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銀座の鐘

「わたしのもとに来なさい」

説教集

更新日:2024年08月10日

2024年8月11日(日)聖霊降臨後第12主日 銀座教会 主日礼拝(家庭礼拝) 副牧師  川村 満

マタイによる福音書 11章25~30節

 本日与えられました御言葉において、主イエスは讃美の祈りをささげております。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」主イエスはここで、大きな喜びに満たされて、父なる神に賛美をささげているのです。嬉しいのです。なぜ、嬉しいのか。なぜ、喜んでおられるのか。父なる神の御心が、地上に成っているからです。神の国が成り始めているからです。この地上において神の国が成る。そのとき、最も喜んでおられるのは、主イエス御自身であり、また天の父も、天において喜んでおられる。それは、罪を犯して神の御下から離れていた人間が、主の御下に集まり始めているからです。主イエスを信じ、主イエスの命に与り、御国の民とされているからです。そして、この主イエスと天の父なる神の喜びの中に、わたしたちを招き入れるために、主イエスはこの地上に降りてきてくださいました。その御業が成就し始めているからです。
 しかし、その救いの御業が、知恵ある者たち、賢い者たちには隠されて、幼子のような者たちに先ず示されていった。そこに、天の父の御心があるというのです。なぜ、神は、知恵ある者たちに隠されたのか。それは、その人間的な知恵をもって救われるわけではないこと。救いが徹頭徹尾神の御業であることを示し、ただ神のみがあがめられるためではないでしょうか。コリントの信徒への手紙一の1章で使徒パウロがこのように語ります。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無力なものを選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。」とあります。そしてそれは、誰一人神の前で誇ることがないようにするためです。と言います。
 このパウロの言葉は、コリント教会の人々にも、表れていたのですが、先ず、主イエスの弟子たちにおいてあらわれていた。主イエスの弟子たちは等しく、無学で、知恵のない者たちでありました。しかし、主イエスは彼らを選び、律法学者やファリサイ派たちを乗り越えて、主イエスの栄光と恵みに与る者とされたのです。ここに神の御心がある。神が愛であるということは聖書がわたしたちに伝える最も大きなメッセージです。神のご性質は、ほかにも、御栄光。義。などあります。神の栄光。神の義。しかし。神がまず愛なる神として私たち罪人に働いてくださったということ。それは御自身の御子を、私たちと同じ人間の姿でこの地上にお送りくださったということから何よりもよくわかるのです。主イエスこそが、誰よりも偉大なる神の御子であられるのに、その意味で、ファリサイ派の人々の誇りよりも、世のどんな賢者の誇りよりも、誇り高き方であり、高貴なる方であり、また誇るべき根拠のある王の中の王であるにもかかわらず、その誇りを捨てて人となられた。そして、罪のゆえに、みじめに苦しむ全ての人間と伴ってくださったのです。私たちは、誇りというものをどれだけ知っているでしょうか。人間的な誇りというものは知っているのではないでしょうか。たとえば、会社などで昇進して、より責任のある部署を任せられたりすると、やはり嬉しいと思います。他人の自分を見る目も変わります。会社からそこまで認められたなら、よしもっと頑張ろうという気持ちになります。あるいは、自分でなくても、大切な友人が。あるいは自分の息子や娘が活躍して有名になったりするなら、自分もまた誇らしい、嬉しい気持ちになるのではないでしょうか。そういうところにも、わたしたち人間が、神のかたちを持ち、神の御栄光を憧れ、心から求めているということがわかるのではないでしょうか。しかし、人間はその罪のゆえに、誇りというものを神に帰さず、自分に帰してしまうのです。自己完結し、自分を誇り、自分を喜ぶという性質をもってしまうのです。そこに全ての人間の、虚栄があります。主イエスは、本当に神を神とすること。天の父を誇りとし、喜びとすることにおいても、わたしたちの模範となってくださいました。というよりも、主イエスは神でありましたから、その三位一体なる神の愛の交わりの中で、天の父をほめたたえることは何よりの喜びであったのであります。主イエスはこの神の御心が成る喜びの中で、御自身が地上における救いの全権を担う者とされていることを喜んでおられます。「すべてのことは、父からわたしに任せられています」。
 しかし同時にこの主イエスの為される人間の救いの道には主イエス御自身の十字架という、大いなる犠牲が伴います。主イエスが十字架で苦しみ、わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、と叫ばれた時、主イエスの苦しみ、悲しみと同時に、天でも、父なる神が、大いなる苦しみ、痛みを受けておられたことを、ある日本の神学者が語っておりました。しかし、そうまでして、神が、全力をもって苦しまれ、痛みを覚えられるほどに、わたしたち人間が罪とサタンの力から解放されて、永遠の命を与えられ、御国の民とされることを、神御自身が心から喜ばれたのです。神が、まず何よりもこのわたしたちを宝の民として見ていてくださっている。わたしたち人間を誇り、造られたことを後悔せず、救い取ろうとしてくださっている。それほどに、私たち人間は尊いのです。人間の尊厳の根拠。それは偉大なる栄光の神を讃える者として造られたからです。従って神を知らず、神などいないとのたまうところで人間の尊厳だけを語っても、力がないのです。喜びもないのです。真のヒューマニズムは、神の栄光あってこそなのです。この神の栄光の中に。神の喜びの中に、天の父と、主イエスの愛の交わりの中に、私たちを永遠に招き入れてくださる。さあ、来なさい。わたしのもとに来なさいと招いてくださる。その招きに与るとき、わたしたちは神の国の民とされます。命の書に名が記されるのです。永遠に、主を讃美する者とされるのです。ここに人間の生きる目的があります。命の意味があります。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」主イエスのことを本当に知っておられるのは、ただ天の神のみです。わたしたち人間は、天の神のことも主イエス・キリストのことも全く知りませんでした。しかし、主イエスが示そうとする者には、天の父を知る道が拓かれる。つまりここに集うわたしたちは皆主イエスによって招かれてここにいるのです。あるいはまだ信仰を告白してはいなくとも、今日ここに集う方々は皆、主イエスによって天の父なる神の御下に招かれているのです。わたしたちが神を知るというとき、主イエスを通してでなければ本当に知ることはありません。そして、主イエスが私たちを選んでくださらなければ、神を信じ、教会に集うこともないのです。ですからわたしたちは今日、改めて新しい言葉としてこの御言葉を主イエスから聞くのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」これは全ての人が招かれている神の国への招きであります。しかし、その招きに与るために、皆さん一人一人が、その招きに答えることが求められております。この招きの言葉を聞いて皆さんはどうお感じになるでしょうか。初めて聞く方でも、何か、ほっとするような、砂漠の中のオアシスに来たような、そういう思いを持つのではないでしょうか。わたしが以前務めておりました、信州の諏訪教会の外にあった掲示板に、この御言葉を掲げておりました。掲げておりましたけれども、とても小さく、皆さんにお渡ししている拡大聖書のプリント用紙よりも小さく、説教題看板と、心の友という月刊誌を張っている、そのすみっこに小さく貼っておりました。でもその御言葉を読んで、教会に来られて、洗礼をお受けになった方がおります。この御言葉には確かな力があります。なぜならここにある主イエスの御言葉は信じるに足る真実であり、救いへの招きの言葉であるからです。
 なぜ、この御言葉がわたしたちにとって魅力的な言葉なのか。ほっとする言葉なのか。それは、誰もが、人生に疲れているからではないでしょうか。誰もが、何かしらの重荷を背負って生きているからではないでしょうか。老いも若きも、皆、重荷を負っているのです。若いころには若いころの特有の悩みがあります。中年、壮年にも、そして老年にも、人生の重荷はついて回ります。どうすればその重荷が取り除かれるのか。長い休みを取って温泉にでも行くことによって、ああ疲れが取れたと思うものでしょうか。確かにそういう休みもわたしたちには必要であります。しかし、そういう休暇や、旅行や、趣味や、あるいは酒を飲むなどということで、本当にわたしたちの人生の重荷は取り除かれるでしょうか。それらは時にわたしたちの心を潤し、良い休暇は新たな力を得させることもあるかもしれません。愛する友と酒を酌み交わすことを神様は許してくださっておりますし、度を越さない程度にそのようなことを楽しむことは、決して悪いことではありません。けれども、それらが、今ここに、御言葉を求めて集うことの代わりにはならないのであります。なぜなら、ここで主イエスがおっしゃる重荷とは、それは本当に多種多様でありますけれども、やはり、その根本にあるのは、罪であるからです。罪、という言葉を聞くと、違和感を覚える方もおられるかもしれません。わたしは犯罪を犯したり、人様に迷惑をかけたりしたことなどないと思う方もおられるかもしれません。しかし聖書が語る罪とは、第一に、そういう、あれやこれやの罪を指しているのではなく、命の神との断絶。神を知らず、神に栄光を帰すことのない人間の状態を表しています。そのような、人間のもつ人生の全ての悩み、苦しみのその根本には、愛の神。命の神との断絶があります。神に生かされている者。神に創造された者である人間が、神から離れて、失われた存在となっていた。その状態が、罪なのです。そこから、あれやこれやの罪がこの世界を暗くしているのです。
古代教父と呼ばれる、キリスト教の神学の基礎をつくった人たちの中に、アウグスティヌスという人がおります。このアウグスティヌスという人の書いた「告白」という書物の最初に、彼はこのように語ります。「あなたは私たちを、御自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」アウグスティヌスによりますと、私たちの心が本当に安らぎ憩いを得るのは、神の御下に赴くときなのです。そして、それはまさにこの礼拝をささげている、この時なのであります。わたしたちは、この御堂で、共に神を仰ぎます。主イエスの十字架がこの御堂に掲げられております。この十字架は誰のためか。あなたのためなのです。ここに集う皆さん、一人一人のために、主イエスが、その罪を全て担って苦しみ抜いてくださった。ここに、わたしたちの罪の赦しと、神との平和が実現しているのです。ですから、私たちは多くの重荷を負いながらも、人生において、あらゆる悩みを、苦しみを、悲しみを持ちながらも、この主イエスの十字架の御下に、重荷を置くことができる。わたしたちの最大の重荷である罪がここに取り除かれていることを知るとき、さまざまな重荷を持ちながらも、今日を生きる力。前を向く力が与えられます。なぜなら、罪の赦しと共に、主イエスがわたしたちの人生の全てに責任を持ってくださったからです。わたしたちがキリストにおいて神のものとされたからであります。
 しかし、ひとつ、考えたいことがあります。主イエスはここで言われます。「私は柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」わたしの軛を負いなさいと言われるのです。軛とは何か。軛とは牛や馬が、畑を耕すときに、二匹をつなげて同じ足取りで耕すためにつなげる道具です。ですから、軛というものは、労働と結びつけて考えられる。休ませてあげようと言いながら、それでは休めないではないですか、と言いたくもなります。でも、考えてみたいのです。わたしたちの人生はいつも途切れることなく続きます。十分な休暇を取ったとしてもそこでも悩みを抱えながら過ごすこともあります。主イエスが与えてくださる軛は、主イエスと共に働き、前を向いて歩む中で与えられる安らぎです。主イエスがわたしたちと一つになってくださる。私と軛を共にして同じ歩調で歩んでくださる。だから、心強いのです。心安らぐのです。主イエスと軛を共にするとき、わたしたちは不完全で、罪深く、ダメなままであっても、主イエスがわたしたちの人生を担ってくださっているのです。主イエスは柔和で謙遜な者であると言われます。それは本当のことであり、それが主イエスの神の御子の性質でありました。誰も真似できない柔和と謙遜が主イエスの内にあります。その主イエスが、礼拝においてわたしたちに奉仕してくださいます。わたしたちの心に語りかけられます。わたしのもとに来なさい、と。主イエスが、わたしと天の父の愛の中に入りなさいと言って招いてくださっている。この招きに与るとは、洗礼を受けるということです。主イエスの十字架がわたしの罪のためであると認めて、主イエスの御血潮によって赦されると信じるのです。この信頼の生活へと主イエスは何度でも何度でも、わたしたちを招き続けてくださいます。この主イエスの招きに従って、主イエス・キリストを通して、天の神を、父よ、と呼ぶ。キリストにある者とされていきたいのです。お祈りをいたします。

 天の父なる神様。わたしたちをこの御堂へと招いてくださり感謝いたします。また、この御堂に集うことのできない兄弟姉妹も、共に、文書を通して。またオンラインを通して礼拝に与ります。そこにあなたが共に生きてくださり、その重荷を十字架の下に置くことをゆるしてくださいます。主なる神様。わたしたちの罪の重荷を、さまざまな悩みや、不安を。憂いを、あなたが担ってくださいますように。あなたは私たちを心から愛し、尊いものとしてくださいました。主にあってわたしたちの人生は皆、意味のあるものとなりました。喜ばしきものとなりました。あなたが、わたしと今日も生きてくださいます。全てをゆだねて歩む信頼の心を私たちに確かにお与えください。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン