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銀座の鐘

「家 族」

説教集

更新日:2024年08月31日

2024年9月1日(日)聖霊降臨後第15主日 銀座教会 振起日 家庭礼拝 牧師 髙橋 潤

マタイによる福音書12章46~50節

 本日の御言葉は、主イエスが母マリアや兄弟姉妹たちと共に生活した家を出て、伝道を開始したころの出来事です。主イエスの家族については詳しく知る資料はありません。しかし、父ヨセフが主イエスの降誕以後、聖書にほとんど登場していないことから若くして召天したのではないかと想像されています。主イエスは父ヨセフに代わって家族を養う必要があり父の仕事を引き継いで家計を支えていたと想像します。主イエスがおよそ 30 歳くらいになり、弟たちも働くことが出来るようになって、いよいよ主イエスは家を出て伝道を開始したと思われます。
 主イエスの弟や妹が成長し、母マリアの了解のもと、主イエスは大工の仕事をやめて伝道を開始しました。ある日の事、伝道を開始した主イエスの所に家族が来たのです。主イエスが「神の国」について語っている所に、主イエスの家族が迎えに来るという出来事が今日の聖書箇所です。この記事はマタイによる福音書だけでなく、ルカによる福音書にもマルコによる福音書にも記されています。共観福音書全てに記されているということは、小さい問題ではなく、大切な出来事であるという事ではないでしょうか。この記事には初代教会が真剣に取り組んだ問題が隠されているのです。聖書が私たちに語り伝えている大切なメッセージを受け止めたいと思います。なぜ主イエスの母マリアと兄弟が主イエスの伝道の現場へ足を運んだのか、マルコによる福音書には詳しくその理由が記されています。マルコによれば、主イエスの身内の者が来たのは、主イエスが「気が変になって」いるといううわさを聞いたからです。伝道している主イエスが気が変になってしまって周囲の人々に迷惑をかけているのではないかと家族が心配したのでしょうか。誰かに迷惑をかけるくらいなら、家族の責任として主イエスを家に連れて帰らなければならないと考え「取り押さえに」来たのです。この出来事は、主イエスの頭が変になったという、主イエスを陥れようとする悪意ある噂が問題であって、主イエスがおかしくなったわけではないことが明らかになり、家族も安心して帰って行ったようです。これだけなら聖書に記されるような重大問題ではないはずです。問題は、悪い噂が真実ではないことを突き止め家族が安心して帰ったから解決したということではなく、この出来事から真の家族とは誰なのか、神の国の家族とは誰なのか、教会と家族の間で苦しむ人へ語られる福音について、新しい問題に取り組む事になったのです。
 この出来事は主イエスが伝道している神の国、天の国と実の家族をどのように受け入れたらよいのか、実は大切な問題なのです。初代教会の中で特に重要な問題でした。初代教会では、ユダヤ人キリスト者、異邦人キリスト者、ユダヤ教から排除された人々など様々な立場の人がいました。孤独の問題、家族の分裂も経験していました。現代でも家庭崩壊、家族の関係が崩れてしまうこと等、家族を巡る多くの問題があります。今は理想的な家族であるかもしれません。しかし、家族の危機はいつ訪れるのか分からないのです。家族を支える地域の秩序が崩れ、国家が問題をかかえることもあるのです。

主イエスの家族に対する言葉
 主イエスが伝道集会中、家族が外に立っていますと、伝言を受け取ります。私たちでしたら、集会が終わるまで待っていてくださいとか、何かしらの配慮をもって返事をすると思います。しかし、主イエスは、外に顔を出すことも、伝言に答えることもしていません。
 48 イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」
 この主イエスの対応と御言葉を私たちはどのように聞いたら良いのでしょうか。外に立っている家族は、「お話ししたい」と主イエスに会うことを求めていました。わざわざ家族が来たのだし、おかしな噂も流れていることを知っていたら、中座して家族のところに行って安心させても良いと思う方もあるでしょう。仕事中に席を外すことは出来るわけがない、なんで来たのだと怒って無視するという人もいるだろうと思います。しかし私たちの考えるような対応ではなく、主イエスの対応をしっかりと聞き取りたいと思います。
 主イエスは、少年時代以降、両親に仕えて生活していました。そのことを示す聖書の御言葉があります。「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。」(ルカ 2:51)とあるように主イエスは両親に仕えて暮らしていました。 母マリアや弟や妹に対して、あなた方のことは知らないという家族無視の態度で、「私の母とはだれか」という言葉を語ったのではないことはいうまでもないことでしょう。聖書に御言葉を丁寧に読むと、主イエスが語った「わたしの母とは誰か」という言葉は、直接母マリアへ語っているのではなく、伝言を伝えた人、そして弟子たちに対して、集まって主イエスの御言葉を聞いている人々に対して語られていることが分かります。主イエスの言葉は主イエスの家族に聞こえていたかもしれませんが、主イエスの言葉を聞いた家族も主イエスをよく理解して受け入れていたと思います。ゆえに主イエスは家族を捨てるような気持ちで語ったのではなく、家族を含めて、神の家族こそ神の国へ招かれていることを伝えようとしていると読みたいと思います。
 主イエスは、家族をないがしろにしたり、家族か弟子か二者選択を迫るお方ではありません。そうではなく、神の国へ家族も弟子も群衆も皆を招いているのです。私たちは、身内びいきをしないように過剰に自己卑下したり、家族を低く評価したりすることがあります。逆に家族を特別扱いすることもあります。しかし、主イエスは、弟子たちに対しても肉親である母、兄弟姉妹に対しても同じように神の国を指し示しているのです。

「見なさい。ここに」
 主イエスの家族は、家族としての立ち位置として、主イエスの伝道を妨害することも応援することもなく、「外に立つ」姿勢をとっていました。しかし、主イエスは家族だからといって特別扱いをしませんでした。しかし、無視していたのではなく、周囲にいる人々をあなたも私の家族ではないかと神の国へ招きのことばを伝えているのです。
 使徒言行録には、主イエスの十字架と復活のあと、主イエスの家族が主の弟子たちと共に、心を合わせて祈っている、聖霊降臨直前の祈祷会が記されています。「14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」
(使徒 1:14)と主イエスの兄弟たちはエルサレムで、ある家の2階に集まり弟子たちと共に心を合わせて祈っていました。特に主イエスの弟ヤコブは初代教会において重要な役割を持つようになり、エルサレム教会の指導者となったと伝えられています。
 ヨハネによる福音書には、母マリアは主イエスの十字架のそばにいたことを記しています。「25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」(ヨハネ福音書 19:25-27)主イエスを外から眺め、批判し、たしなめる、そういう姿勢をとることもあったと思いますが、そのような主イエスの家族も招かれ、主イエスの弟子たちと心を合わせて祈る場へと導かれたのです。
 私たちも主イエスを外から眺める姿勢をとることは、誰もが心当たりのある姿勢ではないでしょうか。主イエスに対して外に立つ姿勢のままでは、自己中心のままなのです。しかし、主イエスの外に立つ者が、主イエスを救い主として信じ、祈り礼拝する姿勢へと導かれるのです。外に立つ者から主の御心を聞く者へ変えられるのです。

「天の父の御心を行う人」が家族
  「49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」 「弟子たちの方を指して」は口語訳では「弟子たちの方へ手をさし伸べて」と訳されていました。聖書協会共同訳では「弟子たちに手を差し伸べて」と訳され、差し伸べてという訳が復活しました。主イエスの弟子たちへの招きは指さしという軽い仕草ではなく、主イエス自ら弟子たちに近寄って手を伸ばし、主イエスが弟子たちの手を握って招いたのです。主イエスの招きは来ても来なくても良いという軽い招きではなく、主イエスの方から私たち一人一人のところまで近寄ってきて手を差し出してくださるのです。手を差し出してくださる主イエスは、私たちを家族として迎えてくださるのです。主イエスは私たちに対して、あなたは私の本当の家族になるのだと招いてくださっているのです。この招きに応えることによって神の国の一員となるのです。神の国の一員になるということは、肉親を捨てなければならないということではありません。私たちを招いてくださった主イエスは私たちの家族にも手を差し伸べてくださるのではないでしょうか。主イエスは「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と語られました。主イエスだけが神さまを「わたしの天の父」と呼ぶことの出来るお方です。私たちは主イエスを通して天の父の御心を知ることができます。私たちは近づいてくださった主イエスのそばから離れず、主イエスの言葉、愛の業を見ることが出来るのです。主イエスのそばで神の御心を知る者とされるのです。主の招きに感謝して従いましょう。