銀座教会
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銀座の鐘

「思い悩むな」

説教集

更新日:2024年06月08日

2024年6月9日(日)聖霊降臨節第4主日銀座教会 花の日・子どもの日 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師 川村満

マタイによる福音書 6章25節~34節

 ・主イエスが語る約束と慰め

 本日私たちに与えられた御言葉は、山上の説教の「思い悩むな」という箇所であります。皆さんの中にも、この箇所を愛唱聖句としている人は実に多いのではないでしょうか。この箇所についての多くの注解書や、説教がありますが、そのようなものを読んで学ぶことも大いに意味があると思いますが、何を助けにしなくても、初めてこの御言葉を聴く人も、慰めを得られるのではないでしょうか。子供でも分かる主イエスの御言葉の一つではないでしょうか。私自身、子供のころ、いつこの御言葉をはじめて読んだのかはもう忘れてしまいました。やはり、教会学校の説教を通してこの御言葉に触れたように思います。そのときの、空の鳥をよく見なさい、という御言葉が一番印象的であったようにも思います。思い悩まなくてもよい。最も小さな鳥たちのことでさえ神様は気にかけてくださっている。小さな花さえも装ってくださっている。あなたたちは鳥や花々よりもはるかに尊い存在である、父なる神様はわたしたちを御自身の子どもとして取り扱ってくださっている。だから大丈夫。こういう言葉は、小学生にもわかることであります。主イエスは、ここで、だから言っておく、とだから、だから、と3回も、言葉を変えながら、慰めに満ちた約束を、してくださっているのです。その約束とは何か。主はわたしたちの命そのものに、そしてその命が長らえる限り続いていく人生の全ての事柄において責任を持つとここで約束してくださっているのであります。なぜなら、わたしたちはまさに天の神を父親としてもつ者たちであるからであります。このマタイの6章の全体は、天の父と、キリストにおいて神の子とされたキリスト者の関係を語っているのです。だから、6章の9節からは、主の祈りが語られます。主の祈りとは、天の父に祈る祈りです。神の子供となった者の祈りです。ですから、「天におられるわれらの父よ」と呼びかける。そこでわたしたちは神を天に持つものなのだ、という自覚を与えられるのです。もっと確かな言葉でいうならば、天の父が、わたしたちを持っていてくださっているということを自覚するのです。つまりわたしたちは神の子である。神のものとされている。子供として取り扱ってくださっている。それゆえに、思い悩まなくてもよい。あなたの父となってくださった神があなたの人生に、本当に生きて働いてくださり、日々、責任を負ってくださるのだから、ということであります。この、ここで主イエスがわたしたちに語ってくださる「思い悩むな」という御言葉を、本当に信頼し、しっかりと受け止めていくならば、私たちは聖書の言葉を通して受ける慰めの大半を受け止めたことになるのではないかとさえ思うのです。主イエスはわたしたちに今日も語られる。明日も語ってくださる。信頼せよ。わたしはあなたの人生の主人だ。わたしはあなたの命の主だ。天の父が、あなたを今日も守り導いてくださる。そういう確かな約束がここで語られるのです。
 主イエスはここで、「だから」と言う言葉を三回も用いて、思い煩いを禁止しておられます。まず初めにこう言われる。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」実にわたしたちは、自分の命のことでいつも思い悩んでいるのではないでしょうか。わたしたちがこの地上に生を受けてから、死ぬまでの歩みについて、わたしたちは泣いたり、考えたり、迷ったり、苦しんだり、時には怒ったりしています。いつも何かしら思い悩んでいるのです。でもここで主イエスは言われます。食べること、飲むこと、衣服をまとうこと。それらはわたしたちの命を保つために確かに大切なことでありますけれども、その命そのものを生かしてくださっているのは、わたしたちの命の創造主である天の父なのだ、と。そのことを忘れて、この地上の生活の全てを潤すことができたとしても、もっとも本質的なことを忘れてしまうとき、わたしたちは本当に生きているとは言えないのであります。もっとも本質的なこと。大切なこととは何か。神がわたしたちの命を、今日も生き長らえさせてくださる方であることをわきまえるということであります。

・空の鳥。野の花。そして、寿命を延ばすことについて

 主イエスは、ここで、空の鳥と野の花を見なさいと言われます。この広大な大自然の中の小さな命。小さな一羽の鳥。天の父は、この世の数えきれない鳥たちの中の一羽の鳥を知っておられるのです。なぜなら、その一羽をお造りになられたのは主なる神であるからです。それゆえに、主は全てのこの地上の鳥を知っておられる。そしてその鳥を養うのは、神なのであります。どの一匹も、自分の力だけで生きている鳥はいないのです。全ての動物も、植物もそうなのであります。鳥たちは、人間がするような、種を蒔いたり、刈り入れをしたりというような農作業をしているわけではありませんけれども、神は鳥たちを養ってくださっている。もちろん、鳥たちは自分に与えられた力で働いているのです。卵を産み、子供を養い、餌をさがして、子供を養っているのです。わたしたちも、一所懸命に働かなければなりません。この言葉はわたしたちに怠惰を促すような要素はひとつもありません。しかし一所懸命に働き、今日できることをする、その力を与えてくださるのは主なる神であるのです。神の恵み、神の力を与えられて今日もわたしたちは働く。その働きを主は支えてくださいます。
次に、野の花の装いについて語られます。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」ソロモン王は、日々、質素な服を着ていたということではありません。ソロモンは豪華な、仕立てられた服装をしていたのです。しかし、それは、神が造られた一つの美しい野の花の完全な装いには遠かったのです。つまり、神がお造りになられたこの小さな花という植物の一つにも、神の創造の神秘的な美しさ。神の足跡が宿っているのだということです。そして、そのような小さな野の花。明日はもういらないからといって雑草と一緒に炉にくべられてしまうような野の花でさえも、神の神秘の片りんを宿してくださっているのならば、そして、小さな鳥さえも、その御摂理の下に置いてくださるのならば、あなたがた人間にはなおさらだと主イエスは言われる。なぜなら、わたしたちは、この世界の神の創造の冠であるからです。もっともすぐれた存在、もっとも高い存在として、神は人間をお造りになられたからです。そして他の被造物には不可能なこと。神との生きた交わりのために創造してくださった。わたしたち人間とは、神に応答し、神に栄光を帰すために造られたのです。それほどに高価なもの。尊い者とされているわたしたちの地上の命を、主が顧みてくださらないはずがないのです。思い悩んだからといって寿命をわずかでも延ばすことができようか。これは、健康のために気を配らなくてもよいと主がお語りになっていると考えてはなりません。私たちは考えなしに不摂生に生きて、寿命を縮ませてしまうことがあります。わたしたちに与えられた体をいい加減に扱ってはならないのです。しかし、どんなに健康に気を使ってもなお、急な病気で亡くなる人もいれば、多くの病気に罹りながらも、その病気と付き合いながら驚くほど長生きをされる方もおられます。それは、わたしたちの命の寿命を究極的に司っておられるのは、父なる神であるということなのです。そして、そのように父なる神の恵みの約束をわたしたちに告げるのは、この地上の歩みを越える命。永遠の命を与えてくださるイエス・キリストなのです。ですから、これらの約束の根拠は、主イエスの十字架と復活なのであります。実に天の父は、罪のゆえに滅びに向かっていくわたしたち罪人のために、最も愛する御子を、人間としてこの地上に派遣され、十字架におかけになられた。そして復活させてくださった。この御子の十字架の贖いを信じる者はすべて、神の子なのであります。ここに語られる「思い悩むな」、という約束は、わたしたち神の子のための慰めに満ちた御言葉なのです。
 わたしたちがその人生の中で多くの思い煩いの中に苦しんでしまうのはなぜでしょうか。多くの原因があるのかもしれません。少し乱暴に言ってしまうとやはり不信仰のゆえに、神への疑いのゆえに、神の愛と、その深いお計らいを、信頼しきれないからではないでしょうか。もっと言えば、私たちは皆、天の神に従うよりも、自分の人生を自分だけで生きていきたいと、もっと自由に、自分勝手に生きていたいと、心のどこかで思っているようなところがあるのではないでしょうか。つまり、神を畏れるということを知らなかったからではないでしょうか。
 わたしが最初に赴任しました徳島の阿波池田という町の教会に、熱心に教会に来てくださっていた求道者のご婦人がおられました。その方は、祈祷会に出席し、さまざまな質問をしてくださっていたのですね。そこでわかったら、腑に落ちました、と言ってくださった。あるとき、わたしはこういうメッセージを語りました。わたしたちの人生はわたしたちのものではありません、と。すると、腑に落ちない、というのです。私の人生がなぜわたしのものではないのか、と。その時のわたしの言葉がきっと足りなかったのでしょう。腑に落ちないと言われたまま、あるときから教会に来なくなりました。今なら、もっと、彼女の、腑に落ちるように語れるのではないかといつも思うのです。しかし、わたしたちの人生がわたしのものではなく、天の神のものなのだ、ということ。このことが本当に腑に落ちることが大切なのです。それが本当の、天の父に信頼する歩みの始まりなのではないだろうか、とさえ、思うのです。なぜ、わたしたちの人生がわたしたちのものではなく天の父のものとされていることが慰めなのか。それは、わたしたちの魂が、罪と滅びから自由にされたからであります。死のあとに、新しい命が始まることを確信できるからです。死よりも確かなもの。キリストの復活の命がわたしたちの内に始まっているからであります。神様の御守りの中にいつもあるからです。それこそ、キリスト者はもう厄除けのために毎年神社にお参りになど行かなくてもよい。どんな災いが起こったとしても、それは神の恵みから外れたことにはならないからです。幸福も、不幸も、全ての出来事の背後に神が私たちと共におられ、わたしたちを祝福し、全ての出来事を益としてくださっているからです。主イエス・キリストの恵みのゆえに、神は私たちの命に対していつも責任を持ってくださっているのです。
 わたしたちが、主イエスに信頼し、天の父に信頼を置くために大切なことがあります。それは、33節の御言葉をわたしたちの信仰の第一の御言葉として、その心に刻み付けることであります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」神の国と神の義。それを第一としなさい、というのです。神の国とは神様の御支配のことであります。それは国境を越えた支配であるばかりでなく、わたしたちの心の奥にも浸透していく支配です。その神様の御支配に身をゆだねるのです。神様、わたしの内に来てくださいと祈り願うのです。神の義とは、神の正しさ。正しい御心。ご計画があることを信じて、神がわたしに願っている正しい歩みは何かを聞くのです。皆さん一人一人の人生における、神様の御心がある。それを求めるのです。主よ、あなたは私を通してどのような栄光を現そうとしておられるのですかと尋ねつつ、あなたに従いますと告白するのです。ここで求められているのは服従の心です。神がわたしに何をしてくださるか、ではない。むしろわたしたちが、神様に何を命じられているか。そのことを追い求めて、従うのです。わたしたちは実にしばしば、この、一番大切な信仰の姿勢を正しくすることをせずに、神様に、あれをください。あれが足りません、と祈り願うことを先にしてしまっているのではないでしょうか。まず、神の国と神の義を求めていくこと。それは、天の父である神との関係を正すことです。わたしたちがさまざまなことを祈り願うよりも前に、わたしたちの心に受信機をセットしなければなりません。信仰において、神様の愛と、神様の恵みを受ける受信機はすでにセットされているのです。わたしたちが天の父よ、と祈るとき、わたしたちは、すでに信仰において全てのものを与えられているということを受け止めていきたいのです。罪が赦されて、永遠の命が与えられているということは、この世界の全てを与えられているよりも素晴らしいことであるからです。

祈り
 天の父なる神様。神の国と神の義が私たちの内に来ていることを信じて感謝いたします。いろいろな思い煩いを横に置いて、まずあなたの御前にひれ伏し、主イエスの十字架の贖いのゆえに、罪の赦しと永遠の命を与えられている幸いに心を向け、今日与えられた一日を感謝し、あなたにささげる者とならせてください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン