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銀座の鐘

「今は憐れみを受けている」

説教集

更新日:2024年04月20日

2024年4月21日(日)復活節第4日主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦

ペトロの手紙一2章9~10節

 教会の礼拝は神をまことに神として礼拝します。それ以外の目的を持っているわけではありません。ですが、神をまことに神として礼拝することは、私たちが神の民とされていることを含み、神の民として信仰が強められることも含まれているのではないでしょうか。信仰が強められることによって、人生に降りかかる色々な試練にも耐え、世の苦難にもうちかって、神を信じる喜びと平安のうちに、希望をもって生きることになると思うのです。それでは、信仰が強められるには、どうしたらよいでしょうか。
 今朝の御言葉は、「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民」と告げ、さらにあなたがたは「神のものとなった民」と続きます。言葉を幾つも重ね、全部で四つの表現で、「教会とは何か」ということを語っています。これは、信仰生活の確かさや信仰を強めることと無関係ではありません。この手紙は、「各地に離散し、仮住まい」として地上の生活を歩み、その中で試練を受けているキリスト者に宛てて記されています。そのことはこれまでも度々申し上げてきました。今朝の箇所は、この世の試練で弱っているキリスト者たちに、「教会とは何か」をしっかりと知らせようとしています。そのために旧約聖書の中から神の民・イスラエルを呼んだ重要な称号を取り出して、教会を説明しています。
 ということは、信仰が強められるためには、「教会とは何か」を知る必要があるということでしょう。もちろんその前に、神について、神がいかなる被造物とも比較しようのない全能の創造者であること、そして主イエス・キリストによる神の働きを知る必要があります。主イエスの深き愛と父なる神の憐みによる救いの御業を知らなければなりません。それさえ知れば十分だとも言えるでしょうが、今朝の箇所は、それに合わせて教会を知ることの大切さを語っています。信仰生活は教会と共に、また教会の中で生きられる生活だからです。
 キリスト者はいつでも試練を経験するものです。ペトロの手紙も試練多き時代に記されました。ローマ帝国の支配が行き渡った時代で、ときにはその帝国のために信仰の迫害に悩まされました。教会の大部分の人は、ユダヤ人でなく異邦の人々でした。教会を理解することは難しかったかもしれません。人数の上からも、また社会的な影響力や文化的な力の上からも、教会はなお見すぼらしく見えたでしょう。あらゆる面から貧しく見えたと思われます。また世のあり様を見て、教会は何をしたらよいのか、今していることでよいのか、そういう不安もあったのではないでしょうか。
 しかし教会への疑いは、信仰を弱くします。信仰が強められるためには、教会と共に、また教会の中で確信を与えられなければならないでしょう。そして教会として世に存在する意味、そしてその使命を知る必要があります。要するに「我は教会を信ず」と言えるということです。キリスト者は国家や帝国を信じません。色々な人間集団、文化団体、芸術団体、スポーツ団体、あるいは企業団体、福祉団体それぞれ意味のある人間集団があり、もちろんそれらに参加することもあります。しかし「われはそれらの団体を信ず」とは言いません。教会を信ずです。世の人々には教会は、理解し難いでしょう。キリスト者はなぜ教会を信じ、その使命に確信をいだくのでしょうか。
 それは教会が神の働きによっているからです。「選ばれた民」とあるのは、神の選びがあることが、決定的な教会の存在理由だからです。そして「聖なる国民」とは、神のものであり、その点で他のものと違っているということです。教会は他の視点からは分かりません。どんなに統計的に、あるいは社会学的に貧弱に思われようと、神が教会を選び、御自身のものとして、他と区別して聖なる民にし、「神のもの」とされました。「王の系統を引く祭司」については、真の祭司であるキリストにあずかり、教会の中でキリスト者が互いに祭司として執り成し、世の人々を執り成す務めに加えられてるということです。この個所はこの直前、前回学んだ箇所と共に「全信徒祭司制」の根拠になったことを申し上げました。今朝はもう一つの表現に注目したいと思います。「神のものとなった民」とあります。それが「あなたがた」だと言われます。教会は、隆々たる帝国でもなければ、巨万の富を持つ企業でもありません、時代の中でほとんど無視され、時には邪魔もの扱いされるかもしれません。