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銀座の鐘

「こう祈りなさい」

説教集

更新日:2024年06月01日

2024年6月2日(日)聖霊降臨後第2主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書6章5~15節

主イエスは、弟子たちに祈りの心得を教えられました。弟子たちはユダヤ人としてユダヤ社会で生まれ育ち、ユダヤ人として祈りをそれなりに理解し身につけていたと思います。しかし、その上で主イエスは弟子たちに祈りを教えているのです。
私たちもそれぞれの経験で祈りをそれなりに理解していると思います。そして、祈る心をもっていると思います。しかし、主イエスの祈りの教えにお聞きし、祈りの基本を学びたいと思います。私たちの心を一度空っぽにして、主イエスが弟子たちに教えた御言葉の前にひざまずき、主イエスの弟子として祈りの基本姿勢を整えたいと思います。主イエスの御前で、祈りを教えてくださいと心から願って、御言葉にお聞きしたいと思います。

「偽善者」
 主イエスは、弟子たちもよく知っている「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」人々を引き合いに出し、祈祷者である彼らを「偽善者」と呼びました。この祈祷者を「偽善者」と語ったのは主イエスだけだと思います。「偽善者」と呼ばれた人々は、当時のユダヤの社会では祈りの権威者であり、誰よりも熱心に祈る人々であり、最も尊敬されていた祈りの教師であったと思われます。古代ユダヤ教では、祈りは施しと並んで重要な慣習となっていました。祈りの時間が明確に決められていました。一日に三回、朝、正午、夕方には「18 連祷」という祈りを朗読することが義務とされていました。祈りはエルサレム神殿の至聖所の方を向いて行われていました。祈祷者は決められた時間、決められた場所で、人前で祈ることが公然と行われていました。
 このような祈りの習慣が主イエスの目には、熱心で立派な祈りの権威者ではなく、全く正反対「偽善者」なのです。社会的にも最も尊敬されていた祈祷者を主イエスは「偽善者」であると断言しています。それだけでなく「彼らはすでに報いを受けている」ともう手遅れであるかのように語りました。既に報いを受けているということは、この世の報いを受けてしまっていて、神からの報酬はもうないということです。
 この主イエスによるユダヤの祈祷制度に対して痛烈な批判が展開されています。この批判は主イエスの弟子たちにとっては、天地がひっくり返るほどの衝撃として受け止められたことでしょう。主イエスが指摘する偽善とはどのように理解したらよいのでしょうか。「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」人々は、人に見てもらおうとしているということです。神に熱心に祈っているようにみせかけて、実は人に見てもらおうとしているということです。ゆえに彼らの祈りは、みせかけの祈りであり偽善者であると見抜かれているのです。主イエスが教える祈りは、神と私の関係であって、他人の評価が入る余地はないのです。私たちの祈りが人から評価されることを意識したり、私たちが他者の祈りを評価したりすることは「偽善者」の行いであるといわなければならないのです。
 主イエスの御前に「偽善者」ではないキリスト者がいるのでしょうか。信仰生活の長い者も短い者も、自らの祈りの姿勢を振り返ってみたいと思います。私たちは人前で祈るとき、上手に祈りたいと思うのではないでしょうか。他者がどのように聞いているかどんな評価か気になるのではないでしょうか。その時大切な事は、人に聞いてもらおうとして祈るのではなく、神に対して祈っていること、主イエスとの密室での神との個人の祈りを土台としていることです。その上で、私たちは教会の祈り、礼拝献金の祈り、祈祷会の祈りを献げます。主イエスは私たちの祈りを期待し待っておられます。主イエスは私たちが一人で祈る祈りも教会の祈りも喜んで聞いてくださるお方です。
 主イエスが語られる「偽善者」とは誰なのか、自分自身の内なる偽善について点検することも祈りの生活では大切な事です。私たちの内なる「偽善」を覚え、神の御前に立たせていただき、悔改め、その上で、豊かな祈りの生活を整えたいと思います。
「異邦人のようにくどくどと述べてはならない」とあります。ユダヤ人の祈祷の権威者に対してだけでなく、ユダヤ人ではない異邦人の祈りに対しても主イエスは大変厳しい批判をしています。「くどくど」祈る祈りとは、ギリシャで神々の名前を沢山並べて祈ったり、いつまでも終わらない呪文のような祈りに対して語られていると思います。
 主イエスは、そのようなくどくど祈る祈りは、祈る相手である神がいないということを批判していると思います。くどくど祈って相手を祈り倒すような祈りは、人間同士の祈祷であって、神不在の祈り、神への祈りになっていないと批判していると思います。
 主イエスの「偽善者」というこの批判は、社会を混乱させるための無責任な批判ではありません。主イエスご自身が命をかけて、弟子たちが人にではなく神に、真の神に対して祈る者となるように、みせかけではなく真実の祈りをささげ祈祷者となるように命がけで教えているのです。

隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい
 主イエスは「6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。9 だから、こう祈りなさい。」
 主イエスが教えてくださった祈りの基本姿勢は、「あなたの父に祈りなさい」という御言葉に示されています。偽善にならない唯一の道は、私たちが父なる神の御前に一人でひざまずいて祈ることです。この基本姿勢を心に刻みたいと思います。朝でも夜でも、電車の中でもどこででも「自分の部屋に入って戸を閉め」て祈りましょう。この祈りが父なる神との生命線であり、最も大切な絆です。神の御前に立つために「戸を閉め」るのです。神と私以外、誰も入り込むことのない場所が「奥まった自分の部屋」です。そこに父なる神が待っていてくださるのです。私たちが一人隠れて祈る、その場に父なる神はおられるのです。私たちの祈りは、孤独ではなく神と共にいる、共同の祈りです。私たちの信仰生活の基地がこの部屋での祈りです。この祈りの部屋は聖なる場です。主イエスは祈るという特権を私たちに与えてくださいました。祈りは私たちに出来る、最高の行いなのです。

聖霊なる神の助け
 使徒パウロが記した御言葉です。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ 6:18)私たちの祈りは、一人孤独な営みではありません。聖霊なる神が助けて下さるからです。たとえ言葉にならない私たちの祈りであっても、祈るとき聖霊が助けて下さるのです。祈れないときこそ、主の祈りを祈ってください。言葉が見つからないとき、主の祈りを祈りましょう。私たちが主の祈りを祈る前から、主イエスが聖霊なる神と共に愛の交わりをもって私たちを迎えてくださいます。聖霊なる神様が祈り、支えてくださるのです。安心して、いつでもどこででも祈りたいと願います。
 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ 8:26)
 私たちが祈る前に、聖霊なる神は、私たちのために執り成してくださることが教えられています。私たちが祈るとき、執り成してくださる聖霊が同伴してくださっていることを思い出して、安心して神の名を呼びはじめたいと思います。整った言葉が思いつかなくても、まず神を「天の父なる神さま」と呼ぶのです。祈りはじめるのです。祈りの姿勢を整え、御前に沈黙します。この沈黙の時こそ、霊が執り成し、助けて下さる時です。

父が報いてくださる
 私たちの祈りには、父なる神の報いが用意されています。「報い」とは、私たちの行いの結果として私たちが受ける報酬です。報酬とは「労働の対価として給付される金銭や物」です。この世の評価という報酬ではなく、神様の評価という報い、神様が用意してくださる報酬だけをいただきたいと思います。キリスト者は神様からの報酬を楽しみに生涯を送ります。この世の評価ではなく神の評価を第一として「父が報いてくださる」ことを忘れずに信仰生活を全うしたいと願います。

主イエスの祈り
 ある宗教史の学者は、主イエスは「預言者たちと詩編詩人たちの祈りの敬虔(神につつしみ仕える)の完成者」であると語りました。主イエスの祈りは「祈りの世界の頂点」であるとも語られました。私たちは主イエスの祈りについて十分語ることは出来ませんが、主イエスの祈りこそが私たちの祈りの根拠であり、源であることを理解しなければならないと思います。主の弟子たちは、主イエスに私たちにも祈りを教えてくださいと願いました。主イエスは常に祈り、弟子たちは主イエスが祈っているそばにいました。一人祈られる主イエスは、モーセや預言者、詩人たちの祈りを継承し、祈りの世界を開いてくださいました。
 主イエスは神の名を呼ぶことを恐れていたユダヤ社会にあって、神を恐れすぎずアッバ父よと神を呼ぶことを教えました。遠きにいます神ではなく、近くにおられる父を呼ぶように祈りなさいと教えてくださいました。祈りの革命とも呼ばれる、当時の社会の祈りの常識が刷新されたのです。
 主イエスは私たちに先立って祈っていてくださり、真実の祈りの部屋へ招いてくださいました。主イエスの祈りの招きに応えて信仰生活を全うしましょう。