「主イエスの派遣」
説教集
更新日:2024年07月20日
2024年 7 月21日(日)聖霊降臨後第9主日 銀座教会創立記念日 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤
マタイによる福音書10章5~15節
5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。8病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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築地教会から 149 年、銀座教会創立 134 年を迎えました。銀座教会の特徴の一つは、一教会一牧師ではなく、複数の牧師が立てられていることにあります。主任牧師だけでなく副牧師、伝道師、協力教師、婦人伝道師、協力宣教師、音楽主任、組長班長が協力しています。教職と信徒がしっかりスクラムを組んで大きな責任を担い、教会形成に励んでまいりました。銀座教会の大きな力の源です。来年は築地教会から 150 年を迎えます。
本日の御言葉は主イエス・キリストの 12 人の弟子を派遣するにあたって命じられた、派遣説教です。12 人の弟子は、それぞれ主イエスに同行して、主イエスご自身のそばで主イエスの教えた御言葉を聞いていました。それだけでなく主イエスが多くの人々を癒やす愛の業も目の当たりにしてきました。マタイによる福音書 9 章には徴税人マタイを弟子にしたとき、主イエスはこう語りました。12 節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。13 節の『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とは旧約聖書ホセア書 6 章の引用とされています。ホセア書 6 章 6 節は「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」と翻訳されています。主イエスの時代、神殿において神の御前に立つ者はいけにえを献げなければなりませんでした。小羊や鳩、雀などを自分自身の身代わりのいけにえとして献げ、血を流して悔い改め、神の赦しを求めていました。しかし、主イエスは当時の神殿の慣習であるいけにえを求めるのではなく、神の憐れみ、神の愛、神を知ることであると語っているのです。そして、神の憐れみを受ける人々が、主イエスの癒やしの業によって起こされてきたのです。
もう一つ主イエスが語ってきた大切な事は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という御言葉です。主イエスの伝道は、当時の神殿でいけにえを献げることや汚れた者を清めることではなく、神の憐れみ、神の愛、神を知ることに加えて、罪人を招くことです。主イエスが弟子たちに繰り返し語り、行ってきたことが病人や罪人を招き、神の憐れみと愛をつたえ、神を知ることです。主イエスの 12人の弟子たちは、この御言葉を思い起こしながら主イエスがお語りになった伝道命令を聞いていたことでしょう。
本日の御言葉は 10 章 5 節から 42 節まで語られた主イエスの派遣説教の前半です。16 節以下では 16 節「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」 と語っています。主イエスの派遣命令はこれまで語られてきた主イエスの言葉と本日与えられた御言葉の後の部分も同時に読まなければならないのです。その上で、与えられた御言葉に集中したいと思います。
主イエスの派遣説教は、今日の私たちにとって、どのような意味があるのでしょうか。今日、この御言葉を私たちが読むことの意味は、ただ単に主イエスが 12 弟子を派遣したという昔話として読むのでは不十分です。約 2000 年の教会の歴史において 12 弟子の派遣は、私たち一人一人が 12 弟子の原点であるイスラエル 12 部族、新しいイスラエル、すなわち教会が伝道者を派遣することとして読まれてきました。同時に、礼拝の最後に祝祷をもって、教会員がそれぞれの生活の場へと派遣されていくこととして受け止めてきました。ですから私たち教職が派遣されることはもちろんですが、礼拝に集まる一人一人がこれから派遣されていくための備えとして、読まなければ意味がなくなってしまうのです。
主イエスの派遣の最初の御言葉は、弟子たちを遣わす場所についてです。主イエスは異邦人の道、サマリヤ人の町ではなく、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさいと命じています。主イエスは異邦人にもサマリア人にも伝道しましたが弟子たちにはまず、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさいと命じています。現在の私たちについて理解するならば、いきなり海外伝道に行くのではなく、私たちの家、家族や同居の仲間のところに行きなさいと告げていると理解出来ると思います。私たちの家で、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい、と命じられています。天の国は近づいたということは、神へのいけにえを献げなさいそうしないと救われませんという姿勢ではなく、神の愛の御支配が実現するのだ、ということです。神を知り、神の憐れみ、神の愛を伝えることです。
10 章 8 節「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
これまで主イエスが弟子たちの目の前で伝えてきた御言葉が愛の業として実現した出来事です。すなわち、主イエスの御言葉と愛の御業を語ることです。神の愛を語ることです。主イエスが私たちの身代わりの犠牲となって私たちが赦されて生きる道を与えてくださったことを家族に伝えることです。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」主イエスから与えられた恵みをただで与えるのです。
10 章 9~10 節「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」伝道には主イエスがお語りになった御言葉だけに頼り、それ以外の一切のものに頼ってはならないことが教えられています。神の愛を伝えるために神を知ることを伝えるためにこの世の富や道具を用いてはならないことが戒められているのです。
私たちは伝道するには、人格も知恵も能力も備わっていなければ出来るわけがないと考えてしまうのです。しかし、主イエスの派遣の原点は、昔のいけにえを献げることではなく、私たちが神の愛を知ること、神の憐れみを感謝して受け入れることなのです。神の憐れみと神の愛だけに聞き従うことなのです。主イエスの救いの御業を伝えるためには、私たちの身も心もすべてを主イエスに委ねる思いをもって語るのです。
何を語るのでしょうか。10 章 12~13 節「12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」
主イエスの時代「平和があるように」とは「シャローム」平和を伝える挨拶をすることでした。私たちの挨拶では、おはよう、こんにちはということです。罪人を招く主イエスの御心を感謝して、神の憐れみの中に招くように、神の愛を伝え、神を知ることをよろこびとして平和の挨拶をするのです。主イエスは 12 人の弟子たちが派遣先でまずすべき挨拶を教えています。シャローム、平和があるようにという挨拶は、弟子たちを迎えた家に神の愛を届けることになります。神の憐れみの心を届けることになります。シャローム、平和を受け取った人々は神の平和の中で挨拶を交わし、神の交わりに入るのです。弟子たちの資質や能力が問われるのではないのです。神の恵みが満ちて、弟子たちが願う平和が派遣先の人々に与えられるのです。
ここで大切な事は、「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、…もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。」との御言葉の「ふさわしい」かどうかです。神の愛と憐れみを受けるか受けないかではなく、その家の人々がそれを受けるにふさわしいかどうかということです。派遣先の人々の思いや笑顔で判断されることではなく、あくまでもふさわしさの判断は神の側にあるのです。ここでも弟子たちも私たちも人間的な判断をすることは出来ないのです。ふさわしいかどうかは、派遣先の人々でも弟子たちでもなく、神の判断に委ねられているということをしっかり理解しなければならないのではないでしょうか。私たちは神のご判断を重んじること、神がお喜びになることをわきまえることです。もう一度、ホセア書を思い起こしたいと思います。
ホセア書 6 章 6 節は「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」
そうです。神がお喜びになられるのは愛なのです。神を愛すること、隣人を愛すること神の愛を用いることなのです。そして、神を知ることなのです。私たちの努力では神にふさわしいものにはなれません。ただ、神の憐れみによってふさわしいとされることを願うこと祈ることは出来るのです。
もう一度、マタイによる福音書 9 章、徴税人マタイを弟子にしたときの御言葉を思い起こしたいと思います。12 節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
私たちは礼拝において、主イエス・キリストの御前に立ち、自分は「正しい人」としてではなく、「罪人」として立っていることを忘れてはなりません。主イエスは「罪人」である私たちを招くために来られたのです。神の憐れみを信頼して、御前に自己正当化することなく罪人である私をお赦しくださいと祈り続けたいと思います。
主イエスの 12 弟子は、10 章 2 節では「12 使徒」、使徒と呼ばれています。使徒とは 12弟子とパウロだけに与えられた称号です。神の御前にあって罪人の代表としての称号です。私たちは使徒とは呼ばれませんが、主イエスの招きを聞く、病人であり、罪人です。主イエスに赦していただかなければ生きていくことのできない罪人なのです。主イエスの招きにふさわしいかどうかは神に委ねて、「『平和があるように』との挨拶」を通して信仰生活を全うしてまいりたいと願います。