しかし神が選んで、御自分のものとし、つまり聖なる民とし、「神のものとなった民」になさいました。この表現は特に申命記 7 章から来ています。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」とあります。「神のもの」ということは「神の宝」とされたという意味です。そうされた理由は何かと言えば、あなたの数が他のどの民より多かったからではない。つまり堂々たる民だったからではありません。むしろ「あなたたちは他のどの民よりも貧弱だった」とあります。それでもなお選ばれ、宝とされたのは、「あなたに対する主なる神の憐みの愛のゆえ」だと言うのです。
 その主なる神の愛の業は、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった」と言われます。この「招き」は主イエス・キリストにある神の救いの御業、「力ある業」と言われます。教会は、暗闇の中から光の中へと招き入れられた者たちです。暗闇は、神を神としない、神を無視した世界です。その結果、神でないものを神として恐れたり、自分自身を神の位置に置いて我儘勝手に振舞い、そして当然のこと進むべき方向を失い、不安の中に置かれます。暗闇はまた混乱や争いの世界です。そこからイエス・キリストにより、神の力ある業によって驚くべき光の中へ、神の救いの中へ、神の命と平安の中に入れられたのが教会です。教会を「宝の民」として集め、光の中に招き入れ、意味ある、確かな生活に招き入れてくださったのは、神の愛であり、神の力ある業です。それで教会は、その神の愛の業、力ある業を伝えます。それが教会の使命です。どんな時にもこれを伝える、私たちを宝の民としてくださった神の憐みの力ある業を伝える。それが教会の使命です。
 ペトロはこの暗闇から光への救いの転換を預言者ホセアの言葉で説明しました。「かつては神の民でなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐みを受けている」と言います。預言者ホセアは、一見して異常行動の預言者です。「淫行の女をめとり、淫行による子らを受け容れよ」と神から言われ、そのようにしたと言われます。異常な預言者のその異常な行動は「イスラエルの民の罪」、人間の罪の異常性を示しています。彼がめとった婦人ゴメルの淫行の罪の結果、生まれた女の子に、ホセアはロ・ルハマ「憐れまれない者」と名付け、続いて男の子が生まれると今度はロ・アンミ(わが民でない者)と付けました。耐え難い名です。これで家族が持つはずはありません。それは人間の不真実、罪で神様との関係は持たないし、人間関係も破れるほかはないわけです。人間の罪の耐え難さが明らかです。しかしそこに神は救いをもって大逆転を起こします。暗黒から光へと、苦しみと死の状態から、救いと命の平安に移してくださる。そのとき「兄弟に向かってアンミ(わが民)と言え。姉妹に向かってルハマ(憐れまれる者)と言え」と言うのです。ペトロはこの逆転が主イエス・キリストにおける神の憐みの業で、かつては「神の民」でなかった異邦人が、今は「神の民」、「今は憐みを受けている」と語ったわけです。
 教会の今は神の憐みの中にあります。主イエス・キリストによって神の憐みの「力ある業」の中に置かれています。神の力ある業によって光の中に、命と平安の中に生かされています。これを教会は伝えます。今の世界の混乱状態にあって、教会に何ができるかと問われるならば、回答は明らかです。教会は、教会以外にはなし得ないことをします。暗闇から光へと招き入れてくださった方の「力ある業」を伝えることです。「今は憐みを受けている」と伝えます。何ものも神の憐みから私たちを引き離すことはできないと伝えます。それをするのが教会です。

 憐れみ深き永遠の父なる神様,「今は憐みを受けている」と聞くことができ、感謝して御名を讃えます。世界各地に混乱が起こり、解きほぐしにくい罪の中に人類が置かれていることを思わされます。またどの一人一人の日々の営みも暗闇の中に置かれているように思われてなりません。ですが、主イエス・キリストにおけるあなたの力ある業により、今は憐みを受けていることをしっかりと受けとめることができますように。そして主キリストにあるあなたの力ある御業を広く伝えていくことができますように、聖霊の注ぎを乞い願います。世界のキリスト教会が、生き生きと福音を聞き、そして伝えることができますように、その中でも特に日本の諸教会を憐れみ、力づけてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。