「主イエスの招き」
説教集
更新日:2024年05月04日
2024年5月5日(日)復活節第6日主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書4章18~22節
18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
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伝道を開始した主イエス・キリストは、ガリラヤ湖のほとりを歩いていました。主イエスは網を打っている漁師兄弟、網の手入れをしている漁師兄弟に目を留められ、この二組の兄弟たちに声をかけました。この4人は、ペトロと呼ばれるシモンとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネです。主イエスは彼らに「わたしについて来なさい」と声をかけました。彼ら4人は主イエスの声を聞いて、すぐに網を捨てて、舟と父親を残して主イエスに従いました。
主イエスに従った
この御言葉によって示されていることは、この4人の考えや計画ではなく主イエスの招きが先にあるということです。主イエスの呼びかけに答えてすぐに彼らが主イエスに従ったということです。4人の漁師がすぐに従ったということが強調されています。私たちの場合、主イエスの弟子になるために自分の家族の事や仕事のこと、将来のことなどよく考えなければならないと思います。しかし、そのようなことについては一言も語られていません。すぐに従ったというのです。これが弟子たち一人一人、あの日を振り返っての記憶です。
神の声を聞いた漁師
この 4 人の漁師は、仕事を辞めたかったのではありません。主イエスに従う前、この漁師たちは魚がうまく捕れないとか、人生に悩んでいたとか、生きる希望を失っていたということは何も記されていません。主イエスに従ったこの漁師たちの個人的な事情や心の問題などが最重要な問題ではないかのように記されています。ただ主イエスの声を聞いて、人間の諸事情ではなく、神の声を聞いて、神に従っていったのです。神の招きの前に私たちの計画は小さくなるのです。ガリラヤ湖は魚が豊富な湖で、古くから現在に至るまで漁が盛んです。現在のガリラヤ湖では体長30センチ、1.5キロほどの味も良い魚が「聖ペトロの魚」と呼ばれています。この魚の他にもガリラヤ湖には、体長80センチ7キロにもなる大きな魚や小ぶりの魚もいます。中でも塩漬けにして保存食とする「キネレトいわし」も大漁にとれることで有名です。旧約聖書の時代、ガリラヤ湖はキネレト湖と呼ばれていました。「キネレト」とは竪琴に由来する言葉です。この湖の形を竪琴に見立てて名付けられたようです。ガリラヤ湖の浅瀬からは主イエスの時代の舟が発掘されています。この発掘された舟は長さ8メートル幅 2.5 メートルレバノン杉で出来た木造船でした。主イエスの最初の弟子となったペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネらは、このような舟に乗ってガリラヤ湖で漁師として働いていたのです。古代のキリスト教会において魚の図は私はキリスト者ですという信仰を表現する印として用いられました。魚は7文字のギリシャ語でイクスースと発音します。この7文字を頭文字として、信仰告白の言葉が作られました。それは「イエス・キリスト、神の子、救い主」という言葉です。特に迫害下のキリスト者はお互いキリストを信じる信仰者であることを確認するために、魚の絵を使いました。ガリラヤ湖畔に建てられた教会の遺跡から魚の絵が描かれているモザイクが発見されています。主イエスに従った漁師たちは主イエスに従ったあと、挫折を乗り越えて、信仰の印として魚の印を誇りとしていました。
主イエスの声に聞き従った4人の漁師たちが主イエスに従った理由は、人間の事情ではなく神の言葉でした。彼らは、自分の考えや自分の計画ではなく、主イエスの声のみに従ったことの素晴らしさが示されているのです。主イエスから声をかけられたとき、神のみ声を聞き神に出会いました。この瞬間が人生を変える決定的な出来事となったのです。
主イエスの伝道の言葉には力がありました。マタイによる福音書4章1節以下に記されているように、主イエスの言葉は、悪魔の誘惑を退けるだけでなく、一人一人を生かす力をもっているのです。主イエスを疑い主イエスが神であるかどうか吟味する余地はまったくありませんでした。最初の弟子たちは神を試すことなく主イエスに従いました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」という主イエスの伝道の言葉は、このように神から一人一人への語りかけによって実現していきました。主イエスに従う弟子たちの心を捕らえ、彼らの心に神の言葉が響きつづけるのです。
主イエスの選び
主イエスの声を聞いて従う出来事には通り過ぎてはならない大切なことがあります。それは、主イエスの眼差しです。18節と21節の「ご覧になった」とあります。主イエスが「ご覧になった」という言葉はただ単に見かけたということではなく、神が一人一人を直視した、主イエスが彼らの一人一人の心の中を「訪ねた」とも訳せるのです。主イエスは漁師たちを単に見たというのでなく、神の眼差しで見られたという、神の決定的な出来事が記されているのです。それが主イエスが「ご覧になった」と記されているのです。
神の眼差しによってご覧になったとは、少なくとも人間同士の比較や人間の評価が入り込む余地がないことを意味していると思います。私たちであればどんな漁師だったのかどんな兄弟だったのか漁師としての技量はどうだったのかなど、人間の評価がつきまといます。しかし、神が「ご覧になった」のですから神の評価による出来事です。主イエスの招きは、このあとも多くの人々に伝えられ弟子が生まれます。
主イエスが近づいて声をかけた人々はどのような人でしょうか。世間の評判が高く、社会的に評価された人でしょうか。主イエスが招いた人々は、必ずしも評価の高い方々ではありません。神の国が遠いと考えられていた人々が少なくなかったのです。神の評価は人間の評価と明らかに違います。主イエスに招かれたそのような人々は、自分の職業を捨て、家族を捨て、献身していきました。
主イエスが考えている救いの計画は、この弟子選びに表れています。神の救いは個人個人の魂の救いというより信仰共同体の実現です。主イエスの選びによって神の国、教会が実現します。神の愛を一人一人がしっかりと知り、受け入れ、応えていく信仰者の群れ、集会です。神の愛に応答して自分を愛し、隣人を愛する共同体が地上に形成されます。「神の国が近づいた」と宣べ伝えられ御言葉が実現するのです。
主イエスの招きは神の選びです。神の評価による選びです。ですから、なぜ主イエスは漁師を選んだのか、なぜ神はあの人を選んだのか、なぜ神はこの私を選んだのか、その理由は私たちの常識や評価で勝手に決めてはならないのです。神が「ご覧になった」神の眼差しによる深い愛の選びなのです。主イエスの弟子についても私たちについても神の選びの理由は私たちには分からないのです。神が教会に集まる私たち一人一人を招いてくださったことをそのまま受け止め、私たちはただただ感謝して従いたいと思います。
神の国としての教会形成
主イエスの選びは、12弟子を形成しました。この御心によって教会が形成されます。神の救いのご計画が実現します。主イエスの独創的な神の国理解が漁師を人間を取る漁師にして神の国を実現しているのです。神は罪人を招き用いて教会を形成するのです。私たちが教会員になる資格を決めたり、条件を付けたりすることは出来ないのです。ひたすら神に祈り神のみ心を求めることを第一としなければならないのです。神の救いのご計画は、罪人を愛し、罪人を招き、罪人を赦し、神のご計画のままに用いようとされているのです。そして、神と教会を愛する器に変えていただくのです。
主イエスの弟子たちの中には、当時のユダヤの社会では考えられないような人々が招かれていました。ユダヤ人だけでなく異邦人が招かれました。性による区別もなく子どもも弱い者も「ご覧になって」招かれているのです。主イエスは当時の常識では考えられない、徴税人や罪人と交わり食事をしました。神の招きを受けることなど夢にも思わなかった人々は驚きました。神から最も遠い存在だと決めつけていたからです。しかし、主イエスは、差別も区別もなく、愛の対象にしてくださり、私たちをご覧になってくださるのです。
マタイ福音書20章20節以下、ヤコブとヨハネとその母が主イエスの所に来て、主イエスが王座におつきになるとき、息子のヤコブとヨハネを右大臣、左大臣にして主イエスの左右に座らせてくださいと頼んだ話しが記されています。ヤコブもヨハネもすべてをささげて献身しました。しかし、献身したのだから天国の地位を約束してもらうということは、神の国を理解しているようで理解していないといわなければなりません。神に従い献身することが恵みであって、それ以上の御利益を得る必要もないし権利があるなどと考えてはならないのです。この地上でも天上でも神の御支配にあずかることが大切なのです。私たちが神と教会に仕えるのは、天国で大臣になるためではなく、神の御支配の中で神に愛されていることを最高の喜びとすることです。自分自身を愛し、隣人を愛する信仰共同体が実現することこそ最高の恵みなのです。神の救いの御業を喜び、感謝して生きる、教会生活を大切にしたいと願います。