「救い主を迎える備え」
説教集
更新日:2024年04月06日
2024年4月7日(日)復活節第2日主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙 橋 潤
マタイによる福音書3章1~12節
1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8 悔い改めにふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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聖書には、多くの預言者が登場します。神の言葉を告げ知らせる預言者がどのように誕生したのでしょうか。主イエスが弟子たちに声をかけたように神の働きかけを通して預言者が生まれたのではないかと想像します。預言者の存在は、はるか昔、古の時代にはじまりました。名もない預言者も少なくないと思われますが、名だたる偉大な預言者が活躍しました。預言者は神の言葉の代弁者として、民衆に対しても権力者に対しても、時の王に対してであっても神の言葉を伝えました。代表的な預言者には、三大預言書を残しているイザヤ、エレミヤ、エゼキエルがいます。ホセア書からマラキ書まで 12 人の預言者は記述預言者として知られています。エリヤやエリシャという偉大な古代の預言者が有名です。文書を残していないこの預言者たちは行動の預言者として覚えられています。古代より預言活動の最後の預言者は、誰なのかという問いがあります。現在も預言者としての使命が教会に与えられていると考えれば現代まで続いていると考えることも出来るのかもしれません。しかし、聖書における最後の預言者は、誰か。ある研究者は、最後の預言者こそ洗礼者ヨハネであると考えています。
そうであるならばマタイによる福音書が主イエスの伝道開始の直前に洗礼者ヨハネを記している意図は、旧約聖書の全ての預言者の伝統を継承している者として最後の預言者の登場を記していると考えて良いのではないでしょうか。マタイによる福音書は洗礼者ヨハネの言葉を通して旧約時代の全ての預言者の信仰を受け継ぎ、最後の預言者として、与えられた使命を果たすために語っているのです。最後の預言者に与えられた使命とは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」という 2 節の言葉を告げることです。旧約の預言者の総まとめとして、ここに最も大切な神の言葉を告げていると理解したいと思います。救い主メシアを待望する神の民に対して、最後の預言者として、全ての預言者の働きを継承した預言者の中の預言者として、救い主の到来を語っているのです。それが洗礼者ヨハネの出現です。
洗礼者ヨハネは、主イエスが伝道を開始する直前、紀元25年頃、荒れ野で預言者として活躍しました。らくだの毛衣をまとい、皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていました。神の裁きが迫っていることを力説して、悔い改めて神の義の道を歩むように、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。
洗礼者ヨハネは預言者として、時の王ヘロデアンティパスに対しても毅然として神の裁きの言葉を語りました。洗礼者ヨハネは王が自身の兄弟の妻を奪った罪を厳しい言葉で指摘しました。洗礼者ヨハネの王に対する神の言葉による非難が原因で逮捕され監禁され、とうとう斬首されてしまいました。
本日与えられた聖書の御言葉は、洗礼者ヨハネが荒れ野において預言者イザヤの預言の言葉を語った所です。「悔い改めよ。天の国は近づいた」に続けて、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」と語りました。
洗礼者ヨハネについて理解することは、神と神の民にとって、預言者とは一体どのような存在だったのかを知ることになります。洗礼者ヨハネは最後の預言者として、すべての神の民に対しても、王に対しても「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語ります。洗礼者ヨハネの言葉が神の言葉であることは、預言者イザヤの言葉を引用しているということからも分かります。しかし、それ以上にこの言葉が神の言葉であるということの根拠は、主イエス・キリストの伝道開始の言葉と同じであることによって証明されています。主イエス・キリストの伝道開始での第一声が、この洗礼者ヨハネの言葉とまったく同じ言葉を語ったとマタイによる福音書は伝えているのです。マタイによる福音書 4 章 17 節です。
「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」この御言葉は、洗礼者ヨハネが主イエス・キリストと同じ言葉を語っていることに気付かせようとしています。伝道を開始した主イエスの登場に先立って、預言者イザヤを思い起こさせつつ、主イエスの第一声を聞く前に、洗礼者ヨハネが神の言葉を聞く備えをしているのです。洗礼者ヨハネは最後の預言者として、イザヤの言葉を用いたのです。救い主メシアを待望し続けた旧約聖書の歴史が終わり、神の民が待望し続けた救い主が登場する直前です。この救い主こそ主イエス・キリストであると宣言しているのです。
洗礼者ヨハネの言葉を通して、私たちは真の救い主を迎える備えへと招かれているのです。最後の預言者である洗礼者ヨハネを通して、多くの預言者が語り続けた神の言葉の中心を知る時、私たちは救い主イエス・キリストに出会う備えを求められているのです。
そのためにも第一に救い主の到来のためにヨルダン川で洗礼を授けていたヨハネの言葉をしっかりと聞かなければなりません。それは第一に「悔い改め」について正しく理解することです。ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」と語りました。洗礼者ヨハネは洗礼を受けにきたファリサイ派やサドカイ派の人々に対して「よくいらっしゃいました」とはいいません。そうではなく「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな」と語りました。ユダヤ教の伝統に生きていたファリサイ派もサドカイ派もアブラハムの末裔であることを誇りに生きていました。しかし、最も頼りにしていたアブラハムにすがることは罪であると語っているのです。どういうことでしょうか。
ヨハネの言葉はファリサイ派サドカイ派にとって大変耳障りでありました。私たちこそ神に選ばれた選民であり、信仰上の特権階級であると自負していた人々です。彼らにあなた方こそ最も深い罪人であると告げているのです。あなたがたの罪のために神は怒っているのだとさえ語っているのです。
悔い改めるということは、罪の実体、罪の本質を知らなければ本当に悔い改めることは出来ません。悔い改めるということは、少し良いことをして、罪をなるべく犯さないように心がけるということではありません。そうではなく神を神として神の方へ体全体を向けて、人生の姿勢を神に向け、神に立ち帰ることです。神と私の関係が問われ、自己中心の生き方から神を中心に生きる生き方へ方向転換することです。神の御前に立ち、神に背を向けていた私たちが方向転換して神の方に身も心もまっすぐに向かうことです。悔い改めは気持ちの問題ではありません。決心し直すということとも違います。心も体も完全に神に向けて、神に立ち帰ることなのです。完全に神だけを神として生きることです。それが洗礼者ヨハネが語る「悔い改めよ」という言葉の意味です。悔い改めて神に立ち帰るのに、神との関係が近いことを誇りとしていた人々がいます。悔い改めるとき、イスラエルの神の民であるという特権は何の足しにもならないのです。現在で言えば、教会に昔から来ているとか、牧師の家族であるとか、そういうことは悔い改める際には何の特権にもならないということです。神の御前には、特別な人間も誇り高き人も一人もいないのです。神の御前に誇ることの出来る者などあり得ないのです。神の御前に立つ私たちはすべてのものが罪人でしかないのです。罪がない人などいないのです。ゆえに、ありのままで罪赦される人など一人もいないのです。すべての人がヨハネの前でも主イエスの御前でも悔い改めなければならない一人一人なのです。
預言者の働きはここまでです。私たちを悔い改めへ導く所までです。罪の赦しの権能は、預言者には与えられていないのです。水の洗礼までがヨハネに与えられた職務だからです。その先の罪の赦しの権能は神だけがもっているのであり、人間である預言者には、悔い改めへ導き、神の御前に出ることまでが預言者の働きだからです。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」と洗礼者ヨハネと主イエスがお語りになりました。しかし、言葉は同じでもヨハネが語る言葉の意味と主イエスが語る同じ言葉の意味では、まったく違うということを理解したいと思います。
ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語るとき、人間の言葉として神の御前に自ら悔い改める者の先頭に立って、天の国が近づいたのだ、主イエスが来られるのだ、だから、私たちはいまこそ悔い改める時を迎えたと語り、救いの予告を語ったのです。しかし、主イエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語る時、天の国が近づいた、天の国が来た、悔い改めの時が来たと神の言葉の宣言を私たちは聞くことになるのです。
ヨハネすなわち人間が語る「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、神である主イエス・キリストがお語りになる「悔い改めよ。天の国は近づいた」にはまった違うことを理解したいと思います。
その違いについて、洗礼者ヨハネ自らがこう告げています。
「11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
洗礼者ヨハネがこのように語った言葉はとても大切です。最後の預言者である洗礼者ヨハネは、真の救い主である主イエス・キリストの到来と真の聖霊による洗礼が主イエスによって行われること、そして罪の赦しの御業を行う方の到来を語っているからです。
洗礼者ヨハネによる水による洗礼は聖霊なる神によって裏付けられなければ、何の値打ちもないからです。神の御業としての洗礼でなければ意味はないのです。「天の国が」来てはじめて、洗礼が神の御業となり、洗礼によって罪の赦しが実現するのです。
「天の国が近づいた」とは、神の国、神の御支配が実現するということです。主イエス・キリストの伝道が開始され、神が私たちの所に来てくださったという宣言です。だから、私たちは神の御前に悔い改め、罪の赦しを求め、救いへの道を歩くことが赦されるのです。
復活節の歩みは、お一人お一人が授かった聖霊による洗礼の意味を受け止めることです。この洗礼によって、神の御業として罪の赦しが、救いのしるしとして与えられているのです。神の赦しは不完全であるはずがありません。神の憐れみと赦しを感謝して受け止めたいと願います。