叫びと告白
説教集
更新日:2024年03月23日
2024年3月24日(日)受難節第6主日・棕櫚の主日 銀座教会 礼拝(家庭礼拝) 伝道師 山森 風花
マタイによる福音書 27章45~54節
45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。 48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。 49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。 50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、 52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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本日は棕櫚の主日です。教会の暦においては、今日から受難週の一週間が始まります。この棕櫚の主日はイエス様が聖なる都エルサレムへ入城する際、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と、群衆たちに熱狂的に迎え入れられた日です。しかし、このような歓喜の声でイエス様を迎え入れた群衆たちが、四日後には「十字架につけろ」と叫び続ける姿が聖書にははっきりと記されています。この群衆の叫び声の通り、聖なる都エルサレムにおいて、神の御子イエス・キリストは十字架へとつけられ、殺されるのです。
今朝、聖書日課によって与えられた聖書箇所には、受難週の金曜日の出来事、つまり、イエス様がゴルゴタの丘で十字架につけられ、息を引き取られた、まさにそのときについて記されています。私たちが今日お読みしている聖書箇所の冒頭、マタイによる福音書27章 45節には、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とありますが、イエス様が十字架につけられた時間はこの福音書には記されていません。ですが、マルコによる福音書15章25節には、「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」と書かれています。
イエス様が息を引き取られたのは三時頃ですから、六時間にも及ぶ苦しみを神の御子が受けられたということになります。この十字架での六時間の間に、神の愛すべき独り子が人々からののしられる姿が本日の聖書箇所の直前、27章 37-44 節にあります。その冒頭で、「イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。」と記されています。
今お読みしているこのマタイによる福音書だけでなく、すべての福音書が共通して私たちに伝えていることがあります。それは、私たちが十字架の主イエスを見上げるとき、全く罪がないこのお方の頭上に、罪状書きが掲げられている、ということです。四つの福音書すべてが、イエス様の頭上に掲げられた罪状書きに「ユダヤ人の王」と記されていたことを伝えています。
しかし、特に私たちが今朝お読みしているこのマタイによる福音書において、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きが記されているのを目撃するとき、私たちはこの福音書の冒頭に記されていたクリスマスの物語を思い起こさずにはいられないのではないでしょうか。
なぜなら、2章1-3節にはこのように記されているからです。
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
異邦人である占星術の学者たちによって告げられたまことのユダヤ人の王誕生の知らせは、偽りの王ヘロデに不安を抱かせました。そして、この不安によって、彼は生まれたばかりのイエス様を殺すために、ベツレヘムとその周辺の二歳以下の子どもたちを皆殺しにしました。しかし、さらにマタイによる福音書は、このヘロデ王と同じ不安を聖なる都エルサレムの人々も皆、抱いたと記しているのです。このように、神の御子、まことのユダヤ人の王、メシア、救い主であられるイエス・キリストが、この聖なる都エルサレムにおいて拒絶されることをこの福音書はすでにクリスマスの降誕物語において示していたのです。そして、クリスマスの物語、福音書の冒頭でヘロデ王が失敗したまことのユダヤ人の王殺害計画は、この聖なる都エルサレムにおいて、ついに今、成し遂げられようとしているのです。
十字架につけられ、「これはユダヤ人の王イエスである」と罪状書きが頭上に掲げられたイエス様に向かって、通りがかりの人々が叫びます。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」と。また、同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、侮辱して言います。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」と。そして、イエス様と一緒に十字架につけられた強盗たちまでも、同じようにイエス様をののしりました。
この十字架という最も苦しく、絶望的な場面において、誰一人としてイエス様の味方はいません。いつも一緒に行動を共にしていたペトロなどの弟子たちも、誰一人として今はいないのです。なぜなら、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまったからです。彼らはイエス様を助けに来ません。ここには完全に孤立した神の御子の姿があります
しかし、私たち信仰者はイエス様が孤独な方ではないことを知っています。なぜなら、私たちは使徒信条によって、父・子・聖霊なる三位一体の神様を信じ、告白しているからです。また、イエス様ご自身が、天の父なる神様と御自分について、「わたしと父とは一つである」(ヨハネによる福音書 10章30節)とおっしゃっていたからです。ですから、どれだけ世の人々にののしられ、弟子たちに裏切られ、見捨てられたとしても、天の父なる神様だけはイエス様と共にいてくださるはずなのです。イエス様が一言願えば、天の父なる神様ご自身が、愛すべき独り子イエス様を敵対者たちの手から救い出し、十字架から降ろしてくださるはずなのです。
ですが、このような私たちの思い、私たち人間の考えとは全く異なる神の救いのご計画がここでは働いているのです。それゆえに、神の御子イエス・キリストは十字架から降りることをしないのです。また、天の父なる神様に向かって、「父よ、私を救い出してください。そして、この敵対者たちを滅ぼしてください」と願うこともしなかったのです。
むしろ、全地が暗闇に覆われるその中で、十字架の上でイエス様が大声で叫ばれたお言葉、それは人の目からすれば、神の御子に全く相応しくないように思える「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」という驚くべき言葉でした。これは詩編22編からの引用です。なぜ、この言葉が驚くべき言葉なのかというと、それは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」とは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味の言葉だからです。神の愛すべき独り子が神に捨てられるという信じがたい、受け入れがたい出来事がこの十字架上で起こっているのです。
このイエス様の叫びを実際にその耳で聞き、その姿を目撃した人々は、「神に頼っているのにも関わらず、神に見捨てられているじゃないか。やはり神の子、ユダヤ人の王ではなかったではないか」とイエス様のことをあざ笑った人もいたことでしょう。また、聖書に記されているように、イエス様のこの叫びを聞いた人々のうちには、イエス様がエリヤを呼んでいると聞き間違えて、イエス様がエリヤに助けを求めていると思った人たちもいました。その中には、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言って、イエス様の死をあざ笑い、何か見世物を見ているかのような人もいたのです。
彼らは誰一人知らなかったのです。神の御子がこのように神に見捨てられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだその姿が、本当は彼らのためだったことを。また、それは、今、この十字架の上で、苦しみ、大声で叫ばれる主イエスの姿を見つめている私たちのためでありました。本来、神に見捨てられ、十字架につけられて裁かれ、叫ぶべきだったのは、私たちすべての者であったことを誰も知らなかったのです。しかし、たとえ前もって知らされていたとしても、誰も理解することなどできなかったことでしょう。神に背く罪人である神の敵を、神の御子がその死をもって贖い、救い出すなど、誰が理解することができるでしょうか。ですが、それこそが天の父なる神様の救いのご計画でした。私たちが受け入れようが受け入れまいが、この救いのご計画を成し遂げるために、主イエスはこの父の御心に従順に従い歩んでくださるのです。
神に背いて生きる私たち罪人を救うという、神の驚くべき救いのご計画を成し遂げるために従順に歩まれた主イエスの十字架上の苦しみは、十字架の刑罰が正しく実行されるか見張っている人々の前で、終わりを迎えます。イエス様は再び大声で叫ばれ、ついに息を引き取られたからです。
イエス様が息を引き取られ、ここで全てが終わりかと思われたその時、驚くべき事が立て続けに起きました。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」と記されているとおりです。これらはすべて、天の父なる神様による御業です。イエス様が十字架にかけられている時、イエス様を罵り、奇跡を見せるように要求していた人々の言葉に対して沈黙を貫かれていた神様は、イエス様が救いのご計画のために、死に至るまでの従順を成し遂げられた今、その沈黙を破るのです。
神殿の垂れ幕が上から下まで裂けた出来事は、イエス様が私たち罪人にかわって十字架で死んでくださったことで、罪人である私たちと聖なる神様との間の隔てが取り去られたこと、聖なる神へと至る道が、この私たち罪人に開かれたことを示しています。それはまさに、コロサイの信徒への手紙への手紙1章19-22節に記されているとおり、神は御子の十字架の血によって平和を打ち立て、私たち罪人と和解してくださり、そして、私たちを御自身の前に、聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださったのです。
これらの目撃者として、百人隊長、また、百人隊長と一緒にイエス様の見張りをしていた人たちがいたことをマタイによる福音書は私たちに伝えています。彼らは異邦人でした。しかし、彼らは地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、そして「本当に、この人は神の子だった」という信仰告白へと導かれたのです。十字架の主イエスの死によって、神から遠く離れていた、罪人と見なされていた異邦人の口から、このような信仰告白が導かれている驚くべき神の救いの出来事を私たちは目撃しているのです。そして、今日この出来事を目撃している私たち自身も、異邦人でありながら、十字架の主イエスの姿を見上げつつ、このまことのユダヤ人の王に対して、「本当に、この人は神の子です」、と告白することが今、ゆるされているのです。主が苦しみの叫びをあげながらも、十字架の死に至るまで、私たちの罪を赦し、罪から贖い、救い出す、天の父なる神様の救いのご計画に従順に歩んでくださったからこそ、この信仰告白が私たちに与えられ、私たち罪人が主に結ばれて、十字架の主であり、復活の主であるこの神の御子、イエス・キリストに結ばれて、歩む事がゆるされていることを覚え感謝しつつ、この受難週の一日一日を歩んで参りたいと願います。