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銀座の鐘

「来たるべき方」

説教集

更新日:2024年08月03日

2024年8月4日(日)聖霊降臨後第 11 主日 銀座教会 平和聖日 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書11章2~15節

獄中のヨハネの問い
 本日の御言葉は、獄中の洗礼者ヨハネが自分の弟子を主イエスへ遣わし、「来るべき方は、あなたでしょうか。」と伝言で問わせたことからはじまっています。主イエスは獄中のヨハネに対してその問いに答えます。洗礼者ヨハネは死を予感していたと思われます。洗礼者ヨハネは牢獄の中で最後の時を迎えていました。ヨハネの問いは単なる思いつきの質問ではなく、人生最後の問い、死を前にしてどうしても聞かなければならないことでした。「来たるべき方は、あなたでしょうか。」とは、言いかえれば、私を救ってくださるお方はあなたで間違いありませんかということでしょう。すなわち、主イエスからみ救いの確かさをお聞きし、安心して死を迎えたいと考えていたのではないでしょうか。そうであれば、この問いはヨハネの救いについての質問だと思われます。ヨハネの真剣な問いに対して主イエスは、どのように応えたのでしょうか。それは4節から6節に記されています。

主イエスの答え
  イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
 この主イエスの答えは、ヨハネの問いに答えていないように受け止められるかもしれません。「来たるべき方はあなたでしょうか」と聞かれたら、私ですとか私ではありませんと、イエス、ノーで返事をしたら良いと思うのではないでしょうか。一見、主イエスの返事は、かみ合わない答えのように受け止められそうです。しかし、主イエスの答えからヨハネの問いの真意を受け取ることが出来ます。主イエスの答えは、救い主はあなたですかというヨハネの問いに対して、この地上に広がる神の御支配を指し示しているのです。主イエスはご自身のことだけ語るのではなく、主イエスと共にいる目の見えない人、足の不自由な人、重い皮膚病を患っている人、耳の聞こえない人、死者、貧しい人を指し示します。彼らが主イエスと共にいて、目が見えるようになり、歩けるようになり、重い皮膚病から清められ、耳が聞こえるようになり、死者が生き返り、貧しい人が福音すなわち喜びの知らせを聞いているのです。この世の支配ではなく天の国、神の御支配を見聞きして、神の御支配が来ていることを獄中のヨハネに伝えなさいとヨハネの弟子に伝えているのです。この主イエスの答えによって、洗礼者ヨハネは獄中にいながらにして天の国、神の国を思い巡らすことができたと思います。マタイによる福音書14章に記されているように、洗礼者ヨハネはヘロデ王によって殺害されました。洗礼者ヨハネは死の直前、弟子を通して、主イエスの言葉によって神の国を見ることが出来たのです。この問答によって洗礼者ヨハネの救いが実現したと理解してよいのではないでしょうか。洗礼者ヨハネは獄中において、主イエスの言葉によって神の御支配を見て、救いに与ったと思います。

ヨハネの救い:天の国は近づいた
 洗礼者ヨハネは、マタイによる福音書3章に記されているように、ユダヤの荒野において「悔い改めよ。天の国は近づいた」と預言者イザヤの言葉を語りはじめました。ヨハネの洗礼運動の中心は神の御前に悔い改めることでした。天の国とは神の国、神の御支配と同じです。天の国は死後行くことができる場所というだけでなく、ヨハネが語りはじめた天の国が、主イエスの伝道によってこの地上で望み見ることが出来たのです。マタイによる福音書の特徴の一つは天の国のたとえです。13章種をまく人のたとえでは「御国の言葉を聞いて悟る」ことが語られます。続く「毒麦」のたとえでは、「天の国は次のようにたとえられる」として毒麦を抜いてしまうと麦までぬいてしまうから、刈り入れまで両方とも育つままにしておきなさいと命じています。さらに続く「からし種」「パン種」のたとえでは、天の国はからし種に、そしてパン種に似ているとして、見えないくらい小さいのに大きく成長し膨らませることができることが語られています。続けて、天の国のたとえとして、畑に隠されている宝、高価な真珠、魚を捕る網に入った魚、天の国のことを学んだ学者について語られ、その後、洗礼者ヨハネの死についての報告が記されています。ヨハネの弟子たちは洗礼者ヨハネの遺体を引き取って葬り、主イエスのところに行って報告しています。天の国が語り尽くされて、その後、ヨハネの死が報告されているのです。マタイによる福音書の重要なメッセージがここにあると思います。獄中でありましても洗礼者ヨハネは天の国の救いに与ったのです。弟子たちを通して、主イエスがお語りになった天の国を思い巡らしているのです。ヨハネを捕らえたヘロデ王は、罪のないヨハネを牢獄に入れても、ヨハネの罪の指摘から解放されませんでした。ヨハネを殺そうと思って民衆を恐れていました。民衆はヨハネが預言者だと思っていたからです。民衆も恐れていたヘロデには天の国は見えないのです。しかし、獄中のヨハネには天の国がここにもあそこにも見えるようになったのです。そして、神の御救いの中で神の御許に帰って行ったのです。

主イエスにつまずかない人
 主イエスはヨハネへの返事の最後に「わたしにつまずかない人は幸いである。」と語りました。主イエスにつまずかない人とは誰のことでしょうか。洗礼者ヨハネのことと理解してよいのではないでしょうか。この地上の主イエスの愛の御業を通して、天の国を見て、主イエスを神と信じることが出来る人こそ、主イエスにつまずかない人ではないでしょうか。ヨハネは主イエスの十字架刑の前に死を迎えました。ヨハネは主イエスの復活も知りませんでした。主イエスの十字架と復活の出来事の前に主イエスより先に死んだのです。主イエスの十字架と復活を知らずに死んだ人々の救いの問題が、主イエスによって示されていると思います。
 洗礼者ヨハネは旧約聖書の預言者たちのように時の王に対しても厳しく神の審きを語りました。ヨハネは荒れ野で生活し、人間の罪に対する神の怒りが差し迫っていることを語りました。そして、悔い改めを求め、悔い改めの印として洗礼を授けていました。神が罪人を滅ぼし尽くす時が近いと考えていました。ヨハネの考えでは、喜んで罪人を赦し罪人と会食をする主イエスと同じ神の裁きを語っているとは受け入れられなかったのではないかと思います。主イエスの伝道とヨハネの洗礼運動とは矛盾しているように思えたかもしれません。ゆえに、「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか。」と聞いた時、ヨハネは洗礼運動で語った神の審きはどうなったのか考えていたと思います。神の裁きを厳しく語り続けた洗礼者ヨハネは、罪人と喜んで食事をする主イエスとの大きな違いをどのように乗り越えたのでしょうか。
 ヨハネの弟子たちには直接語っていませんが、本日の御言葉の7節以下、ヨハネの弟子たちが帰ったあと、主イエスが群衆にヨハネについて語られた言葉から、主イエスがヨハネの洗礼運動と主イエスご自身の伝道が決して矛盾しないことをお語りになっていることが分かります。
 主イエスは洗礼者ヨハネについて、11~13節でこのように語っています。
「11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。 13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」主イエスは洗礼者ヨハネを最後の預言者として説明し、地上における最も偉大な者として認めているのです。これ以上の評価はないほどのお言葉です。しかし、天の国で最も小さな者でも彼より偉大であるということは、天の国の恵みがどれほど大きな恵みであるかが記されているのです。難しい言葉は「12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」です。代々の預言者たちが天の国を真剣に求め、戦いの末、いまや預言者たちが天の国の救いを獲得しようとしていると理解したいと思います。
 洗礼者ヨハネの洗礼運動は、救い主を指し示し、天の国への道を開いたのです。主イエスはヨハネの洗礼を自らお受けになって、ヨハネと同じ言葉「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語って福音を宣べ伝えたのでした。(マタイ 4:17)ヨハネの洗礼運動によって、神の救いの道が開かれ、主イエスによって愛され招かれるのです。洗礼者ヨハネが語った神の審きは主イエスの十字架のよってコインの裏表のように一つになるのです。救いなき審きではなく、神の審きを通して主イエスによる救いが完成するのです。天の国は近づいた。
8月、悔い改めて福音を信じて天の国を見つめつつ歩みましょう。