銀座教会
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銀座の鐘

「この地で祝福の基となる」

説教集

更新日:2025年07月05日

2025年7月6日(日)聖霊降臨後第4主日 銀座教会・新島教会 家庭礼拝  副牧師 岩田 真紗美

創世記 12章1~8節

 主なる神は、アブラムに言われました。「あなたは生まれた故郷である父の家を発って、わたしが示す地に行きなさい。わたしは、あなたを大いなる民族にする。わたしはあなたを祝福し、あなたの名を大きくする。祝福の基となるように」(創 12:1-2、私訳)と。
 神はアダムに話しかけたように、或いはノアに話しかけたように、たった一人の者、アブラムに向かっても話しかけられました。それもノアの時と同じように、一度聞いただけではとても理解できそうにないほどの、神の壮大なご計画を一気に臆することなく神は語られるのです。そしてアブラムもまた、信仰によって、神のこの言葉に無垢に聞き従いました。人生の大半を過ごし、家族と共に慣れ親しんできた土地を離れて、彼は新しい場所に赴きました。また、示された地に於いて主のご計画が成し遂げられることを遥かに望み見て、齢75 になる身で妻のサライと甥のロト、家畜などの財産と共に旅に出るのです。「75歳」と聞きますと、山越え谷越え、北に南に、喜んで任地に赴いた神学校の先輩方の顔が浮かびます。伝道の使命を与えられた者が神さまに示された土地へ、何も知らずに飛び込んでいけるのは、それが神さまの祝福の言葉の成就を見る旅になると、心から信じるからです。神と共に在って働く喜びと、主への讃美に満ちた日々が、豊かに祝福された明日に繋がることを信じて、新しい一歩を私たちは幾つになっても踏み出します。さらにまた、このことは伝道者に限られたことではありません。真っすぐに神を仰いで召命に応える道は、たとえば洗礼の志を与えられた時にも聖霊によって示されます。 今まで自分が慣れ親しんできた世界から一歩、或いは半歩でも神の教会に近寄ることは、私たちにとって容易なことではありません。しかし信仰の眼で自分の足元を見つめる時、 そこには天からの大いなる祝福が確かに据えられているということに、気づかされるのです。アブラムの場合も勿論、躊躇しなかったわけではありまん。特に彼の場合は、父親のテラが偶像崇拝の道に入っていましたので、「父の家」を後にするようにと神に命じられた時には、 真っ先に聖書が語る唯一の神にのみに仕える道が示されたのだという重みを感じ取ったことでしょう。神ご自身から新たな決断を迫られるという感覚は、私たちの背筋を真っすぐにさせます。私たちの主は時に、八方美人では神に仕えることが出来ないことを示されるのです。
 ところで「祝福」という言葉について最初に少し確認しておきたいのですが、これは今日初めて出てきた言葉ではありません。創世記1章から何度も出てくるヘブライ語の「バーラク」という言葉です。以前アメリカの大統領だったバラク・オバマさんの名前にも入っている言葉なので、親しみがある方も多いのではないでしょうか。辞書の中で「祝福」は、 「言葉や身振りによって一方が他方に生命の力を伝達する行為」と言われています。神は天地創造の始め、「水に群がるもの」や「翼のある鳥」などのすべてを「祝福して言われ」ました。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と。神は祝福を告げる最初の語り手であって、祝福によって伝達される生命の力というのは神の口から出る一つ一つの言葉によって神の御手の中で豊かに増えていきます。 礼拝の最後の「祝祷」を思い浮かべますと、この祝福が具体的に私たちに主の日ごとに与えられていることが分かります。牧者は祭司としての務めを神から委託された者として、皆を祝福します。更に教会では「幼児祝福式」 「十歳児祝福」 「高齢信徒祝福式」などを神の家族として皆でお祝いしますが、その時の「祝福」というのもこの創成の時が起源になっています。神の祝福は祭司の言葉を通して、年を重ねるごとに益々豊かに信仰者に霊の実を結ばせていくのです。そしてこれは、教会という場を源、源泉、基として行われる神の行為だということを改めて覚えたいと思います。
 建物の土台が土に埋もれて見えないように、教会の「基」も目には見えませんが、祝福は神と人とを繋ぐ大事な恵みの基盤です。主イエス・キリストの十字架の贖いによって、この教会の基は据えられています。例えば、教会の修繕工事などを通しても私たちが知るように、教会の「基」が堅固に確かに据えられていれば、その基礎工事の誠実さによって、教会の信仰の生命は修復を加えながら長く守られ、益々霊の実が豊かに増えていくのです。
