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銀座の鐘

「百人隊長の信仰」

説教集

更新日:2024年06月22日

2024年 6 月23日(日)聖霊降臨後第5主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書8章5~13節

 マタイによる福音書は、5章から7章まで山上の説教が記されていました。続いて8章と9章には9つの奇跡物語が集中しています。9つの奇跡の内8つは主イエスの癒やしの物語です。本日の御言葉はその内の一つ、8章では二つ目のローマ軍の兵士である百人隊長の僕の癒やしです。
 主イエスが語られた山上の説教と主イエスが行われた愛の業は単に前後に置かれているということではなく、マタイによる福音書の編集の意図がここにあると思われます。すなわち、主イエスはお語りになったことが愛の業として実行される、御言葉は実現するということがここで伝えられているのです。
 8章には5つの奇跡物語が記されています。最初は 1~4 節、一人の重い皮膚病を患っている人が主イエスに近寄り「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」といいました。それを聞いた主イエスは手を差し伸べて触れて癒やされました。この重い皮膚病の人の癒し物語は、山上の説教の八つの幸いの実現、または主の祈りの「御心がおこなわれますように」の実現と理解することが出来るでしょう。主イエスが語られた言葉は言葉として終わるのではなく、実現したのだとこの福音書は私たちに告げているのです。これは大変素晴らしいことではないでしょうか。主イエスのお語りになった御言葉は愛の業となって実現するのです。
 本日の聖書箇所は、山上の説教の中で5章44節「敵を愛し自分を迫害するもののために祈りなさい。」との愛のご命令が、百人隊長の僕の癒やしによって実行され実現していると読むことができます。主イエスがカファルナウムに来られたときの出来事です。主の所に一人の百人隊長が近づいてきて懇願しました。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」とユダヤ人である主イエスに願ったのです。当時の社会では百人隊長がユダヤ人のひとり医者でもない主イエスに懇願するということは、通常は考えられないことです。なぜならば、当時のユダヤ人は、ローマ帝国の支配下に置かれていたからです。百人隊長はローマ帝国の傘下におかれてユダヤの社会を武力で支配してる最前線の人だからです。百人隊長の「僕」という言葉は、聖書協会共同訳では「主よ、私の子が麻痺を起こし、家で倒れてひどく苦しんでいます」と訳されています。中風は麻痺となり僕は私の子と変わりました。僕という言葉は召し使いとも訳せますがわが子とも理解することが出来る言葉だからです。苦しんでいる実の子のために百人隊長が主イエスの前に懇願しているということは、ローマ帝国の力をもってしても百人隊長の子どもを癒やすことが出来なかったことを語ると共に、自分のプライドも恥も捨てて、わが子のためにユダヤ人である主イエスの御前に懇願する百人隊長の姿がここに描かれているのです。
 ユダヤ人からすれば、権力と武力で支配するローマ軍の百人隊長に協力することはためらって当たり前だと思います。しかし、主イエスは、敵を愛する御言葉の実践として、百人隊長の愛する子を癒やしたのです。
 わが子のためにプライドを捨てて主イエスの前に懇願するこの百人隊長に対して、主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」といわれました。主イエスは敵視することも差別することもなく、一つもためらうことなく、わたしが行きましょうというのです。敵を愛するということ、更に深読みしていうならば、主イエスを十字架刑に処刑した実行部隊は百人隊長とその部下たちでした。そのような武力で圧倒的な力を見せつけていた百人隊長の懇願を社会の常識を乗り越えて、わたしが行きましょうと語る心こそ、敵を愛する実践なのです。
 ためらいを覚えたのは主イエスではなく、百人隊長の方でした。
百人隊長はこう言います。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」
 わが子の癒しを求めて懇願した百人隊長は、わが子のところに連れて行って手当してもらうことをのぞんだのではなく、「ひと言おっしゃってください」と主イエスの御言葉を求めたのです。百人隊長は、診察して手を当てていただくのではなく、お言葉をくださいと、そうすれば癒やされますと考えていたのです。主イエスを通して、愛の言葉が愛の御業を生み出すことを百人隊長は既に理解していたのです。そして、主イエスへの懇願として「ひと言おっしゃってください」と願い出たのです。
 百人隊長は、この考えについて「権威の下にある者」として説明しています。
「9 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 言葉は実行され実現するのは当然なのだというのです。主イエスのひと言が神の権威に基づいていることを確信しているのです。なんと素晴らしいことでしょうか。
主イエスを救い主キリストと信じる信仰は、御言葉が実現することを信じる信仰です。主イエスの奇跡、愛の業の根拠は、主イエスが魔術師であるとか手品師であるということとはまったく次元の違う救い主であるということです。魔術ではなく御言葉に力があるのです。御言葉にこそ権威があるのです。主イエスの御言葉の権威を信頼して、主イエスに懇願した百人隊長をみて、主イエスは感心したのです。
 10 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」

 「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
 百人隊長は主イエスの弟子ではありません。主イエスの教えを求めて山上の説教を聞いていたとも書かれていません。しかし、ローマ帝国の皇帝の権威に服する者がローマ皇帝ではない権威、主イエスの御言葉を通して神の権威を認めているのです。さらには、主イエスの御言葉にこそ力があることを信じて疑わない姿勢に対して、主イエスは「これほどの信仰を見たことがない」と語られたのだと思います。
 私たちも主イエスの御言葉にこそ力があり、ここから愛の御業が行われることを信頼して信仰生活を歩みたいと思います。

「百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」
 百人隊長の僕が癒やされたのは一体何だったのでしょうか。この癒やされた僕に手を触れることもなく、離れていたにもかかわらず、言葉だけで「あなたが信じたとおりになるように。」と語られ、愛の業が行われました。御言葉に即して理解するならば、この僕(この子)を本当の意味でいやしたのは、百人隊長の兵士的な服従姿勢や確信ということではなく、主イエスの中に働いている癒しの力ではないでしょうか。主イエスがおられなければ、この奇跡的な癒しは起こらなかったのです。その意味で主イエスの愛の業によって癒やされたということが出来ると思います。主イエスが「わたしが行っていやしてあげよう」といわれた言葉から、百人隊長への偏見や敵対的な考えを超越した、敵を愛するとの御言葉が行われているのです。真の癒しは主イエスのご意志であることが明らかにされています。主イエスには癒やす力が働いていたのです。
 預言者イザヤがメシア到来の時には、神の愛の御業が行われることを語っています。
イザヤ書35章4~6節「心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」5 そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。6 そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」
 主イエスの中にこの神の救いの力が働いているということではないでしょうか。主イエスがキリストすなわち救い主であるということは、主イエスの中に神の力が癒しの力として働いているということです。神の力は武力のような破壊する力ではなく、癒やす力、罪人を立ち上がらせる力、ひどく苦しむ者を救い出し新しく創造する力です。これこそ神の恵みの力です。この力は主イエスの教えと共にその力が発揮されます。十字架と復活においても罪と死に打ち勝ち、命を与える力として働いています。この力が、百人隊長の僕を癒やす力として働いたのです。
 目の前の人を癒やされることもありますが、百人隊長の僕の場合は、僕は主イエスの目の前にいません。主イエスの内に働いている力です。百人隊長は主の力を感じ取ったのです。ここに信仰の力があります。信仰によって主の力が受け取られ、救いがわたしたちのものになります。罪赦されて、生かされるという神の愛の御業が起こるのです。
 信仰とは何でしょうか。信仰とは、主イエスの中に働いている恵みの力をわたしたちのものとして感じ取ることです。この主イエスが与える信仰は、信仰によって主イエスに捕らえられ、主イエスによって生かされて、百人隊長の僕が癒やされたのです。
 私たちは主イエスからそのような恵みの力を受け取る資格も能力も何もないものです。しかし、にもかかわらず、主イエスから恵みの力を受け取ること、癒しの力に捕らえられることが主にあって出来るのです。信仰は何の資格も能力もないという困難を超えて私たちに与えられるのです。相応しくなく、価値もないにもかかわらず、赦され、癒やされ、愛されていることを受け取ることが信仰です。
 主イエスの御言葉を通して、信仰をいただき、真の権威に服し、神の愛の御業が行われることを感謝して新しい一週間を過ごしましょう。