれにしても全体16章のロマ書の前半は1章から8章までが一つの纏まりをなしていて、8章はその締めくくりの章です。今朝はその8章の冒頭の1節をお読みいただきました。
 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とあります。「従って、今や」というのは、それまでの記述を踏まえて、その結論を語っているわけです。とりわけ直前の7章を踏まえてですが、しかしその前の記述も踏まえながら、「従って、今や」ここからが結論ですという趣があります。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。この言葉がその結論であり、今朝、聞くべき恵みの福音です。この御言葉が告げている神の御業が、ロマ書の頂点であり、パウロの信仰、ひいては初代教会の信仰の頂点を表わすとの思いで、聞きたいと思います。
「罪に定められることはない」というのはどういうことでしょうか。「罪に定められる」という言葉は「有罪判決」という言葉です。ですから、キリストに結ばれている者は「有罪判決を受けることはない」というのです。「断罪されることはない」と訳す人もおります。それも、この8章1節は「ない」という言葉が最初にきています。ただないだけでなく、ないことが強調されて、決してない、まったくないというのです。キリスト・イエスに結ばれている者が有罪判決を受けることは、決してない、金輪際ないのです。
 「キリスト・イエスに結ばれている者」というのは、「キリスト・イエスにある人」という言葉です。「キリスト・イエスにある」というのですから、キリスト・イエスに結ばれていると訳してよいと思います。ですがそれだけでなく、「キリスト・イエスにある」というのは、主イエスがわたしたちの置かれている場所のようになっていて、主イエスの中に入れられている、まるごと主イエスに捉えられ、包まれているということでもあるでしょう。「主イエスにある」のは、洗礼を受けて、キリストの中に、その恵みの中に入れられ、その影響下、その力の下に置かれていることです。キリスト・イエスの恵みの中、その力の中におかれているということは、もっと具体的に言うと主イエス・キリストの十字架の愛と復活の力のもとにいるということです。そして、その人は「罪に定められることは一切ない」というのです。
 これは、その人自身に罪がないと言っているわけではありません。その人自身のことを言えば、キリスト者であるわたしたちも、罪を赦された者でありながら、なお罪を犯す、罪の生活をすることがあります。あるどころか、そればかりだと思うかもしれません。神様を忘れて日を過ごし、思えば常に自分中心に生きているのではないかと反省させられます。神を真に神として仰ぎ、心からの信頼を神に寄せているか、それをしていないために、不安を抱えていることもあるのではないでしょうか。喜びや希望が欠けていないでしょうか。まだキリストを知らなかった過去にそうだったというのでなく、今も、さらに将来も、罪との葛藤は残るのではないでしょうか。
 それはそうだと思います。誰も自分の力で罪なきものになれる人はいません。罪のしぶとさにたかをくくることはできないでしょう。教会は罪のしぶとさを知って、「原罪」(オリジナル・シン)という言葉を使いました。聖書にはない言葉です。それによって罪の根源性・根深さ、そして誰もがこの原罪のために例外なく罪を犯す、どの人も罪の人だという罪の普遍性を言い表わしました。「ブラウン神父」を主人公にした推理小説を書いたチェスタトンは、キリスト教には色々な教義があるが、その中で経験的に疑いなしと思われるのは、原罪の教理だと言いました。
 しかしそうであってもです。キリスト者として、キリスト・イエスにある人は、「罪に定めれることはない」のです。キリスト・イエスにあるとは、主イエスが私たちの罪のためにその裁きを負ってくださった十字架の主イエス・キリストにあることであり、その十字架の主にあずかり、その死にあずかることです。だから、罪があるにもかかわらず、「罪に定められること・有罪判決を受けること」「結局、罪で決着すること」「断罪され、見放され、見捨てられる」こと、それは一切ありません。
 過去の罪から解かれたことが言われているだけではありません。今現在、わたしたちの日々の生活の中で、罪に堕ちることがあっても、その罪は主の十字架のゆえに処理されており、原罪よりももっと深いところから根本的に意味で主キリスト・イエスにある者にされていますから、罪に定められ、有罪の判決を受けることはありません。さらに将来のことも含まれています。この先たとえどんな罪の誘惑にさらされ、時にその誘惑に負けるとしても、その罪も主イエスの十字架の中ですでに処理されていますから、主キリスト・イエスの中に入れられた者は決して「罪に定められること」はないわけです。どんなに大負けしても、キリスト・イエスにある人は、キリストの勝利にあずかっています。
 罪の罪たるゆえんは、神から引き離すことです。神に反逆し、神なしに生きることです。「罪に定められる」というのは、神なき人間、神への反逆者であることが確定して、動かしようがなくなることです。逆に「罪に定められることはない」ということは、どんなことが起きようと神が共にいてくださる、神の愛から引き離されないということです。ですからロマ書8章は、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれた者は罪に定められることはない」という言葉からはじまって、最後の38・9節では「現在の者も、未来のものも、・・・高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と結ばれます。「罪に定められることはない」というのは、「神の愛から引き離されることがない」こと、何ものによっても引き離されない神の愛にしっかりと掴まえられていることです。
 わたしたちは、わが内なる罪だけでなく、外から罪の攻撃を受けることもあります。神から引き離し、私たちを不安にさせ、さらには絶望させようとする、そういう患難を受けることがあるでしょう。「罪に定められることはない」というのは、主キリスト・イエスの中に入れられていることで、内なる不安に打ち勝つだけでなく、それとともに外からくる患難にも耐える力を与えられることです。主イエス・キリストにあって決して神の愛から引き離されることはないということが、内なる不安を解消させ、外からの患難に耐えさせます。
 「罪に定められることがない」ということは、決して神の愛から引き離されることがないことであり、それがどんなに大きく確かな救いであることか、心の内にしっかりと受け止めたいと思います。そして同時に、その根拠は「主キリスト・イエスにある者」にされているということで、これがまたどんなに素晴らしいことでわるかを知っていなければならないでしょう。「キリスト・イエスにある人」は、主のものとされて、主イエスの死と命にあずかっています。「主にある」ということは、主の十字架の贖いを受け、また主の復活の命にあずかっていることです。主にある人は、キリスト・イエスの復活にあずかった者として、復活の主の昇天に、神の右に座すキリストとも共にいます。キリストにある人は、主の栄光にもあずかりはじめています。エフェソの信徒への手紙には「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェ2・6)とあります。
 わたしたちは「主キリスト・イエスにある者」にされました。それは主イエスの十字架の死にあずかり、その中に主と共にあること、そして復活の主イエスの命にあずかり、活けるキリストと共にあり、栄光のキリストの勝利にもあずかりはじめていることです。「罪に定められることはありません」。主キリストにあって神を信じる信仰に確信を持ち、喜びを持って、証して行きたいと思います。

 天の父なる神様、復活節第三主日の礼拝にあずかり、あなたが死人の中から甦らせ、罪と死に打ち勝たれたキリスト・イエスを覚え、その主イエス・キリストにあるものとされた幸いに深く感謝いたします。主キリスト・イエスにある者は、決して罪に定められることはないとの御言葉、またそのためにどれほどの愛と恵みの働きが父、子、御霊なる神にあったことかを覚えて、御名を讃美いたします。新しい一週間、日々共にいてくださる活ける主キリストに従い、あなたの御栄光を顕わす信仰の歩みをさせてくださいますように。御霊の注ぎを受けて、信仰と希望と愛に生きることができますように。主にあるすべての兄弟姉妹を導いてください。活ける復活の主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。アーメン。

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