 アブラムの物語は「族長物語」というジャンルで呼ばれることもありますが、祝福を受けた一人のリーダーが、神の召しに従ったことで、信仰の家族は空の星、海の真砂のように増えました。新約聖書の『ルカによる福音書』の中で主イエスが弟子の覚悟について話された時、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない」(9:62)と言われたのを思い出します。神の選びと神の決断に従う時、人は片手に何かを握りしめたまま、神の思いをもう一方の手で掴むことは出来ません。アブラムは父の家を後にして新たな地へ赴き、神の祝福の仲介者として働き、今日の教会の基の初めの一歩を据えました。詩人の高田敏子さんというキリスト者が、「水は掴めません。水は掬うのです。両方の手をぴったりつけて。人のこころも、水のこころも。」という詩を書いています。神の御心も、そうなのではないかと私は伝道者に召された時、思いました。アブラムは、神の「あなたの存在を通してすべての者が祝福に入る」という御心をしっかりと両手で受け取ったのでしょう。
 さらに、神の召し出しに誠実に応えて示された地に向かって出発したアブラムに、もし先のことがおぼろげにでも見えていたならば、彼は出発出来ただろうかと思うことがあります。後継者としての息子がこの時点では与えられていないですし、彼の身の回りについて思いを寄せるなら、そこには神の祝福の約束以外には何も確かな未来は見えません。しかし将来が見通せないからこそ、彼には神の招きに応える道の「希望」が見えたのではないでしょうか。そして、その神の思いを両手で掬うようにして一滴も漏らさずに大切に受け取る信仰も、神が彼に与えたものでした。私たちの中には初めから、神の言葉を聞く耳も、神の思いを両手で受け取る信仰もありません。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11:1)と、ヘブライ書が告げていることを思い出します。また、「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していた」(同 11:10)と言われています。「空の星のように(中略)多くの子孫が生まれた」(同11:12)という祝福をも彼は世に生きている間には見られませんでした。後継者がいないということに迷いを覚えるアブラムを、ある晩、神は外に連れ出して天の星を仰がせます。『創世記』15章 5 節ですが、「天を仰いで、あなたにもし出来るのならば、星々の数を数えてごらんなさい。あなたの子孫は、これほど沢山になるのですよ。」(創 15:5、私訳)と神は、夜空の下でアブラムに言われました。そこでは数え切れないほど沢山の星が輝いていましたが、人間の目には届かない光をもつ、無数の星々も、さらにその奥の闇に埋もれていたのです。神の祝福を受ける者は、人の「数える」という能力を遥かに超えるほど増えることを、神は夜のしじまのなかで人に示されました。神の祝福は、こんなに豊かな広がりを持つと、お教えになりました。
 「大いなる国民」(同 12:2)になると聞いて、アブラムが想像した「大きさ」を遥かに超える大きな神の民が、今この世には存在しています。人間の思いを遥かに超えた神のご計画に従う者として召されたアブラムは、この時「主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:6)のだと、聖書は語ります。乾ききった砂漠の夜のしじまの中で、神は神の正しさである「義」に生きる人としてアブラムを認められました。
 神の大きさについて尋ねられた時、アンセルムスという人はこう言いました。「あなたが想像できる一番大きいものよりも、大きい」と。大きさに限界を定めることが出来ないものの大きさについて証しした、的を得た表現だと思って、子どもたちには良くこの喩えを語ります。「ええ!じゃあ飛行機よりも大きいの?」「いや、宇宙のほうが飛行機より大きいよ。じゃ、宇宙よりも?」と、子どもたちは次々いろいろな大きいものを提案してきます。しかし、ここで譲るわけにはいきません。 「当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(12:6)と語られる場所で、 「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7)と主から言われた時、神のみ旨の中にあった「土地」の広大さが、どれほど大きなものであったのか、その恵みを継承していけるのか、アブラムには理解できないことばかりでした。しかし、だからこそ信じられた、というところに、神の御業のみがこの世を支え、保持しているという真実を示されるのです。 「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」(『詩編』37:23)のです。その道はすべてを今、見通せなくても、終わりの日には再び主イエスと私たちが共に相まみえる希望の道です。み恵みの内に、そのままを掬い上げるようにして信じ、祝福に満たされて歩みたいと願います。
 今日は7月の最初の主の日です。そして今月は、銀座教会が創立記念日を迎える特別な月でもあります。この地に在って、教会がこんなに生き生きと瑞々しく、祝福の湧き出る源泉のように、祝福の基とされていることを共に感謝し、神さまに祈りましょう。こころの中の手のひらをぴったりとくっつけて、神さまの御計画と御子の十字架に示された愛を、私たちも確かに受け取りたいと思います。教会の歴史に今も昔も、生きて働いておられる主を見上げて、聖餐の恵みに与りましょう。

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