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銀座の鐘

「ゲツセマネの祈り」

説教集

更新日:2025年03月23日

2025年3月23日(日)受難節第3主日 銀座教会 新島教会 主日礼拝(家庭礼拝)副牧師 川村 満

マタイによる福音書 26章36節~46節

1, 祈りを共にしてほしいと願う主イエス

 受難節の時を歩んでおります。本日わたしたちに与えられました御言葉にある物語の中では、十字架にかけられるその直前に、ゲツセマネの園においてなされた主イエスの深い苦しみの底からの呻くような祈りの場面が描かれております。この、主イエスが祈りをなされた場所。ゲツセマネという場所の意味は、「油絞り」、という意味であると言われております。オリーブの木が生い茂った場所であり、そのオリーブの実を採って、オリーブ油をつくるために油を搾る。そのような場所であった。それがそのまま地名となった場所であったと思われます。このゲツセマネが主イエスのお気に入りの祈りの場所であったのでしょう。エルサレムに来られた時には、弟子たちから離れて一人、夜中にこのゲツセマネの園で祈られたのかもしれません。しかし、この日、主イエスは一人でこの場所を訪れたのではありません。最も身近な弟子たち。ペトロと、ゼベダイの子。ヤコブとヨハネを連れて来たのです。なぜ彼らを連れて来たのか。「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。」座って、目を覚ましていなさいとも言われます。なぜでしょうか。おそらく、私の祈りを見ていてほしい。そして祈りを共にしてほしい、そう願っていたのだと思います。あるいはやがて、主イエスの復活の証人として、このゲツセマネで苦しみながら祈った、その祈りを聞いた者として、のちに人々に伝えてほしいと願ったのかもしれません。そのために、やがて大使徒となるこの三人を任命したともいえましょう。けれどももっと単純に、最愛の弟子たちにただそばにいてほしい。そして祈っている間、共に祈ってほしい。最後にアーメンと唱えて、祈りを一つにしてほしいとそのように願っていたのかもしれません。わたしたちもそのような思いを持つことがあるのではないでしょうか。本当に弱ってしまったとき、どうしようもない悩み事があったとき、わたしたちは信仰の友にその悩みを打ち明けます。ただ打ち明けるだけでなく、一緒に祈ってほしいのです。自分一人だけで抱えていられないほどの苦しみや、悩みがわたしたちの人生を襲う時、誰かに祈ってもらえる。そう考えるだけでわたしたちは慰められるのです。主イエス御自身がこのように約束してくださっております。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイ18章19節)こういう主の約束がありますから、わたしたちはしばしば兄弟姉妹や、あるいは牧師に悩みを告白して、言います。「祈っていてくださいね!」と。それはとても大切な信仰の交わりであるとわたしは思います。主イエスも、実に単純に、愛する弟子たちにそのように祈りを共にしてくれることを求めた。それほどに主イエスはこの弟子たちを愛しておりましたし、信頼もしていたと思うのです。もちろん、彼らの弱さや愚かさを全部知った上で、それでもなお彼らを、大事な祈りの場に連れて行くのです。目覚めていて、私の祈りをしっかりと聴いていてほしい。何を苦しみ、何を求め、何を願っているか。何と闘っているのかをしかと見届けてほしい。そういう期待と信頼を、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに求めたのではないだろうかと思います。

2, 死ぬばかりの悲しみ

 しかし、このとき主イエスは悲しみ悶え始められたとあります。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」何を悲しんでおられたのでしょうか。
 カール・バルトというスイスの神学者が、生前に語りました説教の中でこういう意味のことを述べております。ある人は、哲学者ソクラテスのように、恐れることなく毒を飲み死んだ。そのようにイエス・キリストよりも立派な死を遂げた賢人もいる。そういう人々に比べて、キリストはいささか弱く、臆病に過ぎるのではないだろうかと言う。否、全然違うのだ。不安についていえば、主イエスがこの時感じた不安は、主イエスが語られた言葉から推測するよりもずっとひどかったのだ。それは言語を絶するものであった。他の人間はそれに耐え抜くことはなかったし、想像もできないものであったのである。いかなる人間もこれほどに打ちひしがれたことはなく、これほどに戦慄し、恐れたことはなかった。我々が不安を感じる時、あるいは他の人々の不安を考える時、主イエスの不安はそれよりも大きく、同じ不安が無限に続いたのだ。なぜかと言うと、彼の目の前にあったもの。それは、全人類がもっている、嘘と不正の海であり、われわれはそのごく小さな一部を見ているだけだが、主はこの時その全部をみていたからであると。そしてそこにおいて神の怒りと、永遠の滅びを感じていたのだ。全人類の罪を負い、大罪人として神の御前に立ち、人間が負うべき罰を担う。このことが主イエスの目の前にあったがゆえに、それゆえに彼は戦慄したのだと。つまり、主イエスにとって、すでにここで滅びとの戦い。地獄の苦しみは始まっていたのであります。
 キリストが苦しみ抜いてくださった十字架への道というものは、私たちが本来罪人として歩まなければならないものであった。しかしその苦しみを全て負って、主イエスがその身代わりとして負ってくださった道なのであります。

3, 天の父の御心に従うための戦い

 そして、ここで主イエスが、苦しみ悶えられたということからわかりますことは、この苦しみは決して演技ではなかったということです。神の子でありながら、その尊い身分を捨てて、ここで本当に人間として、罪人としての死を死んでくださったのです。わたしたち教会の信仰の要点がここにあります。すなわち、まことの神であられる主イエスが、まことの人間となられたのは、神であり同時に人であられる主イエスにしか、私たち、罪人の罪を担うことのできる方はおられないからです。
 主イエスは生前、その人間としての歩みの中で、一度も罪を犯すことはありませんでした。そこがわたしたちと違うところです。しかしその罪なき人が、私たちの罪を担って、十字架でわたしたちの身代わりの死を遂げられた。わたしたちの罪の咎を担われた。そして、神の力によってよみがえられた。それによって、わたしたちの罪は贖われ、赦されたのであります。そのような、人類救済のための十字架の死の苦しみがすでにこのゲツセマネにおいて始まっていたのです。
 主イエスはここで、人間として、完全に、私たちがこの地上で受けるどんな苦しみや恐怖、戦慄よりもはるかに大きな苦しみと戦慄の中で、おののきつつ神の御前に立たれたのであります。そこで主イエスは祈られま2す。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに。」この祈りは、人間として誰も味わったことのない苦しみの中での極限の祈りであります。「この杯」とは、十字架の苦難を最後まで飲み干す。味わい尽くすということであります。主イエスは、できることならば、この苦難を回避したいと願っておられました。そして父なる神はそれがおできになる、全能の神であることをご存じでありました。しかし、それが父なる神の御心ではないのならば、この杯がどれほど苦く、苦しい杯であったとしても、私はあなたに従いますとおっしゃったのです。
 ここに、主イエスの信仰があります。父なる神への全幅の信頼と、絶対的な服従の心があります。わたしたちはこの主イエスの信仰から程遠い信仰しかないと思います。この杯を過ぎ去らせてくださいと願った主イエスは決して弱虫だったのではありません。しかし人間としての弱さをまとわれた、ということはできると思います。もちろん、決して罪を犯すことはありませんでしたが、人間としての全ての誘惑と試練に遭われたのです。その最後の誘惑がここで主イエスの心に忍び込むのです。しかし、そこで主イエスは、「わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈られたのです。なぜなら、神の御心こそが最も良いからであります。最善だからであります。 
 わたしたちがそのことを深く受け止めることができていないとき、実にしばしば、神の御心ではなく自分の願いをどうか聞き届けてほしいと願い、そのことだけを熱心に祈り続け、そのような熱心を信仰であると勘違いしてしまうことがあるのではないでしょうか。もちろん、何でも心からの願いを打ち明けることは大切であります。主イエスもこのゲツセマネで、心からの願いとして、この杯を過ぎ去らせてくださいと願いました。しかし、それがどんなに痛切な願いであったとしても、それよりも、神の御心のほうが良いものであるならば、自分の願いは退けられてもよい。本当にそのように願うことができるでしょうか。そこには、神の大いなる御心。わたしたちの人生に対する、またこの世界に対する神の永遠の御計画があり、それはわたしたちが思い描いているものよりもはるかに素晴らしいものであるということ。そこへの信頼がなければなりません。
 神の御心こそが、愛と、恵みに満ちているということ。わたしたちが把握していることを父なる神はもっと深い部分に至るまで、ご存じであること。目に見える、一見不幸とも思えるような出来事も、その背後には私たちを成長させ、実りをもたらすための豊かな采配があるということを信頼しなければなりません。なぜならわたしたち一人一人は、神の栄光を仰ぐために造られたものであり、神の救いに選ばれたものであるからです。神の国を受け継ぐように召された私たちは皆、神に愛され、天においていつも天使たちに見守られているからです。すでに読みました、18章10節で主イエスはこのように語られました。「これらの小さなものを一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」神の御国の世継ぎであるわたしたちには、どんな小さな者でも、天から遣わされた天使がいると言うのです。それほどに神はわたしたちの日々の歩みを確かに導いてくださっている。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマの信徒への手紙の8章の御言葉であります。
 この神の恵みを難しい言葉で、摂理とも言います。私たちの罪も、弱さも愚かさもご存じであられる主なる神が、全てを良いものへと変えてくださる、そして救いのために用いてくださる確かな采配です。わたしたちはこの良き力に支えられて、今を生きているのです。そのことを信頼しなければなりません。そして信頼するならば、わたしたちはそこに従わなければならないのです。主の御心こそが最も良いものであると信じて、御心を探し求め、それを選ばなければならないのです。
 しかし実にしばしば、わたしたちは、神の御心を探し求めず、選び取ることを失敗してしまうのではないでしょうか。自分の願いばかりを優先し、祈りにおいても主の御声を聞き取ろうとせずに、聖霊を悲しませてしまうことがあるのではないでしょうか。おそらく、誰もがそのような罪を犯していたことがあると思います。そのようなわたしたちのためにも、主イエスはこのゲツセマネにおいて、最も厳しい戦い。地獄の深淵に入っていくような御苦しみの中で、その死の杯を、飲み干すための戦い。十字架を、父の御心として受け入れる戦いに勝利してくださったのであります。わたしたちと全く同じ、人間として、この、父なる神の厳しい御心を選び取る戦いに勝利してくださったのです。
 だからこそ、わたしたちは、その主イエスのいさおしのゆえに、救われているのです。死の向こうに、永遠の命の世界が待っていることを、心から希望する者とされたのであります。死よりも確かなものを、死に向かっていく中でなお待ち望む者とされているのであります。ヘブライ人への手紙の 12章2節にこのようにあります。
「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の3右にお座りになったのです。」
 主イエスのことをここでは、信仰の創始者、また完成者と呼んでいます。主イエスの信仰は初めから終わりまで、聖霊に従いきった、完全なものでありました。信仰の父と呼ばれたアブラハムでさえ主イエスほどの確かな歩みではありませんでした。ましてや、モーセも、ヤコブも、ダビデもその地上の歩みは多くの罪を犯し失敗を犯しました。真実に、神の御心に初めから最後まで生き抜いてくださったのは唯一、罪の汚れのない人間として地上での信仰生活を送られた主イエスのみなのです。この、主イエスの信仰による義によって、わたしたちは救われた。そのように言うこともできるのではないでしょうか。
 救いとはイエス・キリストの義によって救われるということだからです。主イエスの完全な正しさ、清さが私たちに与えられ、代わりに私たちの罪の責任を主イエスが十字架で担われたからです。完全に正しく清く、罪を知らない方であるにもかかわらず、人としての苦しみを味わい尽くし、その一番どん底の苦しみを味わい、そして罪のゆえに呪われた者としての死を死んでくださったのです。わたしたちの身代わりとなって。

4, 立て、行こう

 さて、このようなゲツセマネにおける苦しい祈りの戦いに主イエスは愛する弟子たちを連れて行かれたことを初めにお伝えしました。主イエスは弟子たちに「わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われました。にもかかわらず、弟子たちは眠ってしまいます。主イエスの御苦しみを共にするほどの確かな心に生きることができなかったのです。彼らもやがて、使徒となり、福音のために苦しみ、キリストのために死ぬものとなりますが、このときはまだ主イエスと共に目を覚ましていることができない弱い弟子たちなのでした。
 主イエスは言われます。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」主イエスが、目を覚ましていなさいと言われたにもかかわらず、弟子たちはひどい眠気でずっと寝ていたようです。私たちも、このような弱さの中で、祈ることができずにいる。そういう者ではないでしょうか。そういう人間の肉体的な弱さの中で、集中して祈ることができない。そういう現実もあるかもしれません。しかしここでわたしたちに主がおっしゃる「目を覚ましていなさい」という言葉は、単に寝ているなということにとどまらないのではないでしょうか。たとえ起きていても、信仰の目が開いていない。その意味で、真実を見ることができない人はこの世にたくさんおります。
 私たちが、目覚めているとは、ゲツセマネで祈りの戦いの末に、父なる神の御心を受け入れてくださった、この信仰の完成者なる主イエスを見つめていくということではないでしょうか。わたしたちの肉体は弱く、眠気に負けてしまうことがあります。祈りが足らずに、新しい朝を迎えることがあります。今日という日を力強く希望をもって歩めない。そんな日もあろうかと思います。しかしわたしたちはこの主イエスの御言葉を思い起こしたいのです。
「立て、行こう!」主が、自分を裏切る者たちの手にかかり、そこで天の父に全てをお委ねになった。全てを覚悟して、十字架の苦しみに身をゆだねる、その十字架の道に赴く。そのとき眠っていたこの弟子たちに、立て、行こう、と言われたように、眠い目をこするわたしたちにも主イエスは毎朝語りかけてくださるのです。
 さあ、立て、行こう。あなたの人生に、どんな日も、いつもわたしが伴っているから。あなたの人生にはわたしの十字架がいつもあるのだから。だから大丈夫だと。忙しさの中で、わたしたちの日々の祈りが足りない。それゆえにわたしたちの信仰の確信が弱く、不安なときにも、主イエスがゲツセマネで夜通し祈りとおしてくださった、父の御心を受け取るための主イエスの、血のしたたるような祈りの中に。
 わたしたちは今日も生かされている。主イエスが、あの日ゲツセマネで祈ってくださった祈りと、十字架の恵みの中に今日もわたしの一日がある。その恵みへの信頼のもとに、日々、主の御心を聞きつつ、その御心に生きる者となっていきたいのです。そのようにして、それぞれに与えられた、わたしたちの人生を、主のためにおささげしていきたいのです。お祈りをいたします。

 天の父なる神様。主イエスが、わたしたちのために、十字架という途方もない苦しみをあなたの御心として選び取ってくださいましたゆえに、わたしたちは滅びることなく、あなたの命に生きるものとされました。この主イエスをひたすらに見つめながら、目を覚まして生きることができますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン