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銀座の鐘

「主イエスの癒やし」

説教集

更新日:2024年08月25日

2024年8月25日(日)聖霊降臨後第 14 主日 銀座教会 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書12章22~32節

 皆さんと共に心を合わせた讃美歌121番「馬槽のなかに」は、1節から4節まで、「この人を見よ」と賛美しました。「この人」とは主イエスを指し示しています。飼い葉桶に生まれたばかりの主イエスです。大工の父ヨセフと共に働く主イエスです。伝道を開始した頃汚れた人々、虐げられている人々の友となった主イエス、友なき人の友となった主イエス、十字架刑に処せられ、十字架上で執り成しの祈りを祈る主イエスです。敵を愛せよと命じ、自らそのように生きた主イエス、この主イエスを見よと賛美しました。
 主イエスは生涯を通して、多くの人々を癒やされました。主イエスは愛の御業として、病に取りつかれた人を癒やされました。本日の聖書箇所は、主イエスが「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」が主イエスの所に来て、癒やされ、ものが言えるようになり、目が見えるようになったことが記されています。
 主イエスの癒しを見た群衆は、驚きとともに「この人はダビデの子ではないだろうか」といいました。ダビデとは主イエスの時代より、約千年も昔のイスラエルの王さまです。主イエスの時代の多くの人々はダビデの再来を待望していました。愛の業を行う主イエスこそ、イスラエルを統一したダビデ王の再来ではないかと思ったようです。
 しかし、当時の社会では最も影響力を持って、多くの人から尊敬されていたファリサイ派の人々は別の見立てをしました。ファリサイ派の人々は主イエスはダビデ王の再来などではなく、悪霊の頭ベルゼブルであると言いはなちました。これを聞いた普通の人々は驚いたことでしょう。悪霊を追い出し、苦しんでいた人々を救った主イエスは、英雄ダビデ王の再来ではなく、悪霊の親分だと聞いたのです。総計する律法の専門家であるファリサイ派の人々は、主イエスが悪霊を追い出した力の正体は、主イエスが悪霊の親分だからであって、悪霊の子分が親分のいうことをきいたにすぎないと説明しているのです。ファリサイ派の人々は、主イエスの評判が高くなり群衆の心が主イエスへ移ってしまうことを恐れて、主イエスの愛の業は悪霊の親分の仕業なのだと説明したのです。このファリサイ派の説明を聞いた人々は、主イエスにだまされて悪霊の親分に従ったら大変なことになると考えたのではないかと思います。
 主イエスは、ファリサイ派の人々の「考えを見抜いて」、彼らの説明を丁寧に検討しはじめました。主イエスはひと言で一蹴することをしないで、丁寧な議論を展開します。この問題は、信仰の問題として重要な問題だとお考えになったと思われます。
 第 1 に主イエスがもし悪霊の頭として子分の悪霊を追い出したとすると、悪霊と悪霊の「内輪もめ」ということになり、いづれ世界は悪霊の内輪もめで荒れ果ててしまうことになるのではないかと指摘します。第 2 に主イエスが悪霊の頭として悪霊を追い出したとすると「あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出すのか」と質問しました。主イエスを悪霊の頭と指摘することで、この世は悪霊が支配する世界であり、神の霊が存在しない世界なのかという質問です。神の霊以外に悪霊を追い出す力があるのかと迫っているのです。神の霊を棚上げして、悪霊の頭が悪霊を追い出しているというと、最終的に悪霊が支配者になり、悪霊が「あなたたちを裁く者となる」のではないかと問いただしているのです。
 ファリサイ派の人々は、主イエスを悪霊の頭ベルゼブルと説明したことから、こともあろうに信仰の指導者が神の霊を否定してしまったのです。あなたがたは律法の専門家として、人々の指導者として神の霊を否定してしまったことに気付かないのかと語っているのです。主イエスは「悪霊の内輪もめ」とか神の霊意外にどんな力があるか聞く姿勢など、大変ユーモアにとんだ議論を展開しています。
 悪霊を追い出すには、まずその家に入ったら「強い人を縛り上げ」「家財道具を奪い取ることができる」のだと語っています。神の霊こそが悪霊を縛り上げることが出来るし、悪霊を追い出す力であることを真剣に考えなければならないのです。悪霊を追い出す力は神の霊意外にないことを受け入れなさいと教えているのです。
 主イエスは、ファリサイ派の人々が主イエスは悪霊の頭だという批判に対して、決して感情的に怒ることもなく冷静に議論しています。そしてこの主イエス批判が、実は最も大切な神を否定していることに気付かせようとしているのです。この浅はかな批判は、誰よりも熱心に神を信じていると自他共に認めているファリサイ派の人々が、自ら神の霊、すなわち神の存在を否定していることになると教えているのです。
 ゆえに、「霊に対する冒瀆は赦されない」、「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と厳しく教えているのです。
 私たちはファリサイ派の人々のように主イエスを悪霊の頭呼ばわりはしないと思います。しかし、主イエスこそ悪霊を追い出す権威をもつお方であることを真剣に受け止めているでしょうか。神によってしか、悪霊を追い出すことは出来ないと考えているでしょうか。そもそも、悪霊を見くびっていないか。神の霊を軽んじていないか考えなければなりません。
 現代に生きる私たちは、現代科学と迷信の間で揺れ動くことがあると思います。重い病を得ると、すぐに迷信的な治療やご祈祷などキリスト教信仰とはかけ離れたものが近づいてきます。病が治らないのは祈りが足りないからだとか、薬だけに頼っていたら良くならないとか無責任な声に動揺することはないでしょうか。
 キリスト教信仰は、迷信とは無関係です。体調不良の時は、病院に行きます。必要な場合は輸血を否定したりしません。最先端の医療を受けつつも、主イエスの御言葉と癒しの力に信頼して、祈り続けることが大切です。私たちの命は神さまのものだからです。
 22 節にあるように、主イエス・キリストは目が見えない人、口の利けない人とつながっています。病の時も、私たちは主イエスに結ばれているのです。癒やされた人々も主イエスにつながっているのです。主イエスは、私たちの病を共に負ってくだるお方なのです。
 28 節「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と記されています。病によって全てのものから分断されているようにみえた者が、主イエスとの繋がりを信じることが出来るようになります。病の中で決して孤独ではなく主イエスが共におられのです。主イエスの癒しを通して、もはや病を恐れないのです。たとえどのような病でありましても、私たちを主イエスの十字架のつながりから引き離すことは出来ないのです。難病であっても私たちは神の愛から引き離されないのです。病を受け入れ、神への祈りに生きる道が与えられるのです。
 「神の国はあなたたちのところに来ている」という主イエスの御言葉の根拠は、何でしょうか。私たちの実績や言動によるのではないのです。そうではなく、主イエスが神の霊で悪霊を追い出しているからなのです。22 節において主イエスが悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出した事によって神の国が来ているのです。主イエスの愛の業、救いの御業、御言葉によって神の国、神の御支配が示されているのです。主イエスの御業によって神の国を先取りしているのです。なんという恵みでしょうか。
 主イエスを私の救い主と信じる信仰の中で、すでに私たちは主イエスの癒しを経験しているのです。主イエスの癒しの力は、私たちに与えられた信仰の中ですでに働いているのです。聖霊なる神が私たちの中で悪霊を縛り上げて、追い出し、聖霊の宮にしてくださいます。聖霊だけが私たちの心に働きかけ、信仰を与えてくださるのです。
 銀座教会のルーツであるメソジスト教会のジョン・ウェスレーは、18 世紀英国でメソジスト運動を指導し、伝道と共に医学書の出版、無料診療所の設立、病人の訪問活動、貧困者支援活動を行いました。魂のみならず、人間全体の救いを追い求めました。
 神は聖霊を通して、私たちの想像をはるかに超えて働き、救いの御業として信仰をお与えくださいます。9月を迎える一週間、皆さまの上に主の豊かな恵みが注がれることをお祈り申し上げます。