「苦しみから栄光へ」
説教集
更新日:2024年03月30日
2024年3月31日(日)復活日主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 中村 謙一
ルカによる福音書24章13~35節
13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
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Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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イースター、おめでとうございます。世界中の諸教会と共に、神の御子主イエス・キリストの復活を心から喜び主の御名を賛美いたします。ハレルヤ!本日のテキストは、復活顕現の一つであります。主イエスは十字架で死なれた後、3日目の朝に死者の中から復活され、40日の間、心が揺れる弟子たちに現れました。
主イエスは大変でした。主イエスは40日もの間、弱い信仰の弟子たちを散らさないでエルサレムへ集められました。本日のテキストの中で、主イエスは復活顕現を通して将来の聖霊の働きである先行する恵みを示してくださっていました。今では、聖霊が先立って私たちに恵みをもって働きかけてくださいます。私たちは先行する恵みに対して、信仰的な応答ができるように導かれています。特に、復活顕現で主イエスがそうであったように、私たちが苦しみの中にあるときに、先行する恵みが働き私たちを助けています。先行する恵みとは、救いの恵みに先立って与えられる諸々の恵みを意味します。
さて、主イエスの十字架の死に絶望した二人の弟子たちがエルサレムからエマオに向かって逃げ出しました。この臆病な二人の弟子たちに、復活の主イエスが現れ共に歩まれました。最初二人はその旅人が主イエスであるとは気がつきませんでした。16節には「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」と書いてあります。この事は、先行する恵みに私たちも気がつかないことがある、ということを示しています。でも、大丈夫です。目には見えなくても、主イエスは私たちと共に歩んでくださっています。諸々の恵みによって、私たちの鈍い心を開こうとしてくださいます。
エマオへ向かうこの二人の弟子の一人はクレオパでした。クレオパは、近づいてきたその旅人に「その話は何のことですか」と主イエスの十字架と復活について聞かれ、クレオパ自身の政治的なメシア観が逆に明らかにされてしまいます。クレオパはその旅人に主イエスについて21節で「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」と言いました。主イエスが神の御子であり、十字架の死によってすべての人の罪を贖い、そして復活することになっている救い主であったことにクレオパともう一人の弟子は気がついていませんでした。恐らくは武力によってローマ帝国の支配からユダヤを解放してくれる軍事的・政治的なダビデ王のようなメシアをクレオパたちは期待していたものと考えられます。これでは、先行する恵みにはなかなか気がつかないでしょう。主イエスがそもそもどのようなお方であるのか誤解していたのですから。戦争を正当化し指導するメシアを待ち望む人々が当時のユダヤには多かったのでした。
それは、25節と26節を読むと分かります。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と復活の主御自身が告げてくださいました。
正しいメシア観では、メシアが苦しみから栄光に入るのだ、と私たちの魂に主イエスが語りかけておられます。「苦しみ」とは十字架の死を意味しています。これは神の御子の命が献げられ、すべての人の罪が神によって赦されたことを意味しています。地上での殺し合いや戦争を指導することとは一切関係がありません。そして「栄光」とは主イエス・キリストの死者からの復活を意味しています。これは、主イエスの十字架の死による罪の贖いを信じる者が、主イエスのように復活の命と体を死後与えられ救われることが確証された、ということであります。主イエスが死んだままで復活されなかったのなら、十字架と復活の救いの御業は嘘であった、ということになっていたでしょう。しかし、嬉しいことに、主イエスは死者の中から復活して、クレオパたち二人にエマオの途上で現れました。そして共に歩み、聖書を説いて、彼らの間違ったメシア観を正されました。それは主イエスご自身が「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と告げておられたので、苦しみから栄光に入るメシア観が聖書全体から二人に語られました。
27節の中の「モーセ」とは、モーセが神に用いられて、神の民が出エジプトで奴隷の苦しみから解放され、正しい礼拝が献げられ、神の栄光が示されたことです。苦しみから解放された時、私たちも神様に用いられ正しい礼拝に招かれます。また、「すべての預言者」とは、神の民がバビロン捕囚における苦しみから解放され神殿を再建して神の栄光が示されたことが関係しています。その御業を神の民に告げていたのが旧約の預言者たちでした。出エジプトもバビロン捕囚と神殿再建も、苦しみから栄光へと神様の力が神の民に働いて、民は認罪と罪からの悔い改めへと導かれ、正しい礼拝をお献げするという栄光へと移された出来事でした。私たちも苦しみから解放され、聖霊に導かれて礼拝生活が教会で取り戻されることが暗示されます。復活の主イエスも、クレオパたちを絶望の苦しみから解放し、悔い改めから、聖霊による洗礼、教会形成、そして救いの栄光へと導こうとされておられました。そして、これが先行する恵みの聖霊の働きが目指すことです。今も、聖霊は、先行する恵みによって、私たちの心や魂に働きかけて人々を礼拝に戻し、罪からの悔い改めから洗礼や回心へ、そして教会生活から救いへと導いてくださっています。
先行する恵みでは、主イエスも聖霊も先立って聖書の御言葉によって私たちの心に働きかけます。クレオパたちも32節で「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と信仰的な応答へと導かれました。実は18世紀にメソジスト運動を指導した英国国教会の聖職者ジョン・ウエスレーも、信仰の危機の時に、先行する恵みによって導かれて同じような体験を与えられていました。それがウエスレーのアルダスゲート回心体験でした。この体験は、ウエスレーを信仰的な応答へと導き、ウエスレーは罪から悔い改めて回心し、さらにその後、ジョージ・ホイットフィールドからのブリストルの野外宣教活動からメソジスト運動へと用いられました。この運動によって世界中にメソジスト教会が広がりました。そして多くが救われ、日本にも銀座教会が建てられ、苦しみから栄光が現されました。
ウエスレーは、アルダスゲートのキリスト教の集会で語られた、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」というローマの信徒への手紙3章24節の説明に導かれました。当時のウエスレーの日誌には、「8時45分頃、彼がキリストにおける信仰を通して、神が心の中に働かれる変化について説明しているその時、わたしは、わたしの心が不思議に暖まるのを感じた。わたしは救いのためにキリストに、キリストだけに信頼した、と感じた。そして、キリストがわたしの、このわたしの罪ですら取り去ってくださり、わたしを罪と死の律法から救ってくださった、という確信がわたしに与えられた。」と記されていました。
ウエスレーのこの証しの中で、ウエスレーが「わたしを罪と死の律法から救ってくださった」とは、ウエスレーが良い行いを積み上げることによって義とされようとしていた罪から悔い改めたことを示していました。「キリストだけに信頼した」というウエスレーの言葉は、主イエスを信じる信仰によってのみ救われるプロテスタントの伝統的な信仰義認の信仰に基づく正しい応答であったことを示しています。
それでは、クレオパたちは先行する主イエスの恵みに信仰的な応答ができたでしょうか。33節にはクレオパたちが「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、」と書いてあります。絶望し弱かった二人の弟子はエルサレムの弟子たちの集まるところへ戻るという信仰的な応答へと導かれました。これは教会から離れていた人が教会の礼拝生活へと戻されることです。なぜなら、30節と31節には、主イエスが夕食の時に、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」と書いてあるからです。主イエスは礼拝と教会の信徒の会食である愛餐で弟子たちの心の目を開き、エルサレムへ戻りペンテコステを待ち望むように招かれたのでした。先行する恵みも、教会の礼拝と信徒の交わりへと苦しみの中にある弟子たちを気がつかせ引き寄せます。そしてペンテコステの栄光へと弟子たちを回復させます。十字架と復活の主を信じる者が洗礼を受けて教会を形成し、救いへ向けて聖霊によって清められ歩むことは主イエスの栄光なのです。私たちは先行する恵みに囲まれています。教会がそれに気がついて伝道し、恵みから恵みへと信仰が深められますことを祈っています。