「本当の幸せがここに」
説教集
更新日:2024年05月11日
2024年5月12日(日)復活節第7主日 銀座教会 主日礼拝 副牧師 川村満
マタイによる福音書 5章1節~12節
1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3「心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、
その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、
その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、
その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである、
その人たちは神を見る。
9 平和を実現する人々は、幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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・主イエスの幸福宣言
今日、わたしたちに与えられた御言葉は、山上の説教と言われる御言葉です。この山上の説教はとても長く、5章から7章まで語られています。今日はその、まず初めに語られた、「八福」と呼ばれる個所を共に聞いていきたいと思います。(銀座教会では、毎週、福音主義教会連合の教案に沿って礼拝の説教をしております。本来、この5章3節から10節の8つの主イエスの宣言は、それぞれ、この一句だけで説教できるほどに内容の深い御言葉ですが、与えられたテキストが1節から12節ですので、今日は、この八福の言葉を全体的に学ぶことを中心にしつつ、最初の言葉「心の貧しい人は幸いである」という御言葉にも注目したいと思います。)
この、山上の説教を、今日初めて聞いたという人もあるいはおられるかもしれません。でも、聖書を読みなれたほとんどの人たちにとって、この主イエスの御言葉は慣れ親しんだものではないでしょうか。しかし、この主イエスの山上の説教を何度か礼拝で聞いてはおりましても、やはりまだまだわたしたちの御言葉としてその心に深く浸透してはいないなと思う人の方が多いのではないか、と思います。心の貧しい人は幸いである。この御言葉だけを取り上げて字義どおりにとるならば、まずわたしたちの心に思うことは、大きなクエスチョンマークではないでしょうか。心が貧しい人が何で幸いなんだ!そんなの不幸に決まっているだろう。そう思うのが普通です。その次にある御言葉は、もっと不思議です。悲しむ人々は幸いである。悲しんでいる人が幸いなわけがないだろう。誰もがそう考えるでしょう。悲しみは、不幸です。辛いことがなければわたしたちは悲しむことはないからです。心は豊かであるほうが良いに違いないし、心はいつも朗らかで、楽しい方が良いに決まっているからです。それは小さな子供でも分かることです。たぶんきっと、主イエスが山の上で、どっかと腰を下ろして、群衆の前で、語り始められたときにも、わたしたちと同じ疑問が、人々の心に思いめぐらされたのではないでしょうか。彼らも、幸せを求めていました。そこには、あらゆる苦しみの中にいる人たちが、主イエスの救いを求めてやってきたのです。そこには、病気を癒してもらいたい。ただそれだけの理由で、どんな病をも癒すイエスという人がいるという噂を聞いて駆け付けただけの人も多かったかもしれません。そして病気を癒されたならそれでいい、と思っていた人もいたかもしれません。しかし、ここで聞く主イエスの御言葉は、この地上の命を長らえさせるための良い教えとか、人生の処世訓、とかいったものをはるかに超えたものであったのです。主イエスが山上で語られた説教。それは、教えというよりもむしろ宣言でありました。この長い説教を語り終えられたとき、群衆はその教えに非常に驚いたとあります。なぜか。それは彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。7章の最後にそのように記されます。主イエスは、単なるラビ。教師ではありませんでした。律法学者たちのように神の律法の意味を教えたり、戒めたりするというのではなく、神の権威をもって、神の国の幸いをここで宣言されたのです。そしてそのとき、すでに神の御支配。神の恵みの臨在と祝福が、そこにいた人々を招き入れたのです。そこに、確かな幸福がきたのです。群衆はそこにただならない驚きを感じました。そして、わたしたちもまた、このような驚きへと招かれているのです。
・神が共におられる幸い
群衆が驚いたのは、主イエスの語るその言葉に、神様の権威を感じたからです。もっといえば、主イエスがそこで御言葉を語られるとき、そこには、世のもたらす幸福を越える、もっと大きな幸福があることをそこに垣間見たのだと思うのです。そしてそれは、貧しさや悲しみ。飢え渇きや、迫害の苦しみの向こうにある、神様の大きな支配です。天からの祝福です。そのような大いなる祝福へと招き、神様の祝福の中で、幸いを語っていかれる。だから、ひとつひとつの言葉に理由があります。心の貧しい人々は幸いである。なぜなら、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は幸いである。なぜなら、その人たちは慰められる。なぜ幸いであるのか。神がその人と共におられるからです。そして、神がその人を支えてくださるからです。神が、その人を、貧しさの中で、悲しみの中で、共に生きてくださるからです。この、主イエスの語られる幸いには共通するものがあります。それは、神の御支配にある幸いということです。地上的な、苦しみも、地上的な楽しみをも超える、本当の幸いへとわたしたちは招かれている。神が共に生きてくださる。そのことを知るとき、この世でどれほど貧しくても、悲しみがあろうとも、やがて主がわたしたちを富む者としてくださる。やがてわたしたちの涙はぬぐわれ、喜びで満たされる。たとえ迫害されたとしても、その苦しみは主イエスのためであるのだから、必ず報われる。主の祝福の中にあることがどれほど大きな幸いであるのか。神との正しい関係に生かされること。神に知っていただき、神の恵みを知り、神の霊に導かれて生きることがどれほどに大きな幸いであるか。それは、この幸いが、この地上での歩みにとどまるのではなく、地上を越えた、新しい世界に至る幸福だからです。
・神様との関係の回復からくる祝福
聖書のはじめに創世記があります。創世記で語られていること。それは、神がわたしたち人間を創造されたということ。そしてわたしたちは神を賛美し、神に栄光を帰すために造られたのだということです。神の愛を受けて、神に応答する存在として造られたにもかかわらず、罪に堕ちて、神との関係の破れが生じた。それが罪であるということを創世記は語ります。命の神との断絶。それが死を生んだのだと。人間が死ぬものとなってしまったのは、神との交わりが途絶えてしまったからです。神との関係の回復の中にこそ、人間の本当の幸福があるのです。しかし、神を知らなかったとき、わたしたちの求める幸福は、地上的な幸福に限られていました。どれだけ長生きできるか。健康でいられるか。無病息災。家内安全。商売繁盛。そういったものが幸福であると思っていましたし、今もそう思っているところは確かにあるでしょう。しかし、そのような目に見える幸福があったとしても、最終的にわたしたちは必ず死ぬのです。誰もが死を恐れます。死という現実を見ないようにします。あるいは諦めます。しかし、主イエスが語ってくださる幸福の宣言は、全ての苦しみも悲しみも、そして死という、最大の不幸も超える力を持つ幸福の宣言なのです。なぜなら、その宣言をしてくださった主イエスが、命の主としてこの地上に来てくださったからです。そしてわたしたちと神との関係の断絶を修復して、正しい関係にもどしてくださったからです。わたしたちの罪を負って十字架におかかりになり、死んで復活してくださいました。この復活の命を、信じる者全てにお与えくださいます。そのとき、わたしたちは死のさなかにあってもなお、神と共にあることを知らされます。これこそが、最大の祝福です。地上の幸いを越える幸いなのです。天国は、死んでから行くところであり、まだまだ先の事だ。そのようにわたしたちは思っていたのではないでしょうか。確かに、今はこの地上に生きており、神は天におられます。その意味では、将来のことです。しかし主イエスが信じる者に与えてくださる聖霊において、同時に、すでに天国は今ここに来ているのです。天の国はあなたがたのものである。そのように宣言してくださる主イエスが、今も私たちと共におられるならば、地上において、天とつながり、天の支配の中に生かされているのです。祈りが聞かれること。御言葉が私たちの内に喜びとなること。不幸と思える出来事。病気や、悩みの中で、しかし耐える力が与えられること。そこには主の臨在と、祝福があるからです。キリストの命に与ることによる幸福が、わたしたちの人生の初めから終わりまで行き渡っているのです。その恵みに気付かされていくのです。
・神の幸いの中で知る貧しさ
この主の霊における神との間の平和。神からの祝福の中でわたしたちは、初めて気づかされることがあります。わたしたちが、どれほど、知恵があり、この世で成功しており、お金持ちであったとしても、神様の御前に、貧しい者であったということを知らされるのです。ここで語られる心の貧しさとは、神様の救い。主イエスによる罪からの救いがなければ、どうしようもなくみじめで、滅びに至る者であったということを知ることです。わたしたちは神の恵みの中に導かれてはじめて自分が罪人であることを知らされます。その自分の罪に悲しむとき、わたしたちは悲しんでいながらも、幸いなる者とされているのです。なぜなら、神の助けを必要とし、神からの救いを心からこいねがう者を、神は必ず救ってくださるからです。ですから、わたしたちは、人生の苦しみの日。悲しみの日。惨めな時、人間関係に苦しむとき、病気の時、高齢になり、若いころの働きができなくなりつつあるときに、孤独を感じるとき、死が間近に迫ってきたとき、まさにそのような全ての心の貧しさを感じるとき、主イエスがわたしたちを祝福してくださっていることを、この幸いの宣言を通して思い起こしたいのです。なぜなら、この幸いの宣言は、主イエスに招かれた全ての人々から決して離れることのない永遠の宣言であるからです。この御言葉は今日もわたしたちに語られました。今日、わたしたちは確かにこの主イエスの幸いの中に生かされているのです。
祈り
天の父なる神様。主イエス・キリストを通して、死を越えて生きる、新しい命の幸いを与えてくださり、その幸いの中で、わたしたちは罪を知り、悲しみも、貧しさも、与えられております。わたしたちがますます、神様の恵みなしには生きることのできない罪人であり、主が共に生きてくださっている幸いを心から喜ぶ者とならせてくださいますように。目に見える幸福、不幸に一喜一憂することなく、どんなときにも、主につながっている幸いを感謝する者とならせてください。成功や富もあなたが与えてくださるものですが、そのような目に見える恵みの中で、神様につながっている幸いを見失わないようにさせてください。苦しみや悲しみの中でも、あなたの祝福の中にあることを忘れないようにさせてください。この地上の全ての出来事が、神様の恵みを知る機会となりますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン