キリスト者の二つの生活原則
説教集
更新日:2024年06月15日
2024年 6 月16日(日)聖霊降臨後第4主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 近藤 勝彦
ペトロの手紙一2章11~12節
11 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。12 また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。
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キリスト者の人生には二つの面があります。一つは神との関係の中で神に対して生かされている面です。もう一つはその命を、人々の間で、人々に対しても生きています。重大なのは、主イエス・キリストによる罪の贖いによって神との和解、神との平和な関係の中に生かされていることです。この神に対して生きている命を私たちは同時に人々の間で生きているわけです。人生が二つあるわけではありません。神との関係に生かされている命を、人々の間で、人々との関係の中でも生きているということです。
今朝の御言葉はこのことを指しているのではないでしょうか。二重の人生に対応して、ここに二つの生活原則が語られています。まず「愛する人たち」と呼びかけられている言葉に注意したいと思います。これは正確に言うと「愛されている人たちよ」という呼びかけです。「愛されている」というのは言うまでもなく、「人々から愛されている」ではなく、「神から愛されている人たち」という意味です。神から愛されているので、お互いにも愛し合っていると言えるでしょう。しかし重大なのは神に愛されていることです。ペトロの手紙は、これまで宛先人に対してただ「あなたがた」と呼びかけてきました。「あなたがた」というのは「神に選ばれた人たち」でした。神の選びに基づいて「あなたがた」と呼んできたのです。それがここでは、その選ばれた人たちは「愛されている人たち」なのだと言われます。神から選ばれ、そして愛されている人たち、神にとって特別な、掛け替えのない者とされた人たちです。そのように神に愛されているあなたたちに「勧めます」と言うのです。
ですから、キリスト者にされたことは、神によって愛されている人にされたことです。このことは少なくとも時折、できればいつでも、新鮮に思い起こす必要があることです。神に愛されているのは、私たちの価値や努力によるわけではありません。まったく思いもよらず、主イエス・キリストの恵みを受けて神に愛される者にされました。これは、本当に幸いなことと言わなければなりません。主イエスによって罪が贖われ、神に愛される者にされ、神の子と言われ、この上なく幸いな者とされ、素晴らしい人生を与えられました。キリストのものとされたことは、満ち溢れる神の恵みによることで、神の国を継ぐ神の子とされ、義とされました。これ以上ない幸せな命を与えられました。主にあって神われらと共にいますということがどれだけ幸せなことであるか、ひょっとすると忘れている場合があるかも知れません。しかし実際、主イエス・キリストにあって神の子とされたことに優って素晴らしい人生を思い描くことはできないでしょう。それ以上を求めることは、虚しいことです。主キリストにあって満ち溢れる神の恵みを受けた人生に深く満ち足りて生きるのがキリスト者です。このことは繰り返し思い起こすべきでしょう。私の人生は主イエス・キリストによって、すでにこの上なく幸いな人生になりました。
それではその人生をどう歩むのでしょうか。そこに「勧め」があると言われます。神の子とされた素晴らしい人生を我儘勝手に生きればよいと考える人はいません。神に愛されている人たちには、その人たちだからこそ与えられる「勧め」があります。「使徒的な勧め」と言われます。
「勧める」という言葉には、「慰める」という意味も含まれています。神に愛されていることを根拠とした生活ですから、不合理な戒めや命令を押し付けられるはずはありません。憐れみに満ち、赦しに基づいた「慰めのある勧め」が与えられます。
キリスト者として世に生きることは、神の国にすでに加えられながら、その御国のまったき到来を待ちつつ、地上の生活を「旅人」として歩む生活です。この世の生活を「仮住まい」として過ごすとも言われます。その生活の原則が「慰めの勧め」として語られます。ペトロが言うこの世に生きるキリスト者の最初の生活原則は、「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」です。「旅の恥はかき捨て」にするといった身勝手な原則ではありません。「肉の欲を避けなさい」と言われます。
「魂に戦いを挑む肉の欲」とあるのは、いわゆる霊肉二元論によって肉体を否定し、精神だけの生活を主張しているわけではありません。聖書は肉体をもって生きる生活を決して蔑みはしません。主イエスが祈りを教えたとき、「我らの日用の糧を今日も与え給え」とまず祈るように教えられたことは、主が私たちの体のことを重視なさっていることを表しています。神は私たちの日毎の糧や衣食住のことを配慮される方です。
それでは「肉の欲」とは何でしょうか。食べること、眠ること、着ること、そして結婚すること、子を生むこと、衣食住や結婚生活など、体を持って生きる命を聖書は積極的に肯定します。それらはみな神の祝福のもとにあると言われます。そうすると、「肉の欲」というのは、そうした身体的なことそのものでなく、「神との関係を引き裂こうとする衝動」のことです。ガラテヤの信徒の手紙に、パウロが「肉の業」を記した箇所があります。「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い,そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラ 5・19 以下)と記されています。「肉の欲」は肉体そのものというより、むしろ肉体を巻き込んだ精神的なものという方が当たっているでしょう。
この「肉の欲」が「魂」に戦いを挑むとありますが、「魂」の方も肉体のない精神のことではありません。そうでなく、肉体も精神も両方持った全体としての人間が神との平和な関係に生きている、そういう人間のあり方、人格のあり方が「魂」と言われるわけです。魂とは神との和解に生きる人間のこと、そして神に愛され、神と共に生きる人間、それがここに言う魂です。それに対して戦いを挑む肉の欲がある。ですから、肉の欲は、肉体の話でなく、神と共に生きることを引き裂こうとし、神関係に生きることを妨害しようとする人間の姿勢です。それを避けなさい。それに打ち勝てとか、それを消去せよという勇ましい掛け声ではありません。勧めているのは、ただ避けて、遠ざかることだけです。それをあなたの関心の中心に置くことはやめなさいと言うのです。神に愛されていることとそれに応えて生きる人間のあり方を中心におき、それに対して戦いを挑む在り方からは遠ざかるように。「神に愛されていることによる神関係」を中心にして、神から引き裂こうとするものを中心には置かない。それが神に対して生きるキリスト者の生活原則だと言うのです。
もう一つの原則が語られます。それは世の人々に対してどう生きるかです。異教徒の間で「立派に生活しなさい」とあります。「立派に」とあるのは、原文では「よい」という単純な言葉で、「よく生きる」、あるいは「よい業」という言葉が使われています。「よい業」によって自分を義とせよとか、自分の救いを獲得しなさいというのではありません。「神に愛された人たち」が人々の間でただ「よい業」に生きると言うのです。「よい業」がその人を救うという話ではなく、すでに神の恵みにより、神から愛されていることで救いに入れられた人たちが「よい業」に生きる。そしてそれが世の人々にとって重大な意味をもってくるという話です。
異教徒の人々とわざわざ記されていますが、「彼らはあなたがたを悪人よばわりしている」という事実も記されます。キリスト者たちが世にあって悪人よばわりされることはあるものです。聖餐式が密かな悪事のように誤解されたこともありました。今ではそれほどあてはまらないと思われるかもしれませんが、日本でも戦時中は「敵を愛せ」と言ったために厳しい取り調べを受けたり、キリスト者は「非国民」と言われたりしたものです。
しかし「よき業」をもって人々の間に生きよと言われます。それがあなた方を救うからではなく、あなたがたがすでに神に愛され、救われているからです。そのあなたがたが「よい業」をすることは、世の人々にとって重大な意味を持つと言われます。その意味とは、世の人々があなたがたのよい業を見て、「訪れの日に神をあがめるようになる」からだと言うのです。「訪れの日」というのは、世の最後に訪れる神の審判の日のことです。終りの時のことです。あなたがたが「よい業」をすることで、世界はたちまち変わるとは言われていません。聖書は楽天的でもノーテンキでもありません。むしろ、世の人々がキリスト者たちを悪人呼ばわりする状態はなお続くでしょう。しかしその中で「よい業」に生きること、そのことは決して無駄でなく、「訪れの日」にはその結果を出します。彼らもまた神をあがめるようになると言うのです。その人々の神関係に影響を与えることになります。キリスト者のよき業は、キリスト者の救い役立つわけではありません。しかし他者の救いに役立ちます。その人が神をあがめるようになることにきっと役立つ。だから「よき業」に生きなさい。
今朝は二つの勧めを受けました。「肉の欲」を避けること、そして「よき業」に生きることです。神に愛されていることの、この上ない素晴らしさを覚えて、慰めの勧めに従って行きたいと思います。
聖なる、天の父なる神様。御言葉によって、もう一度あなたから憐みを受け、子とされ、愛されている、主にある事実に思いを向けることができまして、感謝いたします。あなたから聖なる愛によって愛されていることをこの上ない幸せとして覚えることができますように、そしてあなたから背かせようとする「肉の欲を避ける」ことと、悪意ある人々の中にあっても「よき業」に生きるようにとの勧めに従うことができますように。どうぞ御霊を注いで、力づけてください。教会のすべての兄弟姉妹、とりわけ幼子たち、高齢の者たち、とりわけ困難な中に身を置いている者たちの上に、あなたの慰めと御力が与えられますように、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。