「命の回復への道」
説教集
更新日:2024年07月14日
2 0 2 4 年 7 月 1 4 日 (日) 聖 霊 降 臨 後 第 8 主 日 銀座教会 主日礼拝 (家庭礼拝) 副牧師 川村 満
マタイによる福音書 9章18節~26節
18イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘 がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょ う。」19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。20 すると、そこへ+ 二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。21「この方の 服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。2 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言わ れた。「娘よ、気になりなさい。あなたの 仰があなたを救った。」そのとき、彼女は沿った。23 イエスは 指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を 覧になって、24言われた。「あちらへ行きなさ い。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々は イエスをあざ笑った。25 群衆を外に出すと、イエ スは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。26 このうわさはその地方 一帯に広まった。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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「 イ エ ス が こ の よ う な こ と を話 し て お ら れ る と 」 何 を 話 し て お ら れ た の で し ょ う か 。 そ れ は 、 こ の す ぐ 前 に あります、断食についての問答の中の言葉であります。そこでは、「新しいぶどう酒は新しい革袋にいれるものだ」と 語 っ て お られ ま す 。 ご く 簡 単 に申 し ま す と 、 新 しい 時 代 、 神 の 国 が 来 てい る 。 福 音 の 喜 び が こ こ に 来 てい る 。その新しい喜びを祝うために、私たちの心を新しくしようではないか、新しい心で迎えようではないか。そのように 語 り か け て い た ち ょ う ど そ の 時 の こ と で す 。 こ こ で 、 苦 し む 人 々 が 主 イ エ ス の 話 を さ え ぎ る の で す 。 こ の 物話には二人の、苦しむ人がおりました。一人目は、ある指導者とあります。この指導者が、主イエスの下に来て 言 い ま し た 。 「わ た し の 娘 が た っ た い ま 死 に ま し た 。 で も 、 お い で に な っ て 手 を 置 い て や っ て く だ さ い 。 そ う すれ ば 生 き 返 る で し ょ う。 」 深 い 悲 し み の 中 に お り ま す 。 そ の 意 味 で 、 主 イ エ ス が 語 ら れ た 喜 び の 世 界 か ら は ま だ 遠い人です。しかし彼は、 主イエスが、自分の娘をよみがえらせてくれるかもしれない。絶望しつつも、一種の 望み をかけ て 主イ エスの 下に 来た の です。 主イ エスは この 人の悲 しみを、そ し てそ こにあ る死 の 力を打 ち砕 くた めに、死んだ娘のところに向かいます。
すると、そこに十二年間もの間、病気の苦しみの中にいた女性が、 主イエスの服の房に触れます。この女性の 病気は、婦人病。不正出血でありました。これは、現代では治る病気でありますけれども、この当時はなかなか 完 治 は 難 し い 病 気 で あ っ た 。 し か も 、 律 法 では 、 こ の 病 気 に 罹 っ た 人 は 汚 れ た 者 と み な さ れ て い ま し た か ら 、 人 前には出られません。心身の苦しみに加えて、社会的にも隅に追いやられるという、絶望的な状況の女性だったの で す 。 こ の 女 性 の 心 に も 、 深 い 悲 し み の 間 が あ り ま し た 。 マ ル コに よ る 福 音 書 で は 、 こ の 病 気 を 治 す た め に 多 く の 医 者 に か か っ て、 ひ ど く 苦 し め ら れ て、 し か も 全 財 産 を 使 い 果 た し た の に も か か わ ら ず 、 ま す ま す 悪 く な る だけであったとあります。それが十二年間という長い月日で起こった出来事です。それは彼女の人生の半分ほど の 長 い 月 日 で あ っ た よ う で す。ど れ ほ ど 辛 く 苦 し い 日 々 で あ っ た こ と で しょう。こ の女性は 、最後の望みを かけて、後ろから主イエスの服の房に触れます。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思った、とあり ま す 。 何 も 言 わ ずに 、そ っ と 触 れ た の は な ぜか と い う と 、 律 法 で 汚 れ て い る と み な さ れ て い る 彼 女 は 、 人 前にも出られない。ましてや指導者や学者といったような人の服に触るなんてとんでもないこ とだったからです。もし もば れ た ら、 と が め ら れ る に 違い な い のです。だから群 衆に紛れて ば れ な い よ うに そっと触 れ たの で す。しかし主イエスはこの女性の悲しみ、苦しみを一瞬で見抜き、そしてそこで彼女が最後の望みをかけて、後ろから主イ エスの服の房に触れたことを悟られたのです。
主イエスは振り向いて彼女をはっきりと見つめて、そして言われます。「娘よ、気になりなさい。あなたの倍 仰があなたを救った。」その時に、十二年もの間彼女を苦しめていた婦人病は確かに癒されたのです。
この女性の信仰について少し考えたいのです。この女性の信仰は批判的に見ることもできるのです。服の房に触れさえすれば癒される。これは 利益宗教的な信仰です。こんな宿仰を信仰と呼んでもよいのか、とも言えます。
少なくとも未熟な借仰です。しかしそれを主イエスは、認めてくださったのです。「あなたの信仰」と呼んで、 振り返ってくださり、そして癒してくださったのです。
こ の と き 十二 年 間 の 間 苦 し め てい た 彼 女 の 病 が 癒 さ れ 、 そ の 苦 し み の 全 て が 報 わ れ ま した 。 彼 女 は 病 気 が 癒 さ れただけでなく、その魂が救われて、主のものとなりました。主イエスの娘とされたのです。
ここに奇跡の出来事が起こっております。この箇所だけ でなく、聖書には、多くの奇跡の記事が語られており ます。この聖書の奇跡の出来事に躓く人は案外少ないと聞きます。皆さんも、宿仰を告白したいと願ったとき、 このような聖書の記事を、案外と素直に じて物語を聞いていた人の方が多いのではないでしょうか。イエスは全能の神なのだから、このような奇跡を起こすことはできるに違いないと。しかし同時に私たちはこのようにも 思っているのではないでしょうか。このような奇跡の出来事が、宿じたからと言って必ず起こるわけではないの だ と。 そ ん な ふ う に 、 ど こ か で冷 め た 心 で、 少 し 距 離 を 置 い て こ の よ う な 物 語 を 聞 い て い る こ と が あ る か も し れま せん。逆に、このような出来事が今でも現実に起こると真剣に じる人々もおります。聖霊の働きを重んじる 教派には、聖霊による癒しを強調する人々。牧師が手をかざして、病気の人を癒せると言う、そういう教会もあり ま す 。 必 ず し も そ れ ら が 間 違 っ てい る と は 言 え ま せ ん 。 実 際 に 、 祈 り の 中 で 、 聖 霊 が 豊 か に 働 い て く だ さ り 、 奇跡的に、重い病気が治るということは現代でも起こります。医者がさじを投げた人が、神様の奇跡として言え な い よ う な 恵 み で癒 さ れ る と い う 証 しは 、 今 で も 聞 く の で す 。 し か し そ れ で も、 そ う い う 癒 し を 強 調 す る と こ ろに伴う危険はあると思うのです。そこでは祈りがいわば魔術的に扱われます。人間が主体となって聖霊を コント ロールする、人間が教祖化してしまうのです。癒しの力だけ でなく悪魔祓いなどをする牧師さえ出てきます。し か しそれらは決して正しい 仰とは言えません。大切なことは、この物語に、どのように慰めが語られているか。 神の慰めがわたしたちにどのように語りかけられているかを見抜くことです。私たちもまた、病気になります。 そ の 時 、 主 に 癒 し を 願 っ て も よ い の で す。 し か し そ こ で 一生 懸 命 に 祈 っ て、 そ れ で も 癒 さ れ な い と き 、 わ た し た ちはどうすればよいの でしょうか。何仰が弱いからだ、と嘆くべきでしょうか。神が祝福してくださらないとつ ぶやくしかないのでしょうか。そうではないと思うのです。あるいは、たとえその時、癒されて感謝していても、またいつか、病気になって死んだらどうなるのでしょうか。もし、そこで仰が揺らぐのならば、わたしたちの 信仰の姿勢がどこかで間違っていたということではないでしょうか。わたしたちの 仰は、病の癒しのあるなし にかか っているのではありません。ではなぜ、聖書はこれほどに、 主イエスのなさった癒しの奇跡。また死人の よみがえりという奇跡 を語 っているの でしょうか。
こ の 物 語 に 語 ら れ ま す 、 よ み が え っ た 少 女 も、1 2 年 間 病 気 で 苦 し ん でい た 女 性 も 、 癒 さ れ た け れ ど も ま たい つ か 年 を 取 り、 病 気 に な っ て死 ん だ に 違 い な い の で す 。 な の に 、 な ぜ 主 イ エ ス は こ こ で病 気 を 癒 さ れ た の か 。 こ のあとに続くマタイによる福音書の11章での主イエスの 言葉を紹介したいと思います。洗礼者ヨハネが、年 屋の中から、その弟子を遣わして ねさせます。「来たるべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待 た な け れ ば な り ま せ ん か 。 」 そ の 問 い に 対 し て 主 イ エ ス は 答 え ま す。「 行 っ て 、 見 聞 き し てい る こ と を ヨ ハ ネ に 伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こ えない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いで ある。」主イエス御自身がここで宜言しておられます。わたしこそが来たるべき救い主だ。神の国が確かに来た。 私を通してこの闇の世界に、光が来たのだ。神の国が到来したのだ、と。 主イエスは単に奇跡を起こすためだけに来られたのではありません。 一つ一つの奇跡よりも、はるかに大きなこ とがあります。それは、死からの復活であります。主イエスは死 人をよみがえらされただけ ではありません。 そ のような出来事は確かにあったと私は借じます。しかし、それは根本的な救いではありません。わたしたちは病 気を癒されても、いつか必ず死にます。そして死をもってわたしたちの地上の命は終わります。聖書はわたした ちに告げております。わたしたちがどのような死を迎えるにせよ、わたしたちは罪人であり、その罪の結果とし て死ぬのだと。なぜなら、罪とは神との命の断絶 であるから です。それは創世記の初めに語られ ております。そ こ に 記 さ れ る の は 単 な る 神 話 では な く 、 わ た し た ち の 命 の 意 味 が 語 ら れ て お り ま す 。 聖 書 が 語 る 救 い と は 、 罪 か らの救い です。そしてそれはすなわち、命の源である、神との関係の回復を意味しております。私たち人間は神 の 前 に 皆 罪 人 であ る と 聖 書 は 告 げ て お り ま す 。 聖 書 は 、 病 気 を 罪 の モ デ ル と し て描 い てお り ま す 。 罪 は 病 気 の よ う な も の で あ り 、 神 は そ れ を 、 主 イ エ ス の 十 字 架 に よ っ て 癒 さ れ ま し た 。 イ ザ ヤ 書 の 5 3 章 に は こ の よ うに 語 られております。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに 顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたした ちの痛みであったのに、わたしたちは思ってい た神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。 彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのは わたしたちの のためであった。 彼の受けた懲らしめに よってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた。」
(5 3章3 – 5節)主イエスは十字架にかけられ、死なれました。罪をもたない方が、わたしたち人間の罪を背 負い、死んで、のちによみがえることによって、死の棘を取り除かれたのです。死の力を打ち砕かれたのです。 死 を乗り越える命。それが主イエスの復活であります。この、復活の命をわたしたちは じます。主イエスの復 活を信じる私たちは、死の先にも、命があることが見えるのです。病気の時にも、復活の 主イエスが私たちと共 におられるということがわかるのです。そのことを言じられるとき、私たちもその心に、神の喜びがもうすでに 来ているのです。命の主との関係が回復しているからであります。わたしたちの病は癒されました。主イエスの 十字架の御血潮が、そこで受けた主の 傷が、わたしたちを確かに癒すのです。主イエスの傷は、私たちの罪の ためであり、主イエスの御血 はわたしたちの罪を洗い流すからであります。主イエスによって、私たちと神と の間には確かな平和が与えられています。だからわたしたちもまた、この女性に言われた言葉を喜びをもって聞 くのです 。「娘たちよ、息子たちよ、完気になりなさい。あなたの 仰があなたを救った」と。主イエスは、私 たちの命の回復の道を切り開いてくださったのです。
主イエスは、この女性を癒したのち、すでに死んでしまっている十二歳の少女のいる家に向かいます。少女の 父親 である、 指導 者につい てい くの です。 そこには すでに、 笛を吹 く者。 騒い でい る群 楽がい ました。 人が死 ん だときには葬儀が行われました。そのとき葬儀のために雇われた人たちがいたのです。笛を吹く者。泣き女といった人々がいた。彼らが笛を吹いたり泣いたりして、そこには、この少女が死んでしま ったというどうしようも ない悲しみが、その場を包んでいました。そのような中で主イエスが言われます。「あちらへ行きなさい。少女 は死んだのではない。眠っているのだ。」嘲笑いが聞こえました。この嘲笑いを、その場にいたならばわたした ちもきっとしたに違いないのです。そうではないでしょうか。死という現実を覆すなどできるわけがない。この 男は何を言っているのかと。しかし主イエスは命の主であります。この命の主からすれば、どんな死であっても、 眠りと同じなのです。主イエスは嘲笑う人々を追い出し、そして娘をよみがえらせました。ここにも、主イエス の 救 い 主 と し ての た し か な し る し が 行 わ れ ま した 。 主 イ エ ス こ そ が 、 命 の 主 で あ る。 死 の 力 を 打 ち 破 っ て、 少 女 をよみがえらせてくださった。この救い主が、私たちの人生にも、わたしたち一人一人の内にも来てくださって いるのです。今ここに来てくださっているのです。私たちも、日々、その体は老いていきます。そしていつの日 か 死 を 迎 え る で し ょ う。 今 、 何 か の 病 気 と 闘 っ て お ら れ る 人 も お ら れ る で し ょ う 。 痛 み と 闘 う 人 々 。 苦 し み を 耐 え 忍 ん でい る 人 も お ら れ る と 思 い ま す。 そ こ で わ た し た ち は 、 癒 し て く だ さ い と 主 に 心 か ら 願 っ て も よ い の で す 。 し か し 、 そ こ で癒 さ れ よ う と 、 癒 さ れ ま い と 、 主 イ エス は 今 も わ た し た ち と 共 に 生 き て く だ さ っ て い る の で す 。 主はわたしたちの苦しみの場に共に居てくださいます。私たちの終わりの日にも、臨終の日に も、共におられ る のです。主イエスが、わたしたちと同じ人間として生きてくださり、十字架の死に直面してくださった。闘って くださいました。十字架で、死と闘い、そして勝利してくださったのです。その主イエスと一つとされたのです。 だ か ら 、 わ た し た ち の 死 は 、 そ れ が ど の よ う な 死 で あ ろ う と 、 復 活 の 主 イ エ ス と 共 な る 死 な の で あ り ま す。 わ た したちの病気は主イエスの癒しの下にある病気なのです。そうであるならば、この命の主の下で、病気の日にも、 死に際してもなお、 主イエスを喜び、仰いでいきたいのです。主イエスは、今日も私たちと共に生きてくださっ ています。わたしたちが主イエスの後姿を見つめていくだけでなく、主イエスは、わたしたちの行くところ、必 ず ついて来てくださる方でもある。主は私たちの不信仰や未熟な 仰にもかかわらず、振り返ってくださいます。 主イエスが日々、わたしたちに振り返ってくださること。それは癒しそのものよりも大きな恵みであります。私 の人生が死で終わるのではなく、死が単なる扉に過ぎなくなるからです。何の扉であるか。永遠の命の扉です。 死を突き抜け て、私た ちのために救いの道を、命の道を拓い てくださった 主イエスとの出会いがあるところ。そ こではもう、死は力を持たないのです。そしてこの礼拝の中に、 主イエスとの出会いがあります。皆さん一人一 人 の内に、主は今日も語りか けてくださる。娘よ。息子よ。あなたの 仰があなたを 救った、と。こ こにおられ る皆さん一人一人に、今日も主は語りかけてくださるのです。その恵みにおいて、共に感謝をも って今日という 日を歩んでいきましょう。主イエスがもたらしてくださった救いの喜びを共に分かち合いたいのです。神の御国 が 皆さんの心にも確かに来ていることを 仰において、受け止めていきたいのです。お祈りをいたします。
イエス・キリストの父なる神様。今日も私たちの生活を振り返ってください。そうすれば、私たちの人生は報 われます。 主よ、どうか、わたしたちの行くところ、いつも伴ってください。わたしたちがこれから歩む ところ。 そのすべてにおいてその行 く手に立ってください。わたしたちの死の間際にも、あなたの臨在を知らせてください。そうすればわたしたちは何も恐れることはありません。あなたが共に生きてくださること。あなたと共にあ る こと。それ以上に素晴らしい喜びはないからです。わたしたちが、主を求め、主を頼し、主に従う歩みが、 この世において、神の国の到来を告げる歩みとなりますように。私たちを祝福し地の塩、世の光としてください ますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン